第8話 「戻ってこい」と言う父と、「帰しません」と言う居候
焼きたてのパンの香ばしさと、バターの溶ける甘い匂い。
それが消え去ると同時に、リビングの空気は一気に冷え込んだ。
満腹になり、ソファでくつろいでいた父が、やおら背筋を伸ばして私に向き直ったからだ。
その顔からは、先ほどまでの情けない安堵感は消え、以前のような「家長」としての傲慢さが戻っていた。
人間、衣食住が満たされると、次に欲が出る生き物らしい。
「さて、メルディ」
父は咳払いを一つした。
「此度の家出、本来なら勘当に値する愚行だが、この快適な……仮住まい免じて、不問にしてやろう」
「はあ」
私は気のない返事をして、紅茶を啜った。
不問にしてやる、か。どの口が言うのだろう。
「よって、直ちに荷物をまとめなさい。明日、共に屋敷へ戻るぞ」
「……はい?」
カップを持つ手が止まる。
戻る? 私が?
「聞こえなかったか? 屋敷に戻り、あの雨漏りと隙間風を直せと言っているのだ。お前のその……小賢しい土魔法があれば、元通りになるのだろう?」
「嫌です」
即答だった。
考えるまでもない。
父の眉がピクリと跳ね上がる。
「何だと?」
「戻りません。私はこの家が気に入っています。それに、実家を追い出された時、『二度と敷居を跨ぐな』と言ったのはお父様ですよ」
私は静かに、けれどはっきりと告げた。
かつての私なら、怯えて従っていたかもしれない。
けれど、今の私にはこの「城」がある。自分の手で作り上げた、絶対的な安心できる場所が。
「な、生意気よ!」
隣で姉が金切り声を上げた。
「あんたねぇ、調子に乗らないで! たかが土いじりで偶然いい家ができたからって、貴族の娘がこんな荒野で一人暮らしなんて、世間体が悪いのよ!」
「世間体より、カビの生えたドレスの心配をしたらどうですか?」
言い返すと、姉は顔を真っ赤にして黙り込んだ。
図星だったらしい。
「……メルディ」
父が低い声で唸るように言った。その目がすうっと細められる。
「これはお願いではない。命令だ。お前は未成年であり、私の保護下にある。親権を行使して、強制的に連れ戻すこともできるのだぞ」
心臓がドクンと嫌な音を立てた。
法的な脅し。それは一番痛いところだ。
この国では家長の権限は強い。もし父が衛兵を連れてくれば、私は抵抗できない。
「連れ戻して、どうするんですか。一生、屋根の修理係として地下牢にでも閉じ込めますか?」
「屋敷が直るまではな。……おい、そこの傭兵!」
父の矛先が、部屋の隅で静観していたアレクさんに向いた。
「貴様もだ。娘をたぶらかした罪は重いぞ。だが、荷物持ちを手伝うなら見逃してやろう。さっさと娘を捕らえろ」
雑用係扱いだ。
私は血の気が引いた。アレクさんは恩人だ。私の家族の事情に巻き込んで、彼まで侮辱されるなんて耐えられない。
「やめてください! 彼は関係な――」
「――断る」
私の声を遮り、凛とした声が響いた。
アレクさんが、ゆっくりとソファから立ち上がる。
その動作だけで、空気がピンと張り詰めた。ただの立ち上がり方ではない。まるで玉座から見下ろすような、圧倒的な威圧感。
「な、なんだ貴様。雇われの分際で……」
「彼女は帰さない。君たちの屋敷には戻らない」
アレクさんは私の隣まで歩み寄ると、自然な動作で私の肩に手を置いた。
大きく、温かい手。
その重みが、震えそうだった私の体を支えてくれる。
「彼女は、私の専属建築士として契約済みだ。他家への引き抜きは認めない」
「は、はぁ!? 専属だと? どこの馬の骨とも知れぬ傭兵風情が、男爵家に逆らって無事で済むと……」
父が激昂し、杖を振り上げた時だった。
「――控えよ」
静かな、けれど雷鳴のような一言。
同時に、アレクさんの全身から紫色の魔力が迸った。
ビリビリと空気が震え、窓ガラスが共鳴する。
父と姉が、見えない重力に押されたようにソファに押し付けられた。
「え……?」
私は息を呑んだ。
なんだ、この魔力は。私の土魔法とは桁が違う。濃密で、高貴で、絶対的な力の奔流。
アレクさんは懐から何かを取り出し、テーブルの上に放った。
重厚な金属音を立てて転がったのは、白金で作られたバッジ。
刻まれているのは、剣と杖が交差する紋章――王家に次ぐ権威を持つ、公爵家の家紋。
「こ、公爵……家の……?」
父の顔から血の気が失せ、紙のように白くなった。
目玉が飛び出んばかりに見開かれ、パクパクと口を動かしている。
「あ、アレクセイ……閣下? 国の筆頭魔術師であらせられる……?」
「いかにも」
アレクさん――いいえ、アレクセイ公爵は、冷ややかな瞳で父を見下ろした。
「私が、その『馬の骨』だ。文句があるなら聞こうか、男爵」
「ひ、ひぃぃぃッ!」
父はソファから転げ落ち、そのまま床に額を擦り付けた。
姉も慌てて平伏する。ガタガタと震える音が聞こえてきそうだ。
私はといえば、父以上に呆然としていた。
アレクさんの顔を見る。
いつもの優しい「居候の傭兵」の顔ではない。冷徹で、近づきがたいほどの高貴さを纏った、雲の上の人の顔。
「……う、嘘」
声が裏返った。
公爵? 筆頭魔術師?
あの行き倒れが? お風呂で溺れかけてた人が?
「メルディ」
彼が私を見た。
その瞬間、冷徹な仮面が外れ、いつもの困ったような、少し悪戯っぽい瞳に戻る。
「黙っていてすまない。……君に警戒されたくなかったんだ」
「け、警戒って……公爵様だなんて……」
「身分など関係ない」
彼は私の肩を抱いたまま、床に這いつくばる父たちに向き直った。
「彼女の才能は、この国で一番価値がある。腐った屋敷の修繕係になどさせない。彼女が作るべきは、国を支える礎だ」
断言された。
国で一番。
その言葉が、私の胸の奥深くに突き刺さる。
父に否定され続け、自分でも「地味だ」と卑下していた私の魔法。
それを、国の最高権力者が、真正面から肯定してくれた。
「……だから、諦めて帰ってもらおう」
アレクセイ様は、凍えるような声で父たちに告げた。
「それとも、公爵家に対する不敬罪で、この場で裁かれたいか?」
「め、滅相もございません!!」
父の悲鳴が、夜の荒野に虚しく響いた。
私はまだ、事態が飲み込めずにいた。
ただ、肩に置かれた彼の手の温かさだけが、これが夢ではないことを教えてくれていた。
傭兵のアレクさんはもういない。
ここにいるのは、私を「国一番」だと言ってくれた、とてつもない大魔法使い様だ。
……どうしよう。
私、公爵様に雑巾がけとかさせてたんだけど。
後から来る恐怖と、じんわり広がる嬉しさが入り混じり、私はめまいを覚えて彼に寄りかかった。




