帽子屋と猫
さて、と一息。
帽子屋は珍しく、着て行ったスーツを脱いで、いつものシャツと黒のズボン姿になり、首もとを絞めていたスカーフを乱暴に緩めて、ソファーへと腰掛けた。
眠りネズミはそんな彼を労うように、ビールを差しだす。
それを何も言わずに受け取って、半分ほどなくなっている眠りネズミの缶ビールとぶつける。
仕事の後の一杯が一番、美味しい。
そういう味だったに違いない。
しばらく、仕事の疲れとストレスが和らぐのを待って、やっと眠りネズミが問うた。
「帽子屋。お前さん、正装なんかしてどこ行ってたんだ? スーツなんか着て、さ」
「行く時に言っただろう? 城だよ。
陛下にお茶を誘われてな。陛下の御前だ。正装じゃないとマズイだろ?」
眠りネズミは目を丸くする。
「珍しいこともあるもんだな。お前が設定を守るなんてな」
「バカ言え。設定上だけじゃあなく、陛下たちは事実上の俺たちの上司だろうが」
「で? なんの仕事だったんだ?」
「まぁ、どうってことのない野暮用、と言いたいことだが……ちょっと厄介なことを頼まれた」
「厄介なこと?」
帽子屋は、ほんの数十分前のことを思い返した。
「こんな時間に、いきなり呼び出してすまないね。帽子屋」
謁見の間ではなく、呼び出されたのは会議室として、使われている部屋のすぐ隣に、ある談話室という事実から、いつもとは違う仕事であることに察しはついていた。
「いいえ、私の時間は、いつでも6時丁度を指していますから」
いつになく、改まって言う帽子屋。
勿論、忠誠心から出た言葉ではなく、嫌みの一種であることは明白であった。
「貴方に頼みたいことがあるのです」
「頼みたいこと?」
女王の言葉に帽子屋は訝しげにオウム返しする。
「昨今、世界を騒がせた剥奪者。是非、私どもは彼にお会いしたい」
「それにともない、帽子屋には剥奪者の捜索を願いたい。勿論、初代剥奪者の。
手段は選ばない。帽子屋の思うようにしなさい。わかってると思うが、これは勅命である」
「その命、謹んでお受けいたします」
形式上の片膝をつく忠誠の礼をして、出された紅茶に一切、手を付けずに、帽子屋は談話室を後にした。
「ほうほう。それは面倒極まりない命令だな」
「だろう? 上司じゃなけりゃあ、射撃の的にしてるな」
「いや、それもう、上司に向かっていう言葉じゃないからね」
既に腰のフォルダーに手を掛けそうな帽子屋に向かって、眠りネズミは制止を促す。
「冗談だ」
いや、今の絶対本気だっただろう。あわよくばって思ってただろう。
喉元まで上がってきた言葉を眠りネズミは必死に飲みこんだ。
「俺はその遠回しな言い方が気に食わないだけだ」
「剥奪者に会いたい。探してこい、手段は問わない。つまりその言葉を翻訳すると~」
「なんでもいいから、剥奪者に会ってこいってわけだ。勅命なんて言葉まで、チラつかせやがって」
イライラが空気で伝わってくる帽子屋は、ビールを一気に呷る。
「あ~、つーか……どこいいるわけ? 剥奪者」
「どこかだろ。この国の……」
「どこか……ねぇ」
「どこか、だ」
「教えてさしあげましょうかぁ?」
ふと、異色の声が飛び込んできた。
「おー、チェシャ猫。お前も飲め飲め」
眠りネズミは分かっていたように、いつの間にか用意していた余分なグラスへ、ブランデーを注ぐ。
そのグラスは一人掛け用のソファーの前へと置かれ、チェシャ猫は渋々、ソファーへと腰を降ろした。
「で、どこにいるんだ? チェシャ猫」
いつもなら真っ先に怒る帽子屋は、涼しそうな顔で尋ねる。
そんな彼を見て、チェシャ猫は不思議そうに、とても緩やかに首を傾げた。
「眠りネズミサン。帽子屋サン、体調でも悪いんですかぁ?」
「いや? いつも通りだと思うけど?」
「で、どこいいるんだよ」
ワザと聞こえるように、眠りネズミに尋ねたチェシャ猫の言葉にも帽子屋は反応を示さずに、再び聞き返す。
「さぁ? どこでしょうねぇ。とりあえず、この国のどこか・……ですがぁ」
チェシャ猫がこの国について、知らないことはない。
設定ではないが、既に設定のように皆が知悉している事実であったが、前の男はそんな当たり前のことを忘れたように、はぐらかした。
しかしやはり帽子屋の論調はいつもとは違い、とても冷静だ。
ただ、冷静なだけで、言葉の端々に染み付いたチェシャ猫への辛辣さは、相変わらずののようにも聞こえるが。
「そうか」
再び、聞き返すでもなくただ淡々とそう呟いた。
「ほら、乾杯だ」
帽子屋の低い声が、2人に乾杯を促す。
眠りネズミとチェシャ猫はブランデーが並々に注がれたグラスを、帽子屋もティーカップを持ちあげて、3つのグラスがぶつかる。
「帽子屋サンが大人しいなんて、気味わるいですよ~?」
「俺も学習した。お前に怒鳴ったって、俺の体力が著しく低下するだけだって事実にな」
「それは殊勝なことです」
チェシャ猫は帽子屋の返答が気に入らなかったのか、それだけ答えてブランデーを口に含む。
「せっかく大人しい帽子屋に免じて、ここは剥奪者の居場所、教えたらどうだ?」
「そうですねぇ。たまにはそれも悪くはないんですがぁ……猫は自由気ままな利己主義な生き物です~
見返りがなければ、ね」
チェシャ猫の意味深な言葉に、2人はちらりと彼を目の端に捉えた。
そんな様子を察したチェシャ猫は2人の反応に楽しそうにして、目に弧を描く。
「と、言いたいところですが……帽子屋サンがこうやって、飲みに誘ってくれるなんて、十分見返りになる価値がありますから、特別にお教えしますよ」
ボンヤリと口元に笑いを浮かべ言ったチェシャ猫に、帽子屋は微笑み「助かる」と一言。
「とは言っても、帽子屋サンも御存知のはずですが……」
「ん? 帽子屋、アテがあったのか?」
「いや、ないから聞いている」
「物忘れが、ひどくなってきたんじゃありませんかぁ?
あれですよ、アリス君が街で、国の外に出てしまった時……」
帽子屋は思い出したように、ハッと顔を上げた。
チェシャ猫と顔を見合わせ、初めて涼しげな顔を崩した。
「ローブ。確かに剥奪者のものだった……」
何故忘れていたのか、と言った表情で帽子屋は目を伏せる。
「と、いうことは……」
眠りネズミは、辿りついた答えを催促するように、介入した。
チェシャ猫は、目を細めて頷く。
「はい、国の外。その入り乱れた空間のどこか、になりますねぇ。」
「正確な場所は?」
「帽子屋サン。それは私でも分かりかねますよ。
チェシャ猫は不思議の国のことなら、全てを把握している、との話ですが……
剥奪者の拠点は、国の外。さすがに私でも、国の外を把握出来るなどと、自惚れたことはありません。そこまで命知らずでもありませんから」
スラスラと、相変わらず読めない表情で言いのけたチェシャ猫に対して、帽子屋はゆっくりと左右に首を振った。
そして、ただまっすぐにチェシャ猫を見つめる。
チェシャ猫はそんな彼の様子に目を瞬かせ、眠りネズミは怪訝そうにも、あまり自分には見せない帽子屋の表情に困惑しているようにも見える顔で、短い距離にいる2人を両目端に捉える。
「お前は知ってる。そうだろ?―――……」
帽子屋は少し体を移動させて、気はチェシャ猫にしか聞こえないほど小さく。最後に何かしらの単語を呟いた。
途端、チェシャ猫は、表情を崩す。
それはいつもの作られた表情ではなく、生きている人間の表情であった。
自嘲のような笑みにも、悲しみの表情にも取れるそれに、眠りネズミは言葉を失うほど驚愕を示す。
「まったく……アナタにその名で呼ばれると、寒気がしますよ。
私をその名で呼んでいいのはただ、一人と決まっているんです」
「お前の名前?」
チェシャ 猫の表情を崩すきっかけになったのが、彼の名前であったこと。
そして、彼の名前を帽子屋が知っていたこと。
その両方の事実に、眠りネズミは不思議そうに呟いた。
「はい。そう言えば、眠りネズミサンとはお互い、この国で与えられた名前しか知りませんでしたねぇ」
「まぁ、な。ここを任されてからの付き合いだしな。
つーことは、何だ? お前ら‘’元’’から知り合いだったのか?」
元から、とは人間だったころからという解釈なのだろう。
チェシャ猫は嫌そうな顔で、帽子屋を見た。
「まさか。生身の頃に、帽子屋サンと知り合っていても……」
「まず、話すらしない間柄だっただろうな」
「はい。射撃の的にされそうでしょう?」
「ははっ、確かに」
目に浮かんできそうな光景に、笑い声を上げた眠りネズミだが、何故かその目は笑ってはいなかった。
帽子屋はそんな友人を怪訝そうに見つめるが、すぐにいつもの寝むそうな表情に一変し、帽子屋へと目を合わせ、首を傾げた。
気のせいではなかった眠りネズミの表情に対して、何かを言おうとしたが、適当な言葉が思い当たらなかったのだろう、ゆっくりと口を閉じて話を転換した。
「で、どこなんだ?」
チェシャ猫が焦らすような沈黙を置く。
その間も珍しく、帽子屋は大人しくチェシャ猫が何かを言いだすのを待っていた。
眠りネズミはというと、2人を見守りながらも、どこか興味なさそうに、アルコールとニコチンを交互に摂取している。
駆け引きのような、とても長い沈黙であった。
最初に折れたのは、チェシャ猫だ。
深いため息を吐き、珍しく目尻を下げる表情をする。
「アリス君を一緒に連れ行きなさい。
そうすれば、剥奪者は自分から現れてくれますよ。
あの人はアリスを可愛がっていましたから……」
「それは論外だ」
「何故です? あの子にも、会う権利があるでしょう?
それに陛下はどんな手を使ってもいい、と仰ったのでしょう?」
「違う。お前は俺にアリスを利用しろってのか?」
声を荒げることはせずに、あくまで慎重に、冷静に言葉を紡ぐ。
まるで腹の探り合いのような会話のやりとりにも聞こえる。
「仕方ありませんねぇ。なら場所はお教えします。勿論、行き方も……
しかし、あの男が表れるとは限らない。
あの男に会いたいのならば、アリス君を連れて行った方が確実、と言っているのです」
「場所だけ十分だ」
「まったく……」
強情な男だ、と呆れ顔のチェシャ猫は、ブランデーを呷りおかわりを入れる。
その動作から話にひと段落ついたのかと、虚空を見つめていた眠りネズミの言葉が介入した。
「なんだ、お話は終わったのか?」
「ああ、場所教えろよ? チェシャ。明日向かうが……」
「ん~、付いていってほしいか?」
眠りネズミはグラスを呷りながら、目だけちらりと帽子屋を一瞥すると、その目と一瞬視線がかち合い、ふい、と横を向いて無理やり視線を引きはがされた。
「来なくていい」
「そうかそうか、一人じゃ不安だもんな。よし、友人の俺が特別に付いて行ってやろう」
「死ね」
最初から付いて行く気だったのだろう――眠りネズミはニッコリと作り笑いをして、拒否を許さないと顔に書いた。
帽子屋は半目で彼を睨むが、凄まれたくらいでは動じない眠りネズミの様子から、2人の過ごした年月を思わせた。
「これで、この話は解決ですねぇ」
「めでたしめでたし、だ」
チェシャ猫の相変わらず軽い声色に、眠りネズミが頷く。
帽子屋は一気に疲れた気がして、ため息を盛大に吐き出した。




