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泥遊びと笑われた土魔法は、不眠の公爵様を癒やす最強の聖域でした  作者: 九葉(くずは)


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第7話 実家の家族がやってきた

 昨晩のホットミルクの甘い余韻は、翌朝の騒音によって破られた。


 ガタゴト、ガタゴト。

 車軸が悲鳴を上げているような音が、静寂な荒野に響き渡る。

 私は焼きたてのパン(石窯も昨日作った)を皿に落としそうになった。向かいの席でスクランブルエッグを食べていたアレクさんが、鋭い目つきで窓を見る。


「……客か? いや、あれは」


 アレクさんが立ち上がり、カーテンの隙間から外を窺う。その背中は、瞬時に「傭兵」の警戒モードに入っていた。

 私もつられて窓辺に駆け寄る。

 朝霧の向こうから現れたのは、一台の馬車だった。

 かつては見事な漆塗りだったのだろうけれど、今は泥ハネで汚れ、ほろは破れかけ、車輪は歪んでいる。

 けれど、その扉に描かれた紋章には見覚えがあった。


「獅子の盾……」


 胃の腑が冷たくなる。

 実家の紋章だ。

 まさか。こんな最果ての地まで、追いかけてきたの?

 追放しただけじゃ飽き足らず、家を壊しに来たとか?


「メルディ、下がっていなさい」


 アレクさんが低い声で告げ、玄関へ向かおうとする。

 けれど、私は首を振った。

 ここは私の家だ。私の城だ。家主である私が隠れていてどうする。


「大丈夫です。……ちょっと、挨拶してきます」


 震えそうになる膝を手のひらで叩き、私はエプロンの紐を締め直した。

 玄関ドアを開ける。

 乾いた風と共に、馬車が庭の柵の前で停まるのが見えた。


 扉が乱暴に開く。

 降りてきたのは、見慣れた、けれど酷く見慣れない二人組だった。


「ごほっ、ごほっ! なんて埃っぽい場所なの!」

「まったく、御者の扱いが荒いから酔ってしまったではないか……」


 姉のマリアンヌと、父である男爵だ。

 二人とも、最後に見た時と同じ高価な服を着ているはずだった。

 けれど。


 私は思わず目を細めた。

 ……汚い。

 姉のドレスの裾は泥とカビで黒ずみ、自慢の金髪は湿気で爆発したように広がり、脂ぎっている。

 父の外套も皺だらけで、所々に白っぽいシミ――あれは塩かカビか――が浮いている。顔色も土気色で、目の下には私が行き倒れのアレクさんに見つけたのと同じような隈があった。


「メ、メルディ! どこにいる!」


 父が私を見つけ、大股で歩み寄ってくる。

 その足取りはふらついていて、威厳のかけらもない。


「ああ、そこにいたか。……ふん、生きていたようだな」


 父は私の前で立ち止まり、精一杯の虚勢で鼻を鳴らした。

 しかし、その鼻の頭は寒さで赤くなっている。


「お父様、お姉様。……何の用ですか?」


 できるだけ冷淡な声を出す。

 すると、姉のマリアンヌがヒステリックに叫んだ。


「何の用ですって!? あんた、自分が何をしたか分かってるの!? あんたがいなくなってから、屋敷がめちゃくちゃなのよ!」

「雨漏りはするし、暖炉はつかんし、おまけに私の部屋にはナメクジが出るのよ! どういう魔法をかけていたの! 卑怯よ!」


 唾を飛ばして喚く姉。

 私は呆気にとられた。

 卑怯? 私が管理していたから快適だったのに、それを追い出したのはそちらだ。維持管理メンテナンスを怠れば家が痛むのは自然の摂理でしょうに。


「それで? 文句を言いにわざわざここまで?」

「ち、違う!」


 父が狼狽えて声を張り上げた。


「迎えに来てやったのだ! 感謝しろ! 今なら特別に、屋敷に戻ることを許してやる。……その代わり、帰ったらすぐに屋根と壁を直せ。徹夜でな!」


 上から目線。

 相変わらずだ。自分の都合しか考えていない。

 怒りが湧くかと思った。

 けれど、私の心に浮かんだのは、別の感情だった。


 ――臭う。

 風に乗って漂ってくるのは、生乾きの服の雑巾のような臭いと、何日も入浴していない体臭。

 そして、二人の肌の荒れ具合。

 環境劣悪な住居に住むと、人間はここまで急速に品位を失うのか。


 私の職人魂(建築士としての衛生観念)が、猛烈な拒否反応を示した。

 この不潔な物体を、私の可愛い家の敷地内に置いておきたくない。

 そして何より、こんなボロボロの状態の人間に説教されても、全く響かない。


「……はぁ」


 私は大きくため息をついた。

 追い返すのは簡単だ。土魔法で柵を閉じてしまえばいい。

 でも、このまま帰したら、馬車の中で疫病でも発生しそうだ。それはそれで、元家族として寝覚めが悪い。


「話は分かりました。でも」


 私は鼻をつまむ仕草を隠さずに、二人を指差した。


「その格好、なんとかなりませんか? 臭いです」

「なっ!?」


 姉が顔を真っ赤にして絶句する。


「お話なら聞きます。でも、私の家は『土足厳禁、不潔厳禁』なんです。まずは洗ってください。話はそれからです」


 私は背後のアレクさんに目配せをした。

 彼は柱の陰で腕を組み、呆れたように、でも警戒を解かずにこちらを見ていた。

 「本気か?」という視線。

 私は肩をすくめる。「汚いままじゃ、家に入れたくないので」という意思表示。


「お風呂、貸してあげますから」


 私が指差したのは、湯気が立ち上る石塀の向こう――自慢の露天風呂だ。


***


 三十分後。

 リビングのソファ(ふかふかの羊毛クッション付き)には、借りてきた猫のように大人しくなった父と姉が座っていた。


 風呂上がりの二人は、私の古い服やアレクさんの予備のシャツを着て、髪はまだ濡れている。

 あの悪臭は消え、代わりに石鹸の清潔な香りが漂っていた。


「……何なのだ、あの湯は」


 父が、湯のみ(これも自作)に入れた温かい茶を啜りながら、呆然と呟いた。


「ただの湯ではない。……腰の痛みが、消えた。冷え切っていた骨の芯まで、熱が残っておる」

「肌が……つるつるですわ……」


 姉もまた、自分の頬を何度も触りながら、信じられないものを見る目で私を見た。


「王都の高級スパでも、こんなお湯、ありませんわよ。どういう仕掛けなの? 高価な魔石でも使ってるの?」

「ただの源泉掛け流しです」


 私はキッチンで追加のパンを焼きながら、淡々と答えた。


「地下深くから熱いお湯を引っ張ってきてるだけ。魔石なんて使ってません」


 二人は言葉を失い、部屋の中を見回した。

 一定に保たれた室温。

 窓から差し込む柔らかな光。

 カビひとつない、清潔で可愛らしい花柄の壁紙。

 そして何より、座っているソファの、人を駄目にするような座り心地。


 彼らが今住んでいる、雨漏りしてカビ臭い屋敷とは天と地の差だ。

 その事実が、言葉による反論よりも雄弁に、彼らのプライドを打ち砕いているのが分かった。


「……こんな」


 姉が悔しそうに唇を噛み、けれど抗えない心地よさに体をソファに沈めた。


「……ずいぶん、いい暮らししてるじゃないの。生意気よ」


 その言葉には棘があったけれど、以前のような鋭さはなかった。

 風呂上がりの紅潮した顔で言われても、負け惜しみにしか聞こえない。


「ええ、おかげさまで」


 私は焼きたてのパンを籠に盛り、テーブルに置いた。

 香ばしい匂いが漂うと、二人の腹が同時に「ぐぅ」と鳴った。

 顔を見合わせて赤面する父と姉。


 私は少しだけ、胸のつかえが取れた気がした。

 復讐なんてしなくても、幸せな生活を見せつけるだけで十分だったんだ。

 さて、ここからが本番だ。

 この快適さを餌に、対等な条件で話し合いをさせてもらおう。

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パンとスクランブルエッグの材料はどこから……?
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