消えたサンジャク
死刑囚の最期の日、せめて出来る限りの慰めになればと教戒師は独房を訪れた。
死刑囚は語る。
「僕にとって心からの慰めになるのは、たった一つだけなんです。少しで良いので敬意を持って耳を傾けて下さる方に、僕の話を一から全部聞いてもらいたいんです」
「あまり時間は取れないのですが」と懐中時計を見ながら教戒師が言った。
身震いを押し殺し、死刑囚はこう語り始める。
「世間様の多くは、僕が自らの暴力的な行動のせいで、その報いを受けているとお思いでしょう。ですが実際のところ、これは僕が受けてきた教育と僕自身の性格における『専門性の欠如』のせいで、つまり僕は犠牲者だったのです」
「専門性の欠如、とは?」と牧師が口を挟む。
「つまり、もし僕がスコットランドのアウター・ヘブリディーズ諸島の動物相に精通した、イングランドにはあまりいないような人物として知られていたり、ポルトガルの詩人カモンイスの一節を原語で諳んじれるような人間だったら、あの危機的な状況でも、自分の身元を証明するのは難しくなかったと思います。それが、身元を明らかにするというのが生死を分けることになるとは……。なにしろ、僕が受けていた教育は『そこそこ良い』程度のもので、性格についても専門的なことを避けたがる一般的なものだったのですから仕方ありません。園芸や歴史、古い芸術家についても、世間並みの教養を多少は持ち合わせてはいますが、『ステラ・ファン・デル・ルーペン』が菊の品種なのか、アメリカ独立戦争の女傑なのか、それともルーヴル美術館に所蔵されているロムニーの肖像画の一点なのかを、諳で答えるなんて到底できませんよ」
教戒師は居心地悪そうに座り直した。こういう風に選択肢が提示されると、どれも当て嵌まりそうに聞こえて恐ろしくなってしまう。
「地方の医者の奥さんに恋をしていたんです……いえ、そう思い込んでいただけなのかもしれません」と死刑囚は続ける。
「どうしてそんなことになったのか、自分でも説明できませんが、思い返してみても、奥さんには内面的にも肉体的にも特に魅かれるところが無かったものですから。過去の出来事を振り返ってみても、僕の目に映っていたのは至極平凡な女性だったと記憶しています。ただ、医者もかつてはそんな奥さんに恋をしていたわけです。一人の男がそういう状況になったのですから、別の男がそうなってもおかしくはないでしょう? 僕が丁寧に接してくれるので、奥さんも喜んでいたみたいでしたし、そういう点で言うと、そのせいで僕は増長してしまったと言えるのかもしれませんね。ですが、隣人としての関心を超えた気持ちを、僕が抱いていたということは、奥さんも本当に気付いていなかったんだと思います。ああ、死を前にすると、人は正直になりたいと思うものなんですね」
教戒師が肯ずるように小声で頷く。
「いずれにせよ、医者が留守の時を狙って、あの晩、僕は『情熱』と思い込んでいた気持ちを奥さんに打ち明けたのですが、奥さんは心の底から慄いてしまいましてね。『二度と目の前に現れないで頂戴』と懇願するので、具体的にどうすれば良いのか、僅かな見当すら掴めていないまま、僕も同意する他なかったわけです。小説や劇なんかだと、よくある展開だというのは分かっているんです。例えば、ご婦人の心情や意図を推し量り間違えたら、逃げるようにインドへ渡り、辺境の地で何かをするのが定石でしょう? これからどう行動すれば良いのか明確な道筋も見えぬまま、僕は医者の家から延びる馬車路を躓きながらも歩き出していたんです。ただ、寝る前にタイムズ社の地図帳くらいは目を通しておかないとな、とぼんやり考えていました。その時ですよ、人里離れた街道の暗闇で、突然、死体に出くわしてしまったのです」
教戒師の関心がみるみると高まっていく。
「服装から察するに、遺体は救世軍の大尉のもののようでした。なにか大きな事故にでも遭ったのか、頭部が押し潰されて誰かも判別できないほどで、おそらく自動車事故で亡くなられたのだと思います。すると突然ですよ、圧倒的な勢いで、全く別の思考が押し寄せてきたんです。これは自分の身元を曖昧にして、あの医者の奥さんの前から永遠に姿を消せる絶好の機会だ、とね。遠く離れた土地を目指してわざわざ危険な航海に出る必要は無くなったわけですよ。そう、目撃者のいない事故の、誰かも判らぬ犠牲者と、衣服や身元を交換するだけで良いんです。かなり骨を折りましたが、死体から服を剥ぎ取って、改めて僕の衣装を着せることができました。この苦労を分かってくれるのは、薄暗い中で救世軍大尉の亡骸の着替えを手伝ったことのある人くらいでしょうね。
記憶は曖昧ですが、奥さんには旦那の家から離れて、僕の手で賄える程度の住居に移ってもらうつもりでいたので、ポケットには紙幣を大量に詰め込んでいたんです。額にすると、僕が直ぐに動かせる資産のうちの大部分、と言っておきましょう。つまり、名も無き救世軍の信徒を装って世に忍び出たときには、全くの一文無しというわけではなく、そんな慎ましい役柄なら、かなりの期間は不自由なく暮らしていけるくらいの蓄えはあったわけです。近くの市場町まで歩いていき、遅い時間でしたが、数シリングを払って安い喫茶店で夕食と一晩の寝床を手に入れました。次の日からは、小さな町から町へと、これといった目的も無く彷徨い歩く旅に出たんです。既に自分の気紛れな行動の結末に少しばかり嫌気が差していたのですが、数時間後には更に嫌気が増してしまう羽目になってしまいました。
地方紙売り場の掲示板を見ると、僕が誰かの手で殺されたという見出しが目に留まります。それを見て、はじめのうちは或る種の悍ましい滑稽さを感じたものですが、いずれにせよ悲劇の仔細は知っておきたかったので新聞を一部買うことにしました。それによると、犯行は素性の怪しい、放浪中の救世軍の信者の手によるもので、犯行現場の近くの道を彷徨いているという目撃談も書かれていました。もう面白がっていられる場合ではありませんね、状況はどうにも厄介な方に転がっていたのですから。僕が自動車事故だと思い込んでいたのは、明らかに凶悪な暴行殺人事件の現場だったわけです。それに真犯人が見つからないことには、僕がこの事件に巻き込まれた経緯を説明するのは、実のところ難しいことなのです。もちろん、単に自分の身元を明かすのは造作もないことですが、不愉快な形で医者の奥さんを巻き込んでしまいかねないですし、そういった事実についての言及を避けた上で、殺害された被害者と衣服を交換した理由を、どうすれば過不足なく説明できるとお思いですか?
この問題を前にして脳髄が熱を帯びながら稼働する一方で、僕は無意識のうちにもう一つの本能に身を任せてしまいました……つまり、出来る限り犯行現場から遠ざかり、どうにかして、この罪深い制服を処分したいと思うに至ったわけです。それでも、また難題に突き当たってしまいます。あまり目立たない服屋を二、三軒ほど廻ってみたんですが、どこも僕が店に入ると店主は敵意を帯びた疑いの眼差しを向けてきて、言い訳をいくつか並べて服を売るのを拒むわけです。今や切実に望んでいた替えの衣装も手に入れることは叶わなかったのですよ。軽い気持ちで袖を通したあの制服は、あの……怪物の名前は忘れてしまいましたが、あの忌々しい神話の服のように、脱ぐに脱げない状況だったのです」
「ええ、はい、続けて下さい」と教戒師は慌ただしく告げる。
「なんとなく、この疑いを招きかねない制服を処分するまでは、警察に身を委ねるのは危険だと感じていました。その上、不思議なことに、どういうわけか誰も僕を捕まえに来ないんです。僕に向けられた疑いの眼差しが、離れることのない影のように、どこに行っても付き纏っていたのは間違いありません。視線、肘で小突き合う仕草、囁き、そして「あいつじゃねぇか」と語る大きな声が、僕の行く先々で挨拶のように飛び交うわけです。そして、通っていた粗悪で寂れた食堂も、こそこそと観察する客の群れで直ぐにいっぱいになってしまいます。ここまでくると、ひっそりと小さな買い物をする王侯貴族が、我慢を知らない大衆の容赦ない視線に晒されながらも抱いている心の内に思いを馳せてしまって、僕は同情を禁じ得ませんでしたよ。それでも、こういった無言の付け回しは、露骨に敵愾心を燃やされるよりもずっと神経を苛むものでしたが、僕の自由が阻まれることは一切なかったわけです。
その理由も後になって分かりました。人里離れた街道で殺人事件が起きた当時、あの近辺で警察犬の重要な試験がいくつか行われていたんです。およそ十八組の訓練された犬たちが、容疑者の足跡……つまり僕の足跡を追っていたわけです。公益心を気取ったロンドンの或る新聞社が、僕を最初に捕まえることができた犬の飼い主に向けて豪勢な賞金まで用意していたんですよ。その上、競い合う犬たちの勝敗を予想する賭けが全国で盛んに行われていたわけです。犬たちの捜索網は十三の州に跨るほど広がり、この時点で警察はおろか一般市民にすらも僕の行動は完全に筒抜けだったんですが、それにも関わらず国民の競技好きな気質のせいで、僕の早急な逮捕は阻まれていたんです。野心的な地方巡査が、長引く僕の逃走劇に終止符を打ちたがっていても、市民感情として『犬に機会を与えよ』という意見が優勢だったわけです。
最終的に僕も捕まり、優勝した犬の組が決まるのですが、それもさほど話題性のある話ではありません。実際、こちらから声を掛けて撫でてやらなければ、あの犬たちが僕に気付けたかは怪しいですね。ですが、この一件のせいで二派に分かれるほどの、妙に熱のこもった諍いが起こってしまったのもまた事実です。優勝に次点で届かなかった犬を飼っていたアメリカ人が異議申し立てをしたことが発端なんですが、なんでも、優勝した犬の家系には六世代前に獺猟犬が婿入りしていること、賞金の条件が殺人犯を最初に捕まえた『警察犬』であること、獺猟犬の血が六十四分の一でも混ざっている犬は専門的な見地からは『警察犬』と見做せないこと、と理由を連ねていましてね。この件が最終的にどのような結論に落ち着いたのかは忘れてしまいましたが、大西洋の両岸を挟んで夥しいほど多くの激論が交わされたそうです。これについては僕も口を挟みましたよ。まだ真犯人が捕まっていないのだから、そもそもこの論争自体が的外れだと指摘したんです。これについては、大衆や専門家の意見と僕の指摘が少しも食い違っていないのは自明でした。
自分の身元を証明して動機を説明するのは不愉快ではありますが、避けるわけにもいかないので、不安を抱えつつも腹は括っていたのです。しかしながら、直ぐに気づいてしまったんですね。とにかく不愉快なのは、そもそもこういった証明すら出来なかったことなのです。鏡に映る僕の顔は、かつては穏やかな面持ちだったはずなのに、ここ数週間の経験によって窶れて追い込まれた表情が刻み込まれていました。変わり果ててしまった僕の姿を見ても、数少ない友人や身内の人間は僕だとは認めてくれませんでしたし、あの街道で殺された男が僕であるという広く根強く伝わっている思い込みを信じ続けているようでした。まあ無理も無いことですし、驚きはしませんでしたよ。事態をさらに、いや際限なく悪化させてしまったのは、実際に殺された男の方の叔母が……明らかに知性の低い、あの凄まじい女が僕のことを甥だと断定してしまったことです。あの女が僕の堕落した青年時代や、更生させるために尻を叩くような天晴ではあるけれど無駄な努力のような、どぎつく誇張された話を当局の連中に語るわけです。きっとそのせいで、僕の指紋を調べるという話まで上がったんでしょう」
「だが、君の学識なら確実に……」と教戒師が口を挟む。
「まさに、そこが肝心なんですよ」と死刑囚は語った。
「専門知識の欠如というのが致命的に響いてきましてね。僕が軽い気持ちで身分を詐称し、そのせいで悲惨な目に遭う元凶になった、あの亡き救世軍の信徒が身に着けていた知識というのも、陳腐な現代教育の薄っぺらな上塗り程度のものだったので、僕の知識があの男の水準とは全く異なることを証明するのは容易いはずだったんですが、緊張していたせいか課された試験で次々と悲惨な失敗をしてしまいました。覚えていた僅かばかりのフランス語さえも零れ落ちてしまい、庭師が育てる酸塊果についての簡単な一文も、酸塊果のフランス語を忘れてしまったばっかりに訳すことすらできなかったのです」
教戒師がまた 居心地悪そうに座り直していると、死刑囚が「それから」と話を続ける。
「そこで起こったのが、最後の失敗です。僕が暮らしていた村には小ぢんまりとしていますが討論を交わせる集会がありましてね、そこで昨今のバルカン地方の危機的な現状について大まかな内容の講義をすると約束していたのを思い出したんです。今思うと、本心は医者の奥さんを喜ばせて、気に留めてもらいたかったんでしょうね。一、二冊の教科書的な書籍と、その手の雑誌の過去の号を当たれば、僕の知識も整理できますし、検察も僕が自称している人物……まあ、実際には僕自身なんですが……その人物が地元では、バルカン半島の情勢についての受け売りで名士ぶる半可通として振る舞っていることを入念に調べ上げていました。些末な話題について尋問担当の弁護士が一連の質問を続けている途中、悪魔のように突然、法廷でノヴィ・バザルの所在を説明できるかと尋ねてきました。この質問が決定的なものだと僕の直感が告げます。そして、どういうわけか答えはサンクトペテルブルクかベイカー街のような気がしてきました。躊躇いながらも、緊張と期待に満ちた顔色の海を力なく見渡し、気を引き締めて僕はベイカー街を選びました。
そこで悟ったんです。すべて消えてしまったんだ、って。それから検察は、バルカン地方のような近東地域の事情に多少なりとも精通した人物ならば、慣れ親しんだ地図の上からノヴィ・バザルの所在をそこまで乱雑にずらすはずがないだろう、と難なく立証してしまいました。それは救世軍の大尉なら、もしかしたら言いそうな答えで……そして、それを口にしてしまったのは僕なんです。救世軍の信徒と今回の事件を結びつけるには、この状況証拠は圧倒的に説得力があって、そして、僕は自分で自分を救世軍の大尉と強く結びつけてしまったのです。
さて、あと十分もすれば、僕は首を吊られて死に至ることでしょう。僕を殺した罪の報いです。存在しない殺人事件の報いです。いずれにしても、無実の殺人の報いというわけです」
* * * * *
十五分ほどしてから、教戒師が自分の宿舎に戻ると、監獄塔の上で黒い旗が揺らめいていた。食堂には朝食が準備されていたが、それより先に書斎に立ち寄り、タイムズ社の地図帳を手に取ってバルカン半島の地図を引く。そして、勢いよく冊子を閉じて、「ああいったことは、誰にでも起こり得るものだ」と呟いた。
原著:「Reginald in Russia and Other Sketches」(1910) 所収「The Lost Sanjak」
原著者:Saki (Hector Hugh Munro, 1870-1916)
(Sakiの著作権保護期間が満了していることをここに書き添えておきます。)
翻訳者:着地した鶏
底本:「Reginald in Russia and Other Sketches」(Project Gutenberg) 所収「The Lost Sanjak」
初訳公開:2026年1月11日
【訳註もといメモ】
1.『サンジャク』(Sanjak)
現在のセルビアとモンテネグロの国境を跨ぐ地域の名称。後述のノヴィ・パザルがある地域。「The Lost Sanjak」の初出年については不明な点があるが、元々はオーストリア=ハンガリー二重帝国やオスマン=トルコ帝国の支配地であり、1912年の第一次バルカン戦争によるオスマン帝国の崩壊に伴ってセルビアとモンテネグロに分割されたので、物語はそれ以前のバルカン半島がきな臭くなってきた時代の話だと思われる(サキは様々な物語でバルカン地方を巡る動乱を描いていることは留意しておきたい)。
2.『アウター・ヘブリディーズ諸島』(Outer Hebrides)
スコットランドの北西洋に位置する百十九の島からなる列島。捕食者の少ない無人島が多く、海鳥を始めとした鳥類や海獣類が多く観察される。
3.『カモンイス』(Camoens)
十六世紀のポルトガルの詩人ルイス・ヴァス・デ・カモンイス(Luís Vaz de Camões, 1524?-1580)。大航海時代を謳いあげた軍人であり、ポルトガルの国民的な詩人。
4.『ステラ・ファン・デル・ルーペン』(Stella van der Loopen)
架空の固有名詞でサキの造語と思われる。Stellaはラテン語由来の言語では「星」。vanはオランダ語で「~出身」、derはオランダ語の定冠詞であり、van derの形で姓の一部として使われる。Loopenはオランダ語の「歩く(lopen)」の古い綴りを指すので、Stella van der Loopenは直訳すると「歩く場所から来たる星(地上の星)」か。ラテン語と星の印象からタンポポのような菊科植物の学名を連想させ、またStellaが女性名としても用いられることや、姓のvan derも相まって人名やその名を冠した絵画も思わせる……本作ではそんな役割を持った造語である。
5.『ロムニー』(Romeny)
十八世紀のイングランドの肖像画家ジョージ・ロムニー(George Romeney, 1734-1802)。妻のエマ・ハミルトンを描いた肖像画の作品群で知られる。
6.『救世軍の大尉』(a Salvation Army captain)
救世軍は1865年にロンドンで生まれたキリスト教プロテスタント系の団体で、軍隊式の組織や制服、階級を有することが特徴。大尉は団体内における中堅の牧師の階級の一つ。
7.『忌々しい神話の服』(the fatal shirt)
ギリシア神話で英雄ヘラクレスの死因となった所謂「ネッソスの衣(Shirt of Nessus)」のこと。ケンタウロスであるネッソスはヘラクレスの妻と姦通しようしたが、竜の毒を塗った矢でヘラクレスに射られて死んでしまう。ネッソスは死の直前に自分の血を媚薬と称してヘラクレスの妻に渡した。後年、他の女に心移りしていたヘラクレスの気を惹くために、妻はネッソスの血に浸した服をヘラクレスに渡す。だが、血に混ざった竜の毒に身を焼かれ、最期にはその身を火焔に投じたのであった。
8.『警察犬』(bloodhound)
ベルギー原産のセントハウンド犬種で、長く垂れた耳、短毛で皺の多い外見が特徴的な大型犬。嗅覚に優れており、警察犬として活用される。
9.『獺猟犬』(otterhound)
イングランド原産のセントハウンド犬種で、垂れた耳、長毛や水かきのある足が特徴の大型犬。嗅覚にも優れており、防寒・防水性の高い長毛も相まって獺の狩猟犬として用いられてきた。
10.『ノヴィ・バザル』(Novibazar)
現在のセルビア南西部に位置する都市ノヴィ・パザル(Novi Pazar)の誤植。上述のサンジャク地方の中心地である。サンジャク地方を指す用語でもあり、サンジャクの別名はノヴィ・パザル・サンジャク。
11.『サンクトペテルブルクかベイカー街』(St. Petersburg or Baker Street)
サンクトペテルブルク(St. Petersburg)は当時(十九世紀末から二十世紀初頭)のロシア帝国の首都で、時代の変遷に伴って後にペトログラード、レニングラードと名前を変えていく。
ベイカー街(Baker Street)はイングランドはロンドンにある通りで、コナン・ドイルの探偵小説の主人公であるシャーロック・ホームズが住んでいた街である(当時シャーロック・ホームズ・シリーズは既に刊行されていたので、同時代の読書の視点から見ても「ベイカー街=シャーロック・ホームズ」といった図式は一般的だったのだろう)。
さて、どちらの地名もノヴィ・パザルがあった当時の近東地方とは見当違いなほどに大きくずれているし、ステラ・ファン・デル・ルーペスの虚言やノヴィ・バザルの言い間違い(誤植)、整合性の取れない不安定な言動も含めると、果たして物語の死刑囚は本当に無実の男の入れ替わりだったのだろうか? 死の間際に真犯人が戯言を放っているだけなのではないのだろうか? そんな疑問が頭を過る一方で、他人に成り替わっていくうちに彼我の境界が曖昧となっていく、そんな狂気を孕んだ「奇妙な味」にも思えてくる。サキの短編「グロウビィ・リングトンの変貌(The Remoulding of Groby Lington)」では、周囲の影響から自分の姿や振る舞いを変容させていく人間の姿を描いているが、この悲劇「消えたサンジャク(The Lost Sanjak)」も同様のテーマが含まれているのではないだろうか。自分の素性を棄てて救世軍に成り替わっていくうちに、本当の自分はおろか、それを語る自身の言葉の虚実すらも不明瞭となっていき、最期にはノヴィ・パザル・サンジャクといった知識と一緒に自分という存在すら「消えて」しまう。そんな皮肉な物語……などということを考えて、筆を執ってはみたが、作品外で作品を解くというのは翻訳屋としてはあまりにも無粋が過ぎてしまった。ただの筆遊びと一笑していただきたい。




