第5話 公爵の意見を参考に、お風呂を増築しました
アレクさんが「ここは天国か」と呟いたあの日から、私たちの奇妙な同居生活は順調に回っていた。
朝、私が目覚めてリビングに行くと、既に暖炉に火が入っている。
彼は傭兵らしく早起きで、私が起きる頃には庭の簡単な整地や、水汲み(近くの湧き水まで往復三十分かかる)を済ませてくれているのだ。
おかげで私は建築と料理に専念できる。
その日の夜。
保存食の豆を煮込んだスープを二人で啜りながら、私は日課のヒアリングを始めた。
「さて、モニターのアレクさん。今の生活で不便な点は?」
スプーンを止めたアレクさんは、少し考え込むように視線を宙に漂わせた。
顔色はだいぶ良くなった。けれど、ふとした瞬間に指先をさするような仕草をする。まだ体の末端が冷えているのだ。
「……不満というわけではないんだが」
「遠慮なくどうぞ。改善データが欲しいので」
「なら、言わせてもらうと……湯に浸かりたい」
彼は自分の腕を、服の上から軽く叩いた。
「体拭きだけでは、どうも芯の疲れが取れない気がする。特に夜、冷える時は」
「お風呂、ですか」
私はメモ帳に『浴室の要望』と書き込んだ。
確かに、衛生面でも精神面でも入浴は重要だ。私自身、ここ数日は蒸しタオルで体を拭くだけで我慢していた。
「しかし、無理だろうな」
アレクさんは自嘲気味に肩をすくめた。
「水は貴重だ。それに、大人一人が浸かる量の湯を沸かすには、大量の薪が必要になる。この荒野にそんな資源はない」
「ふむ」
私はスプーンを置き、顎に手を当てた。
常識的に考えればそうだ。
魔法使いといえど、何もないところから大量の水や熱を生み出すのは、高位の魔導師でも骨が折れる。ましてや私は、地味な土魔法しか使えない。
でも。
建築家の辞書に「不可能」という文字はない。あるのは「予算不足」と「工期不足」だけだ。そして今、私にはそのどちらの制約もない。
「……アレクさん。明日の午後、庭の方には近づかないでもらえますか?」
「? ああ、構わないが……何をする気だ?」
「ちょっとした土木工事です」
私はニヤリと笑った。
私の頭の中には、既に地下断面図が展開されていた。
***
翌日。アレクさんが家の裏手で薪割りをしている隙に、私は庭の岩場に陣取った。
作戦はこうだ。
水魔法が使えないなら、地下水を使えばいい。火魔法が使えないなら、地球の熱を使えばいい。
私は地面に両手をつき、魔力を深く、深く潜らせる。
「探査・深度拡大」
意識が土の粒子を伝って沈んでいく。
地下十メートル、岩盤層。
地下五十メートル、帯水層。あった。豊富な地下水脈だ。でもこれじゃ冷たい。
もっと深く。
額に脂汗が滲む。魔力がゴリゴリと削られていく。
地下二百メートル……三百メートル……。
――熱源反応、感知。
地下深くのマグマ溜まりの余熱が伝わる、高温の岩盤層を見つけた。
「よし……接続!」
ここからが正念場だ。
私は土魔法で、二本のパイプラインを形成する。
一本は地下水を吸い上げる管。もう一本は、その水を熱い岩盤層の周りにぐるりと循環させ、温めてから地上へ戻す管。
いわゆる、地熱ボイラーの原理だ。
パイプの素材は、熱にも圧力にも耐えられるよう、土中のケイ素を結晶化させたセラミック製にする。
ズズズズズ……。
地面の底から、腹に響くような低い振動が伝わってくる。
「上がれ……上がれぇぇッ!」
最後の力を振り絞り、汲み上げポンプの圧力を形成する。
岩場の影に作った石造りの浴槽へ、パイプの出口を繋ぐ。
ボコッ、ボコボコッ。
やがて、パイプの先から白煙と共に、熱いお湯が勢いよく吐き出された。
硫黄の匂いはしない。さらりとした単純泉だ。
「はぁ、はぁ……で、できた……」
私はその場にへたり込んだ。
視界がチカチカする。お腹が空きすぎて胃が痛い。
でも、目の前には湯気を立てて波打つ、正真正銘の天然温泉(人工掘削)がある。
岩で作った浴槽は大人二人が余裕で入れる広さ。周りには目隠しの高い石塀も立てた。空を見上げれば青空。完璧な露天風呂だ。
「……メルディ?」
騒ぎを聞きつけたのか、アレクさんが塀の隙間から顔を覗かせた。
そして、並々と湛えられた湯を見て、目を見開いた。
「これは……湯か? いや、この湯気、まさか」
「へへ……地熱利用の、源泉掛け流しです」
私はふらつく体で立ち上がり、胸を張った。
「燃料代タダ、水道代タダ。これなら文句ないでしょう?」
「……君という人は」
アレクさんは呆れたように、けれど心底感心したように首を振った。
「魔法使いの常識を、根本から覆してくるな」
さっそく一番風呂を勧めた。
彼は何度も礼を言い、タオルを持って石塀の向こうへ消えた。
ザブン、という音が聞こえる。
そのあとに、「はぁぁ……」という、心の底から澱を吐き出すような吐息。
壁越しにその声を聞いて、私もようやく肩の力が抜けた。
喜んでもらえたみたいだ。
……しかし。
十分経ち、二十分経っても、中から音がしなくなった。
湯の流れる音だけがチョロチョロと響いている。
え、まさか。
不安がよぎる。
彼はまだ病み上がりだ。長湯でのぼせて気絶した? それとも温度が高すぎてヒートショックを?
魔力切れの頭が、悪い予感を増幅させる。
「アレクさん? 生きてます?」
返事がない。
静寂。
「アレクさん!」
私は慌てて石塀の入り口に飛び込んだ。
湯気で白む視界。
浴槽の中、アレクさんは――。
縁に頭を預け、半ば口元まで湯に沈んだ状態で、死んだように動かなくなっていた。
目は閉じられ、腕はだらりと湯の中に漂っている。
「溺れてる!?」
羞恥心など吹っ飛んだ。
私はブーツのまま駆け寄り、彼の方を掴んで引き上げようとした。
その瞬間、彼の上半身が水面から現れ――背中に焼き付いた、赤黒い痣のような紋様が目に飛び込んできた。
蜘蛛の巣のような、あるいは鎖のような、禍々しい刻印。
古傷? いいえ、あれはもっと異質な……。
「――んっ、ぷはっ!?」
アレクさんが勢いよく息を吸い込み、目を見開いた。
濡れた紫の瞳が、至近距離で私と合う。
「……メ、メルディ?」
「あ、生きてた……」
私は彼の肩を掴んだまま、硬直した。
彼もまた、自分の状況――裸で、私に抱きつかれそうになっている状況――を理解し、一瞬で顔を真っ赤にした。
「ち、違うんです! 返事がないから、溺れたのかと!」
「い、いや、あまりに気持ちよくて、意識が飛んでいたというか、寝ていたというか!」
二人して叫び合い、私は弾かれたように手を離して背を向けた。
心臓が破裂しそうだ。
見てしまった。筋肉質な背中と、あの奇妙な痣。
でも今は、とにかく逃げるのが先だ。
「ご、ごゆっくり!」
私は脱兎のごとくその場を後にした。
***
その夜のリビングは、なんだか妙にぎこちない空気が流れていた。
アレクさんは髪がまだ少し濡れていて、湯上がりの肌は艶々としている。血行が良くなったせいか、若返ったようにさえ見えた。
「……あの、これ」
私は気まずさを誤魔化すために、とっておきの「アレ」を出した。
カップに入れたホットミルクだ。
トランクの奥底に隠していた、貴重な粉ミルクをお湯で溶いたもの。砂糖も少し入れてある。
「牛乳……? いや、粉か。懐かしいな」
アレクさんはカップを受け取り、一口飲んだ。
白い髭が口元につくのも気にせず、彼は目を細めた。
「美味い。……風呂上がりに甘いものというのは、悪くないな」
「でしょう? これぞ文明的な生活です」
私も一口飲む。甘くて温かい液体が、工事で疲れた体に染み渡る。
先ほどの背中の痣のことは、聞かないことにした。
彼にも事情がある。今は、この温かい時間を共有できればそれでいい。
「ありがとう、メルディ」
アレクさんが、ふと真面目な声で言った。
「君のおかげで、久しぶりに指先まで感覚が戻った気がする。……この恩は、必ず返すよ」
その瞳には、湯気ごしでも分かるほど強い光が宿っていた。
私は照れ隠しにカップの中身を一気に飲み干し、それから笑った。
「じゃあ、明日はお風呂掃除をお願いしますね、傭兵さん」
「……ああ、任せてくれ」
彼は苦笑しながらも、力強く頷いてくれた。
どんなに重い事情を背負っていても、温かいお風呂と甘いミルクがあれば、人は少しだけ前を向ける。
そんな気がした夜だった。




