第6話 一方その頃、実家は雨漏りと隙間風で崩壊寸前でした
ポチャン、という間抜けな音が、私の眉間の皺を一層深く刻み込んだ。
執務机の上に置いた書類。そのインクの文字が、天井から落ちてきた水滴によって無惨に滲んでいく。
私は羽ペンを握りしめたまま、頭上を睨みつけた。
天井の漆喰には、醜い茶色のしみが地図のように広がっている。
外は朝から激しい雨だ。だが、ここは由緒ある男爵家の屋敷であるはずだ。なぜ、室内で傘を差したくなるような湿気に悩まされねばならんのだ。
「お父様! もう我慢なりませんわ!」
バンッ、と扉が開かれ、長女のマリアンヌが飛び込んできた。
自慢の金髪は湿気で広がり、高価なドレスの裾を苛立たしげに持ち上げている。
「私の部屋の窓、閉めても隙間風が入ってくるのです! おかげで肌が乾燥して、化粧ノリも最悪ですわ。早くなんとかしてくださいませ!」
娘の金切り声に、こめかみがズキリと痛む。
「騒ぐな。今、業者に見させている」
「業者? そんな下賤な者を部屋に入れるなんて。……メルディがいれば、小汚い土魔法で勝手に直していたでしょうに」
マリアンヌが鼻を鳴らす。
メルディ。
その名を聞いただけで、私は不愉快に鼻を鳴らした。
二週間前に追放した、出来損ないの三女。
攻撃魔法の一つも使えず、毎日屋敷の壁を撫で回しては泥遊びをしていた恥さらしだ。あやつがいなくなって、ようやくこの家も清々すると喜んでいたのに。
「失礼いたします、男爵様」
ノックと共に、作業着を着た工務店の男が入ってきた。
濡れた帽子を手に、どこか言いにくそうな顔をしている。
「見積もりが出ましたか。で、いつ直る?」
私が尊大に問うと、男は気まずそうに視線を逸らし、羊皮紙を差し出した。
「それが……現状、屋根の葺き替えと外壁の防水加工、さらに基礎の断熱補強を含めると、これだけの費用がかかります」
提示された金額を見て、私は目を剥いた。
金貨三百枚。
我が家の年収の半分にあたる額だ。
「なっ……ふざけるな! ただの雨漏りだぞ!? 瓦を数枚替えれば済む話ではないか!」
机を叩いて怒鳴ると、男は慌てて首を振った。
「い、いえ! それが、この屋敷の建材はもうボロボロでして……。これまでは、何か『特殊な魔力』で無理やり繋ぎ止められていたようですが、それが切れた途端に一気にガタが来たんです」
「特殊な魔力だと?」
「はい。通常なら崩れているはずの壁が、精密な魔力コーティングで補強されていた形跡があります。これほどの維持管理を人力でやるなら、宮廷魔導師クラスを雇わないと……」
男の言葉に、私は絶句した。
宮廷魔導師クラス?
あの、煤けた顔で「修繕しておきました」と笑っていたメルディが?
「嘘をおっしゃい!」
マリアンヌが金切り声を上げた。
「あの子はただの土いじりしか能がない、愚図な娘でしたわ! そんな高等な魔法が使えるはずありません!」
「そ、そう言われましても……現に、雨は止まりませんし」
男は困り果てて天井を見上げた。
そのタイミングを見計らったように、ポチャン、とまた一滴、冷たい雫が私の禿げ上がった頭頂部に直撃した。
「……っ」
冷たい。
そして、惨めだ。
この私が、男爵である私が、雨漏りに怯え、高額な修理費に顔を青くしているなど。
メルディがいた頃は、こんなことは一度もなかった。
あやつは、何も言わずに直していたのか? 私が新しい家具を買う金を惜しんで、「屋敷の維持費など無駄だ」と削った分を、自らの魔力だけで?
冷えた雫が頬を伝う。
ふと、暖炉に目をやる。火は消えている。薪が湿ってつかないのだ。
寒気がする。
かつて、私が仕事をしている時、部屋は常に適温だった。あれも、あやつが通気口を調整していたからなのか。
「……お父様」
マリアンヌが、青ざめた顔で私の袖を引いた。
「わ、私、カビ臭い部屋で寝るのは嫌ですわ。……なんとかしてください」
その懇願に、娘としての可愛げよりも、生活に追い詰められた必死さが滲んでいるのが分かった。
このままでは、社交界に着ていくドレスすらカビてしまう。そうなれば我が家の終わりだ。
私はギリと奥歯を噛み締めた。
認めたくない。あのような役立たずが必要だったなどと。
だが、背に腹は代えられん。
「……迎えに行くぞ」
「え?」
「メルディだ。あやつを連れ戻す」
私は椅子を蹴って立ち上がった。
そうだ、これは慈悲だ。
荒野で野垂れ死にかけているであろう娘を、広い心で許し、再び家においてやろうというのだ。
あやつも今頃、泣いて後悔しているに違いない。屋根のある暮らしのありがたみを痛感しているはずだ。
「で、ですがお父様、あの子はどこへ?」
「北の荒野だ。馬車を出せ! ……雨除けの幌がついているやつだぞ、絶対に濡らすな!」
私は使用人たちに怒鳴り散らした。
足元の絨毯が湿気でじっとりと重くなっているのが、不快でたまらなかった。
待っていろ、メルディ。
この父が、わざわざ迎えに行ってやるのだからな。
戻ったら、死ぬ気でこの屋根を直させてやる。
窓の外では、雷鳴が轟いていた。
それが、私の前途への警告だとは気付かずに、私は震える手で濡れた外套を羽織った。




