12 幼き日の思い出
まだ妖が見えなかった頃のことだったと思う。
しっかりした子ね、と小春姉が言われているのを、幼いわたしはぼんやりと聞いていた。
そうか、姉はすごいんだ。わたしと一歳しか違わないのに。
わたしが貶されていたわけではない。周りの大人たちは、純粋に姉の才覚だけを褒めていたのだ。
それでも、妹には褒めるべき点がないということに、幼子は気づいてしまう。
そこで努力すればいいのだろうけれど、子供はそう簡単には変われない。
家族らがせわしなく働いているところを遠目に、幼いわたしはそっと家を抜け出した。
当てがあったわけではない。ただ、この家に自分がいてもいいのかなという疑問が、消えなかった。
向かったのは、家の近くの神社。今になって思えば、家からすぐ近くだけど、子供の足にはとても遠い場所だ。加えて普段は誰も来ないような場所。
境内の裏に座り込んで、木々が揺れる様をぼんやりと見ていた。
何か特別な才能があったら良かったのに。
そんな考えが、頭の中を巡る。
その時だった。表の方から、何やら声が聞こえる。
不思議に思って、そっと表を覗き込むと、男の子が尻餅をついたかのような恰好で座り込んでいた。
わたしより少し年上に見える。さらりとした髪の毛は日向の元で光り輝いていて、でも俯いているから表情は伺い知れない。傍に転がっている木刀は、彼の物だろうか。
普段のわたしだったら、知らない人に声などかけられなかっただろう。だけど、彼のまとう空気があまりにも悲しそうで、気づくとわたしは彼の元へと歩み寄っていた。
わたしに気づいた彼が、顔を上げる。視線がかち合って、わたしはその眼から目を離せなくなった。
「おそらみたい……」
その両目は、夏の空を映したように澄んだ青をしていた。
わたしの言葉に、彼はふいっと顔を逸らしてしまう。だからわたしは顔を向けた方に座ったのだけれど、今度は反対側に逸らされてしまった。
「ここでなにをしてたの?」
そう尋ねるけれど、彼は答えない。脇に転がっていた木刀を拾い上げて、手持ち無沙汰にしている。
「ちえこはね、いえでしてきたの」
何とかして、彼をこの場に留めたいと思った。何か話しておかなければ、彼が消えてしまう気がした。
「ととさまも、かかさまも、こはるねえもすき。だけど、わたしはなにもできないから……。いなくてもいいんじゃないかなって」
初対面の子にこんなことを言われても、困らせてしまうかもしれない。
だけど幼いわたしは、彼を引き留める方法を他に知らなかった。
「きらいだって、言われたのか?」
それが彼からの返事だと気づくまでに、少し時間を要した。
隣を見てみると、彼は前を向いたままで、ともすればわたしに言ったわけではないのかと思えてしまう。
だけど周囲にわたし以外の子はいないし、疑問形の言葉はひとり言とも思えない。
「ううん。みんな、ちえこのこと、すきだっていうよ」
「ならいいじゃないか。お前はだれにもきらわれてないんだろう?」
彼の言葉に、わたしは少し考え込んだ。
言われてみれば、たしかにそうだ。わたしが優れていなくても、誰も嫌いなどとは言ってきていない。
「そっか、おにいちゃんのいうとおりだ!」
たちまち笑顔になったわたしに、彼は呆れ顔でため息をついた。
「子どもは単純でいいな」
「おにいちゃんはこどもじゃないの? たんじゅんってなに?」
矢継ぎ早に尋ねるわたしに、彼はますます呆れ果てる。
「簡単ってこと」
「おにいちゃんは、むずかしいの?」
「ぼくの家は、複雑だから……」
複雑の意味がわからなかったけれど、悲しげな表情になってしまった彼に、質問を重ねることはできなかった。
「ちえこはかぞくのこと、すきだよ? それじゃだめ?」
袖をきゅっと掴んで、彼を見上げて言う。
視線がかち合った彼は、目を見開いていた。
「ぼくが、好きなら……」
「うん、そうだよ! ととさまと、かかさまのこと、すき?」
「……うん。おとうとのことも、好きだ」
ぎゅっと膝を抱えて、俯きがちに彼は言う。
弟がいるんだ。きっとその弟も、彼のことを好きだろう。直感的にそう思った。
だって、こんなに想ってくれているお兄ちゃんなのだ。
わたしが小春姉を嫌っている、なんて小春姉に思われていたら、すごく悲しい。「ちがうよ!」って、すぐに伝えにいきたい。
「おにいちゃんのきもちが、ちゃんとつたわるといいね」
そう言ったわたしに、強張っていた彼の表情が緩んだ。温かな笑顔に、わたしの心まで温かくなる。
それからわたしたちは、本殿の階段に座って、いろいろな話をした。
打ち解けてみれば彼は話し上手で、日が傾き始めるまで二人で過ごしたのだ。
あの子とは、どうやって別れたんだっけ……?
*
大烏の鉤爪に、わたしは成す術もなく、ただぎゅっと目を瞑ることしかできなかった。
だけど、待てども痛みは襲ってこない。
そっと目を開けると――。
「ご無事ですか、千枝子さん」
倒れ込んだわたしのすぐそば、大烏から守るようなかたちで、至恩様が立っていた。
大きな背中に、安堵の気持ちが湧き上がってくる。
手にはあの文月という青い鞘の刀。
大烏を警戒しつつも、心配そうに向ける至恩様の右目は――空のような青に染まっていた。
どうして忘れていたのだろうとか、力を使っているときはあの色になるのかしらとか、疑問が浮かぶけれど、それどころではない。
大烏は小春姉の頭上、わたしたちから距離を取っていたけれど、脅威が去ったわけではない。
「あの神社で会った妖ですね。手ごたえがないとは思いましたが……倒し切れていませんでしたか。すみません、私の落ち度です」
この場面でも冷静な至恩様に、わたしも少し落ち着きを取り戻せてきた。
至恩様には、あの妖が見えないのだ。わたしがしっかりしなければ。
小春姉と大烏を繋ぐ、細く黒い光のようなものが見える。
「あの時よりも、やや小さくなったような気がしますが、小春姉と黒い光の糸で結ばれているように見えます」
「斬られて弱体化したけれど、小春さんに取り憑いて、生気を吸い取っているのでしょう」
やはり大烏は小春姉を利用していた。力を吸い取っているって……このままじゃ、小春姉の命が危ないということ?
「あの妖を退治できれば、小春さんも正気を取り戻すはず。千枝子さん、ご協力願えますか?」
「もちろんです」
問うまでもない。力強く頷くわたしに、至恩様は不敵な笑みを浮かべた。
大烏へと向き直り、刀を構え直す。と同時に、大烏が降下を始めた。
「右です! 今!」
わたしの声を合図に、至恩様は刀を一薙ぎ!
だけど大烏はぎりぎりを避けてしまう。
それを感じたのか、至恩様は返す刀で大烏に一撃を加えた。
今度はしっかりと攻撃が入り、大烏は体勢を崩しながら距離を取る。小春姉の傍に寄ると、光の糸の黒が濃くなった。
するとどうだろう、小春姉の顔色がどんどん青白くなっていくではないか。
「いけない! 小春さんの生気を吸い取って、回復するつもりです! このままでは小春さんの命が危ない……何とか小春さんを正気に戻せればいいのですが……」
そんな! どうしたらいいの……?
焦るわたしに、至恩様は続ける。
「小春さんに呼びかけ続けてください。妖には、私が気配を読んで、どうにか致命傷を与えますから」
言うと同時に、大烏が動いた。
どうやら至恩様は、妖の気配だけは読めるらしい。大烏の攻撃をすんでのところで躱し、刀を振るう。
だけど掠ることしかできず、有効な一撃とはならない。やはりわたしが合図を送らねばならないのだろう。
「でも……」
わたしのことを嫌っている小春姉に、わたしの声が届くの?
小さいときから、好きだと言っていたのに……。
「あっ……」
心に刺さった棘が痛み始めたところで、あることを思い出した。
あの子――幼い日の至恩様は、言ってくれたではないか。
家出したあの日、帰ったわたしはすぐに小春姉の元に行ったのだ。至恩様に言われたことを、伝えるために。
「小春姉!」
あのときと同じ。ぎゅっと自分の手を握り込んで。足を踏ん張って。
貴女がわたしを嫌いでも、変わらない気持ちが一つある。
「千枝子は小春姉のことが好きだよ! 小春姉が千枝子のことを嫌いでも構わない!」
そう伝えたときの小春姉がどんな顔をしたか、今なら思い出せる。
たとえ今はあの日の小春姉の気持ちが変わってしまっていたとしても、わたしの気持ちは変わらないから。
同じ言葉を、今こそ伝えよう。
「そ、んな……」
小春姉の口から、か細い声が漏れる。
金に染まっていた瞳が、黒曜石のような元の色に戻っていく。
「嫌いなんて、そんなこと……あるわけないわよ……」
小春姉の目には、わたしがしっかりと映っている。記憶と変わらないその言葉に、涙が溢れそうになった。
大烏と小春姉を繋いでいた光の糸が、ふっと消える。それと同時に小春姉は気を失ったのか、倒れ込みそうになり、慌てて駆け寄った。
間一髪、支えることはできたけれど、大烏の甲高い鳴き声にはっとなった。
力の源を失った大烏が、もんどり打って床の間の前に落下していく。
至恩様は大烏の元へと踏み込む。
「千枝子さん! 指示を!」
「そのまま真っ直ぐ! 花瓶の前です!」
そして刃が振り落とされる。一刀両断された大烏は、煙のように消えていった。
やったの……?
「完全に気配が消えました。これで終いです」
至恩様は、そう言って刀を納めた。
腕の中の小春姉は、穏やかな寝息を立てている。
温かな体温に、ようやく心が落ち着くのを感じた。




