ハートの城
4人は随分、長い距離を帽子屋の歩調に合わせて歩き、大きな一本道に差しかかった。
今まで歩いてきたレンガ造りの道とは異なり、しっかり舗装された広い道の先には、大きくそびえる城が見える。
幼いために歩幅もリーチの長さも圧倒的に劣る三月ウサギはヘトヘトになり、結局眠りネズミに負ぶわれる。
前を歩く帽子屋はピリピリしたオーラを放ちながら、そんな三月ウサギのことなどお構いなしに、息一つ切らさずに無言で城への道を進んでいた。
やっと辿りついた城の門には、一人の若い男が立っていて、こちらの到着を確認すると、無言で扉を開く。
「悪いな、ジャック」
スッと挨拶代わりに手を上げた帽子屋に「ああ」と頷くだけで、その後に続く彼女をジッと見ていた。
城に入って、正面。まっすぐ上に伸びた階段の先には大きな観音扉があり、前までたどり着くとひとりでに開いた。
そこに来てやっと歩を緩めた帽子屋は、敷かれた赤いカーペットの上をまっすぐ歩いて小さく一礼する。
「突然の謁見をお許しください、陛下」
「久しいな、帽子屋」
前には、玉座に鎮座する王と女王がいた。
その態度からまるで、4人が訪れるのをわかっていたようにも思える。
「それに今日は、眠りネズミと三月ウサギも一緒か」
王の言葉に両者とも小さく一礼をし、彼女もそれに倣う。
「今日は‘迷子’をお連れしました。
両陛下から名を頂ければと存じまして……」
帽子屋が半身をずらして、彼女に道を譲ると、彼女は狼狽えながら再びお辞儀をした。
「あ、あの……えと……お初にお目にかかります」
慣れない雰囲気と敬語で言葉を詰まらせ、目を泳がせる彼女に、帽子屋はそっと耳打ちをした。
「いい、喋るな」
「あ、はい」
彼女の動揺が目に余ったのか――帽子屋は彼女を制して、そう言われた彼女は落ち込んだように項垂れた。
「そうかそうか。
なら丁度良い名が余っておったのだ」
「ええ、そうですわね」
ご機嫌の両陛下は高笑いを響かせた。
国を統べる者に似つかわしい穏和な表情で、彼女を見下ろすと、王は長い髭の生えた顎を撫でた。
「どうにもここは不思議の国なのに、主人公のアリスがいなくてのぅ。
若くて元気そうな娘じゃ。
‘アリス’その名を授けよう」
「アリス……」
王が授けた名前を彼女―――否、アリスはまるで第三者を呼ぶように小さく呟いた。
「さっそくですが、アリス。
私とクローケーをなさいませんこと?」
女王が唐突にアリスへと誘いの言葉をかけるが、帽子屋はそれを遮るようにアリスの前へ歩み出て、慇懃に礼をする。
「いえ、女王陛下。
彼女はまだこの国に来たばかりで混乱してる上、こんな薄汚い格好では陛下とクローケーなど恐れ多い。
今日は私どもがアリスをお預かりいたします。
それに、もう6時なので……」
帽子屋の言葉に少しだけ残念そうな女王だったが、王は帽子屋の言葉に賛同の意を表した。
「それもそうじゃ。帽子屋、頼むぞ」
謁見の間から出て、長い階段を降りる。同時に、帽子屋は大きなため息をついて、帽子を眼深にかぶり直した。
眠りネズミは緊張のカケラも感じさせない様子で欠伸をして、三月ウサギは疲れたように頭を項垂れながら歩いていた。
重い沈黙と緊張――身の置き所のなかったアリスを助けるようなタイミングで、後ろから駆ける足音が聞こえてくる。
「三月ウサギさん!」
高い少女のような声であった。
その呼びかけに、帽子屋以外が振り返る。
先には、三月ウサギと良く似た子供が、危なっかしい足取りで階段を走って降りてきているところだった。
「なんだよ、白ウサギ」
明らかに歓迎しない声色で、三月ウサギは前の子供――白ウサギへと返答した。
「報告書、今日までですよ!」
「あ……」
どうやら忘れていたようで、固まった後大きなため息をついた三月ウサギは、白ウサギの方へ歩き出す。
「アンタの書斎貸して。すぐに仕上げる」
「別にかまいませんけど……」
「んじゃあ、俺達いくわ。頑張れよー」
話を察した眠りネズミは、さっさと三月ウサギを見送ると、帽子屋の肩を叩いて城の外へと促した。
城の出口の扉には入った時と同じ位置に、ジャックがいて「ご苦労さん」と、次は眠りネズミが声をかけた。
「あぁ~!城はかたっ苦しい雰囲気で参るわ」
大きく伸びをして、文句を言う眠りネズミを一瞥した帽子屋は、真っ黒なコートの内ポケットから取り出した煙草に、火を付けて吹かし始めた。
帽子屋を後ろから、まじまじと見るアリス。
黒のコートに黒の細身のパンツ、黒のハット。
唯一、中のシャツとスカーフだけが白。それ以外は髪と目も含めて、全身真っ黒だ。
歩みを止めない帽子屋はその視線に気が付いたのか――立ち止まってアリスの方へ振り返る。
「あー」
彼女を見るなり、後悔が入り混じった奇声を一つ。
アリスは怪訝そうに首を傾げた。
「馬車を出してもらうんだったな」
どうやら帽子屋はアリスではなく、城の方を向いて言ったようだ。
その時になって初めて、アリスは帽子屋の顔をはっきりと見た。
彼女が思ったより随分と若い。
堀が深く、整った顔立ち。帽子から見える髪は癖毛のようだ。
「ん?」
その視線に気が付いたのか、帽子屋の視線はゆっくりとアリスに注がれる。
それにたじろぎながら、彼女は疑問を口にした。
「なんで名前を王様と女王様が?
私の名前ってもうアリスで決定なの?
それにここはどこなの?不思議の国っていってたけど……」
「いっぺんに色々聞くな」
漸く口にして聞けた質問をぴしゃりと一蹴され、アリスはムッと顔に出した。
「まぁまぁ、帽子屋。
そう言ってやるな。アリスだって色々不安なんだ」
なぁ?とアリスに尋ねながら、上手くフォローに入る眠りネズミにアリスは賛同の意味で幾度も頷く。
「とりあえずは、だんろ町の青虫横町へ行く」
「何、そのネーミングセンスのない街・・・」
アリスのほとんど引いたツッコミに帽子屋は無視を決め込み、眠りネズミは苦笑するだけであった。