第4話 目覚めた彼は「ここは天国か」と言いました
意識の浮上は、泥沼からではなく、温かな水面へと浮かび上がるような感覚だった。
目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、柔らかな若草色の天井と、揺れる木漏れ日だった。
……痛くない。
私は反射的にこめかみに手をやった。
三年前、北の魔王討伐戦で受けた『永眠拒絶』の呪い。眠ろうとするたびに脳を焼くような激痛と悪夢をもたらし、私の精神と魔力を削り続けてきたあの忌々しい楔が、今は沈黙している。
体を起こそうとして、驚いた。
体が、羽根のように軽い。
鉛のように重かった四肢が、まるで油を差したばかりの精巧な義手のように滑らかに動く。
「……あり得ない」
掠れた声が出た。
私は自分の手を見た。震えていない。視界もクリアだ。
何より、頭の中が静かだ。常に響いていた耳鳴りも、焦燥感もない。
「ここは、死後の世界か……?」
そうでなければ説明がつかない。
国の最高位の治癒術師ですら匙を投げ、あらゆる睡眠薬が効かなかった私が、こんなにも深く、安らかに眠れるはずがないのだ。
私はシーツを握りしめた。
指先に触れる感触は、極上の絹よりも滑らかで、それでいて不思議な弾力がある。この寝具が、私の体を重力から解放していたのか。
「あ、起きました?」
不意に、扉の方から声がした。
私は即座に身構え、掛け布団を盾にするように引き寄せた。
敵か。それとも獄卒か。
立っていたのは、エプロンをつけた小柄な少女だった。栗色の髪を緩く縛り、手には湯気の立つマグカップを持っている。
記憶が、急速に巻き戻る。
荒野。行き倒れ。そして、この少女に運ばれた記憶。
「……君は」
喉が渇いて張り付いている。
少女は警戒する私を見て、困ったように眉を下げた。
「敵じゃありませんよ。ここは私の家。あなたは庭に行き倒れてた遭難者。思い出しました?」
少女の言葉に、私は呆然と頷くしかなかった。
生きている。ここは現実だ。
だとしたら、なおさら異常だ。
なぜ、この場所でだけ呪いが止まった? この少女は何者だ?
高度な幻覚魔法か? それとも、彼女自身が「聖域」の使い手なのか?
「……どれくらい、眠っていた?」
「丸二日です。死んじゃったかと思って、何度も息を確認しちゃいました」
二日。四十八時間以上。
私は戦慄した。それだけの時間、無防備に意識を手放していたことにも、それほど深く眠れた事実にも。
少女が近づいてきて、サイドテーブルにカップを置いた。
ふわりと、甘い匂いが漂う。
「とりあえず、これ飲んでください。干し肉のスープですけど、栄養はありますから」
毒見もせずに口をつけるわけにはいかない。
普段ならそう判断する。
けれど、今の私の体は、この空間の「心地よさ」に完全に降伏していた。
このふかふかのベッド、適切な湿度、そして彼女から発せられる敵意のなさ。
ここを失いたくない。
本能が、理性を凌駕して叫んでいる。
私は、自分が置かれた状況を冷徹に計算した。
公爵としての身分を明かせば、彼女は恐縮し、王都へ連絡を入れるだろう。そうすれば私は、あの喧騒と不眠の執務室へ逆戻りだ。
それは嫌だ。死んでも御免だ。
「……すまない、恩に着る」
私はカップを手に取り、一口飲んだ。
塩味だけの素朴なスープ。だが、胃に染み渡る熱さが、涙が出るほど美味かった。
「僕は、アレク。……しがない傭兵だ」
嘘をついた。
カップを持つ手が、わずかに罪悪感で重くなる。
だが、この安眠を手放すぐらいなら、私は喜んで嘘つきになろう。
***
彼――アレクさんが目覚めたのは、彼を拾ってから三日目の昼下がりだった。
スープを飲み干した彼は、ほう、と長い息を吐いて、またベッドに背中を預けた。
その仕草が、自作のマットレスの性能を何よりも雄弁に語っていて、私は心の中でガッツポーズをする。
「どうですか? 体の具合は」
「……驚くほどいい。まるで体が別物に作り変えられたようだ」
アレクさんは自分の手を見つめながら言った。
その声には、深い実感がこもっている。
やっぱり!
私の作った「鉱物綿」の弾力構造は、疲労回復に最適なのだ。
「それは良かったです。ここ、こだわって作った甲斐がありました」
「君が……作ったのか? この部屋も、寝具も」
「ええ、まあ。私の魔法はそれしか取り柄がないので」
へへ、と笑うと、アレクさんは真剣な眼差しで私を見た。
綺麗な紫色の瞳だ。吸い込まれそうなほど深い色をしている。
行き倒れていた時は死相が出ていたけれど、今は肌に血色が戻り、隠しきれない気品のようなものが漂っている。……傭兵にしては、所作が綺麗すぎるような気もするけれど。
「頼みがある」
アレクさんが、居住まいを正した。
「しばらく、ここに置いてくれないか」
「え?」
「金は払う。労働力としても使ってくれて構わない。……怪我が治るまで、いや、もう少し長く」
必死な響きだった。
彼はシーツを握りしめている。まるで、ここから追い出されたら死んでしまうとでも言うように。
私は少し考えた。
見ず知らずの男性と同居。常識的に考えればアウトだ。
でも、彼は丸二日、私の作ったベッドで爆睡していただけだ。それに、この家は一人で住むには広すぎるし、何より……。
『最高の家』を作るには、住み心地をフィードバックしてくれる「住人」が必要だ。
自分以外の誰かが「使いやすい」「よく眠れる」と言ってくれて初めて、建築家としての仕事は完成する。
「お家賃はいりません。その代わり」
「その代わり?」
「住み心地の感想を、毎日詳しく教えてください。ここはどこが良かったか、どこが不便か。改善のためのデータが欲しいんです」
私が提案すると、アレクさんはきょとんとして、それからふっと表情を緩めた。
初めて見る、彼の笑みだった。
氷が解けるような、見ていて安心する笑顔。
「……分かった。君が良い職人になれるよう、協力しよう」
「交渉成立ですね!」
私は彼の手を取って、握手をした。
彼の手は大きくて、少し熱かった。
「改めまして、私はメルディ。この家の設計者兼建築士です」
「よろしく、メルディ。……君は、僕の命の恩人だ」
大袈裟だなぁ、と私は苦笑した。
ただベッドを貸しただけなのに。
でも、彼が再び枕に頭を沈め、心底幸せそうに目を閉じるのを見て、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
誰かが自分の作った家で安らいでくれる。
それがこんなに嬉しいことだなんて、知らなかった。
実家では「役立たず」と言われ続けた魔法が、誰かを救ったのだ。
私は空になったカップを受け取り、部屋を出ようとした。
その時、背後から小さな呟きが聞こえた。
「ここは……天国か」
その言葉に、ドアノブにかけた手が止まる。
天国。
いいえ、ここはただの荒野の真ん中です。
でも、そう言ってもらえるなら、もっと最高のリゾート地にしてあげましょう。
私は振り返らずに、小さく頷いた。
これから忙しくなりそうだ。お風呂も作りたいし、食事の質も上げなきゃいけない。
でも、その忙しさは、ちっとも嫌じゃなかった。




