チェシャ猫
「随分、不機嫌そうですねぇ」
「いつからいた?」
洋服店の壁に凭れ、煙草をふかしていた帽子屋の耳ともで、特徴のある声がした。
帽子屋はその声に眉を寄せて、首すら動かさずに返す。
「さぁ?」
男はグレーの長い髪を――その腰の位置で赤い大きなリボンで束ねている。長い前髪は右目を隠していた。
どこか中性的な顔立ちで、チリンと首につけた赤いチョーカーにぶら下がる鈴が、涼しげに響く。
帽子屋は沈黙する。
「お城へ行ってたようですけど、何かあったんですかぁ?」
強請るように間伸びさせた口調。帽子屋は一層、眉間に皺を寄せていることから窺えるように、あまり関わりたくないのだろう。
男は覗きこむように腰を屈めながら言うが、帽子屋は答えない。
「あれ?無視?」
「お前がその人を小馬鹿にしたような喋り方を直したら、マトモに相手してやるよ」
「酷いですねぇ、私はいつも真剣に喋ってるのに~」
男は屈めていた腰を戻して困った風に首を傾げる。帽子屋は紫煙を男の顔に吹きかけた。
「ちょっ、やめて下さいよ」
男は咄嗟に、手で煙を振り払った。
そこに、店の古い扉が軋みながら開く音がした。
「あれ?なんでここにいるんだ?チェシャ猫」
服の入った大きな紙袋を持った眠りネズミが先に、その後ろに隠れるようにアリスが続いて出て来た。
「久しぶりですねぇ、眠りネズミサン。
おや? お二人には似合わない随分、可愛らしいお嬢さんをお連れで……」
男の興味はすぐにアリスへと移ったのか――帽子屋から眠りネズミの後ろにいるアリスへと歩みよると、慇懃な態度で礼をひとつ。
「初めまして、お嬢さん。
私はチェシャ猫と申します。どうぞチェシャとお呼びください」
柔らかな物腰と自然な振る舞いにアリスは目を丸くさせ、咄嗟に髪を気にするような仕草を見せた。
「初めまして、私はアリスです。よろしく」
「おや?君がアリス君ですかぁ?
なるほど、さっきまで迷子だった子ですねぇ?
帽子屋さんも水臭い。教えてくれれば、馬車の一つでも用意しましたのに~」
チェシャ猫はどこか優雅さのある動作で半身を反らして帽子屋へ話を振ると、帽子屋は煙草を地面に落して踏んだ。
「お前に教える理由がねぇだろ、クソ猫。
もう6時だ。ほら、早く帰るぞ」
「6時って……」
踵を返した帽子屋の言葉にアリスが零す。
6時にしてはまだまだ日は高い。
「ああ、ツッコミたいのはわかりますが~、帽子屋さんはずっと6時っていう設定ですからねぇ。残念ながら正確な日にちまではわかりませんが」
彼女の言葉に答えたのはチェシャ猫であった。
「設定?」
「そう、お話上でのルール」
チェシャ猫はそう言って、先を歩いて行く帽子屋へと視線を向けた。
「ほら、チェシャ猫。
帽子屋がキレる前に、彼女を解放してやりな」
眠りネズミはチェシャ猫にそう促し、チェシャ猫は困ったようにアリスから離れた。
やはり、その動作は身軽で優雅だ。
「そうですねぇ、帽子屋さんは怒らせたら怖いし。
私は退散しますぅ。
では、御機嫌よう。アリス」
そう言ってチェシャ猫は彼女の前で景色に溶けるように忽然と姿を消した。
「え? 消えた!?」
彼女は驚いて、チェシャ猫がいた空間へと手をやるが、勿論そこには何もなくて手は空を切る。
アリスは説明を求めるように眠りネズミを見やったが、彼は失笑の後、何もなかったように欠伸を一つ。
「ほら、帽子屋を見失う前に行こう。アリス」
帽子屋を追った先には、一つの馬車が用意されていた。
「あの猫が用意させたものらしい。
気に食わないが、アリスも疲れただろうから乗って帰るか」
帽子屋が見せる初めての気遣いにアリスは戸惑いながらも、ちらりと彼を一瞥して馬車に乗り込んだ。
ガタガタと揺れる馬車進行方向に、背を向ける奥の方にアリスが座り、その隣に帽子屋が、向かい合うように眠りネズミが座る。
初めは帽子屋が隣に座ったことに驚き、思わず端っこへ移動したアリスに彼は眉間に皺を寄せた。
それを一部始終見ていた眠りネズミの失笑で、帽子屋は不貞腐れたように馬車の外を眺めたまま、2人の方を一切見向きしなかった。
案外子供っぽい所があるのかも……
アリスは出会って初めて、帽子屋という男に好感を抱いた。
少し日が傾きだしたのを見て、今は何時頃なのだろう――という疑問が彼女の頭をよぎる。
どうせ訪ねても適当な答えしか返ってこないのだろう。
短時間でそう諦めるほど、男たちの性格を知ってしまった気がして、知らず知らずの内にため息をついていた。
しばらく不規則に揺れていた馬車が唐突に止まった。
その衝撃で帽子屋はゴンっと頭を後ろに打ち、眠りネズミは大きく前へ体を傾かせる。アリスだけは深く座っていたおかげで難を逃れた。
何事かと窓から頭を出して、怒りを御者にぶつける帽子屋に、御者は慌てた様子で馬車の前を指差した。
そこには、ゆったりと馬車の前を横断する、杖をついた老人が一人。
どうやら帽子屋が知った顔だったのようで「殺す」と一言、馬車を降りようとする。
「こらこら、帽子屋。殺すな」
「うるせぇ、離せ!
売り物の帽子がだめになっちまったんだよ!」
帽子を取って、怒り狂う帽子屋に「え? それって売り物?」と小さくツッコミを入れた。
彼の手にした黒いハットには、よく見ると値札が下がっていた。
‘’In this style 10/6’’
どう読むのかはわからないが、きっと値段なのだろう。
「まぁ、帽子屋さんは歩く宣伝塔だから」
帽子屋を抑える眠りネズミは、そう付け足した。
ドンと再び腰を降ろした帽子屋は「俺は自分の帽子は作らない」と付け足した。
「意味分かんない」
この短時間であった人たちは、どこか人間離れしている気がしていた。
良い意味でも悪い意味でも――
動き出した馬車に、再び不規則に揺られながらアリスは隣の帽子屋を見た。
帽子を取った彼はやはり癖毛で上の方の髪の毛が一本だけクルンと跳ねている。
所謂、アホ毛だ。
思わず笑いそうになったアリスは、それを誤魔化すために窓の外へと視線をやる。
どうやらそれが気づかれてしまったらしく、帽子屋は「あ?」とアリスを見やった。
それでもアリスは気が付いていないフリをして、答えない。触らぬ神に祟りなし。
否――この男は悪魔の方が相応しいだろう。