11 小春姉の来訪
「それでは行ってまいります」
翌朝、わたしの学校はお休みだけど、仕事の至恩様を見送った。
さてと、お義母様のお稽古の時間までに、蒼柳さんたちの家事を手伝いにいかなきゃだけど……。
昨日、蒼柳さんに曖昧に返事をしたわたしは、一人考えた。
至恩様のせいで、わたしに妖が見えるようになったとは、どういうことなんだろう。
小さいころから、妖が見えていた。
至恩様と初めて会ったのは先日の神社でだし、となると龍ヶ峰家のお方と何かあったということかしら。
……だめだ、全然記憶がない。
高貴なお方と面識があったのなら忘れないだろうし、仮にわたしが忘れていたとしても、父様や母様が覚えていると思う。結婚の流れになったとき、二人とも何も言っていなかった。
至恩様に直接聞いてみればいいのかもしれないけれど……。
「気軽に聞けることじゃ、ないよね」
夕食の席では、いつもどおりに見えた。いつもどおりの笑顔で、鯖に箸を進めていた。
あの笑顔を見たら、聞かれたことには答えてくれそうにも思える。
だけど、わたしに妖が見える理由も黙っていた人だ。浮かんでしまった不信感が、どうしても消えてくれない。
守ると言ってくれたことを、信じたいのに……。
「ごめんください」
そんなとき、玄関から声がした。
雪於さんたちでは、普通の人間の相手はできない。わたしは玄関へと急いだ。
「えっ、小春姉?」
玄関先では、日傘を畳んだ小春姉が立っていた。いつもの穏やかな笑みを浮かべて、わたしのことを見ている。
「どうしたの? 何かあった?」
「ちょっと顔を見たくなってね。上がってもいいかしら?」
「えぇ」
わたしは小春姉を客間へと通した。
小春姉に妖は見えないから、雪於さんがお茶を持っていくわけにはいかない。わたしは台所で雪於さんの用意してもらったお茶を受け取り、客間へと戻る。
「あら、お茶を淹れるの、随分早くなったのね」
「えっ? そ、そうかしら?」
実家にいたころ、妖の邪魔が入るせいで、わたしはお茶や料理の準備の手間が、壊滅的に悪かった。
今は普通にできるのだけれど、今日は雪於さんに用意してもらったから、すぐに出せたという事情もある。
妖のことは、小春姉にばれないようにしなきゃ。
小春姉は、静かにお茶を飲んでいる。今日は突然どうしたんだろう……?
「便りがないのは良い知らせ、とは言うけれど。あまりにも静かだから、心配していたのよ? 貴女のことだから、龍ヶ峰様に愛想を尽かされて、路頭に迷っているんじゃないかって」
淡々と話す小春姉に、違和感を覚えた。心配してくれているようだけれど、言葉尻にどこか棘があるような気がする。
「小春姉、何かあった?」
わたしの問いかけに、小春姉は微笑みを崩さない。よく知った表情であるはずなのに、なぜだか背筋がひやりとした。
「何もないの。なくなったの。貴女が結婚なんてしたから」
温度のない言葉。小春姉らしくない言い方に、わたしは答えることができない。
そんなわたしを見て、小春姉は自嘲気味に笑う。
「若松様との縁談が進んでいたことは、貴女も知っているでしょう? 貴女の結婚が早々と進められたから、保留にされていたのだけれど。この度、正式に破談となったの。『龍ヶ峰と結婚できるのであれば、妹の方が才覚あったのではないか』って」
今度こそ言葉を失った。
若松様は、上級士族の若松家のご長男で、昨年から小春姉との縁談が進められていた。桧垣の機織会社を継ぐための婿入りだ。
少し考えれば、わたしより小春姉の方が優れているとすぐわかるはずなのに。
小春姉は会社の経営にも携わっていて、社員の皆さんからの信頼も厚い。「小春がいるから会社も安泰だ」は父の口癖だ。
「本当に……貴女がいるから、私は損ばっかり」
「小春、姉……?」
「貴女がどんくさいせいで、いつも尻ぬぐいをさせられて。私がどれだけ貴女に迷惑かけてこられたと思っているの?」
頭を殴られたかのようだった。小春姉に、そんな風に思われていたなんて、想像もしていなかった。
たしかに、いつも小春姉に助けられてきた。わたしの失敗は妖のせいとはいえ、普通の人からしてみれば、わたしだけの失敗だ。
いつもいつも、小春姉に頼ってきた自覚はある。
それがこんなに負担になっていたなんて……。
妖に迷惑をかけられていると、自分ばかりが不幸でいる気でいて、周りを見ていなかった。
「会社のことだってそう。ずっと尽力してきたのに、急に現れた華族様が援助してくださるから、『お前は家に縛られなくてもいいんだぞ』って……。私はもう用済みってこと?」
わたしの結婚の際、至恩様は家業の支援をすると仰っていた。
実際にしていただけたようなのだけれど、父様は小春姉にそんなことを言ったのかしら。
誰よりも家のために尽くしてきたのは、小春姉なのに……。
小春姉の気持ちを想像すると、胸が締め付けられる。
「私だって、幸せな結婚をしたかった。努力してきたのは私の方なのに、なんで貴女ばかりが幸せになっているの? 家のために頑張ってきたのは私なのに!」
そう叫んだ瞬間、小春姉の背後から黒い影が飛び出した。風圧に思わず目を瞑ってしまう。
背中が壁にぶつかった衝撃で、一瞬息が止まった。
急いで目を開けると――。
「烏……?」
天井近くに、黒々とした烏が羽ばたいていた。
普通の烏ではない。羽を広げたその姿は、普通の烏の倍以上の大きさで、翼を羽ばたかせる度に、風圧で圧し潰されそうになる。
「これは……妖だ」
初めて至恩様に会ったときに見た妖に似ている。だけどあの時は、こんなに強い風を起こしはしていなかった。
「そうだ、小春姉は……」
ようやく周囲に意識を向けられるようになって、はっとした。
小春姉の目が、金色に光っているのだ。あの烏の目と同じ色に。
あの烏は、小春姉の背後から現れた。そのことと何か関係があるのだろうか。
「奥様! ご無事ですか!?」
襖の向こうから、雪於さんの声がする。襖が揺れるけれど、開かないみたいだ。
これもこの妖の力なのだろうか。
どうしよう……。どうしたらいい?
「奥様! 小生らはこの家から出られない! 母屋に当主か時雨殿がいればいいが……。どうにか呼んでくるから、それまで持ち堪えてくれ!」
そう言って蒼柳さんが走っていく足音がする。
誰か来てくれるまで、どうにか持ち堪えなくちゃ。
小春姉は、生気のない目で立ち尽くしている。妖が小春姉に何かしているのだろうか。
さっき言われたことが、棘となって抜けない。
小春姉は、ずっとわたしのことを疎ましく思っていたのだ。
「貴女さえいなければ……」
虚ろな目が、わたしを捉える。
手足を拘束されているわけではないのに、動くことができない。
「貴女なんていなければ良かったのに!」
小春姉の叫びと共に、烏がわたしに向かって急降下してくる。
鋭い鉤爪が、目前に迫っていた。




