第1話 「赤字は血で書かれている」
「選択してください」
空気に、文字が浮かんでいる。
薄桃色の枠。丸みのあるフォント。やたら可愛いのに、言っていることは物騒だ。
【選択肢A:彼を信じる】
【選択肢B:彼を疑う】
【選択肢C:沈黙する】
私は寝台の上で、半身を起こしたまま固まっていた。
視界の隅で、窓辺のカーテンが揺れている。月の光。石造りの部屋。刺繍の枕。
そして、ここが“乙女ゲーム世界”だと理解した瞬間、胃の底が冷えた。
なぜなら――私は編集者だったから。
(出た。分岐。しかも初手から心理誘導が雑……いや、これは“わざと”か?)
私は選択肢を見つめる。
Aは甘い。Bは疑心暗鬼。Cは保留。
どれもプレイヤーの心を揺らすための、よくある三択。
問題は、ここがゲームではなく「現実」だということ。
ドアの向こうから、足音。
硬い靴。迷いがない。
その足音が止まり、ノックが二回。
「ヒロイン様。失礼いたします」
女性の声。メイドだ。
彼女が扉を開けるより先に、また文字が浮かぶ。
【イベント:黒い手袋の男が来訪】
【フラグ:好感度+1(予定)】
(予定って何。そんなメタい注釈、入れる?)
私は喉の奥で笑いそうになって、飲み込んだ。
笑ってはいけない。編集者の癖で世界を見てしまうと、自分が“読者”側に立ってしまう。読者は物語を変えられない。
変えられるのは、書き手だけだ。
扉が開く。
入ってきたメイドは小柄で、顔色が悪い。彼女は私を見ず、床を見て頭を下げた。
「今夜、来訪者がございます。お父上より……断れと」
断れ、と。
父親の命令。
この世界の父親=貴族=権力。つまり、断るべき相手は“重要人物”。
(来訪者が攻略対象だな。断ればバッド。会えば別のバッド。そういう作り)
私は息を吐く。
編集会議の夜を思い出す。作者が「この展開、読者が求めてるんで」と言い、私は「でも主人公の動機が弱いです」と言い、売れるために動機を足した。
売れる物語は、キャラクターが自分の足で動く。
動かない主人公は、ただの駒だ。
(私は駒にならない)
メイドが震える声で続ける。
「断れば、明日の朝、庭で……“事故”が」
“事故”。
その言い方が、もう台本だ。
誰が死ぬか分かっている。メイドか。私か。あるいは別の誰かか。
その瞬間、選択肢が更新された。
【選択肢A:断る(安全)】
【選択肢B:会う(危険)】
【選択肢C:メイドを逃がす(不明)】
(安全って注釈まで付けてきた……プレイヤー誘導が露骨すぎる)
私は選択肢に手を伸ばした――わけではない。
そもそも私は、選択肢を選ぶための“入力装置”を持っていない。指で触れれば反応するのか? そんな仕様、聞いてない。
試しに、枠の外側を指でなぞる。
すると、文字の端がわずかに歪んだ。
(……編集画面みたいに、触れる?)
私は確信した。
この世界は物語だ。物語には原稿がある。原稿には誤字がある。誤字は直せる。
私は指先に力を込めて、【安全】の二文字をつまむように引っ張った。
紙を剥がす感触。
いや、紙ではない。空気から、薄い膜を剥ぎ取る感触だ。
――ぺり、と。
【選択肢A:断る( )】
括弧の中が空白になった。
同時に、頭の奥がズキンと痛んだ。
視界が一瞬暗転し、耳鳴りが走る。
メイドが息を呑む。
「……ヒロイン様? 今、何か……」
私の指先から、赤いものが落ちた。
血だ。
指の腹が切れているわけではないのに、血が滲む。
私は理解した。
(赤字は、血で書かれてる)
直せる。
でも、直すたびに代償がある。
代償は、たぶん私の存在そのものだ。
扉の外で、もう一度足音がした。
さっきより近い。
まるで――予定されていた進行が、私の改稿を無視して進んでくるみたいに。
文字が浮かぶ。
【警告:プロット修正を検知】
【修正者:篠宮いと】
【ペナルティ:存在感−1】
存在感。
削除フラグ。
私は深く息を吸って、笑わずに言った。
「……会うわ」
メイドが顔を上げた。「え?」
私は続ける。
「でも、台詞を直す。段取りも直す。誰も死なない進行に直す。――この世界が仕様だって言うなら、仕様ごと校正してやる」
そう言った瞬間、窓の外の月が少しだけ滲んだ。
世界が、私の言葉を嫌がっている。
それでも私は、血のついた指先を握りしめる。
編集者は、締切に追われても原稿から逃げない。
まして自分の命が原稿なら、なおさらだ。
扉の外で、ノックが二回。
そして、低い男の声。
「――失礼。今夜は、君に会いに来た」
私は笑わない。
笑わずに、選択肢の枠そのものへ指を伸ばした。
(選ぶんじゃない。書き換えるしかない)




