プロローグ
冬の朝は、世界の音が消える。
白く濁った空気の中で、ただ風だけが、生きているかのように吹き抜けていく。
龍は、校庭の隅に立っていた。
誰もいないブランコが、風に揺れて、ぎい、ぎいと寂しく軋む音だけが耳に残る。
小学校6年生の冬に、彼女はいなくなった。
笑って、泣いて、怒って、支えてくれたーー
幼馴染の沙耶。
「大丈夫だよ、絶対。また春になったら遊ぼうね。」
ベッドの上で微笑んだあの顔が、今も胸に焼きついている。どこを探しても、彼女はもう、どこにもいない。
記憶は、あまりにも鮮やかすぎて、いまでも痛い。
小学4年の春、いつもの公園。
夕焼けに染まる空の下、沙耶が笑って言った。
「ねえ、りゅう。大きくなったら、沙耶とけっこんしてくれる?」
「うん。する。ぜったい。約束するよ。」
草で編んだ不恰好な指輪を、2人で指に通し合った。
その時交わした小さな約束は、龍の世界を光で満たした。その約束が、龍の世界のすべてだった。
でも、その光は長くは続かなかった。
病気なんて、まだ理解できなかったあの頃。
「きっと治る」なんて、根拠もない言葉を信じていた。
けれど現実は、静かに、確実に、沙耶を連れて行った。
だんだんと細くなる腕。長くなる入院。短くなる言葉。最後の笑顔は、とても穏やかで、でもあまりに遠かった。
あの日、沙耶の手から力が抜けた瞬間、
彼の時間も、一緒に止まったのだ。
それから、龍の世界から、″色″が消えた。
青空も、桜の花も、誰かの笑い声も。
全部、音のないモノクロームのように、ただそこにあるだけになった。
中学の3年間。
龍は、笑わなかった。
友達もつくらず、言葉も必要としなかった。
何かを好きになる事も、期待する事も、もう怖かった。
でも、季節は残酷に巡る。
今年も春が来て、高校の制服に袖を通す日がきた。
ぎこちなく結ばれたネクタイを直しながら、ふと窓の外を見た。
そこには、入学式を待つ教室で、静かに立つ少女の姿があった。
風に揺れる長い髪。
伏せた瞳と、消え入りそうな佇まい。
ーーあのとき見た、沙耶の最後の横顔に、どこか似ていた。
「……誰?」
龍の時間は、あの日から止まったままだった。
だけどその瞬間、ほんの少しだけ、時計の針が動いたような気がした。
つづく