死のない国
そんなフロッグの気持ちを知ることのないアリスは、初めてゆっくり観光する街に、すっかり浮かれていた。
公爵夫人邸から、街の中心部へと続く――街路樹が、綺麗に並ぶ道をまっすぐ行けば大きな広場へと出た。
広場には噴水が止めどなく流れていて、その後ろには大きな時計台がある。
アリスがその時計台の時刻を見た時はまだ時刻は朝の6時であった。
彼女は6時頃に、使用人たちが起床するのを知っていて、彼らが起きてくる前を見計らって屋敷を出たである。
これからどうしたものか……と考え、広場にあるベンチへと腰掛けていると、一人の老婆が彼女の隣へ来て「隣、いいかい?」と尋ねた。
断る理由もないので「どうぞ」と一言、老婆はアリスの隣に腰かけた。
「若いもんが、こんな朝早くに何しとるかね?」
のんびりと優しげな声色がアリスへと尋ねる。
「散歩です。おばあさんは?」
「わたしゃあ、眠れなくてね。
この年になると朝起きるのも早いもんさ。
どうだい? 近くに知り合いがしている喫茶店があるんじゃが、娘さんも一緒に」
「あっ、でも私、お金を持ち合わせていなくて……」
「何、心配するこたぁないよ」
老婆の誘いに、アリスは喫茶店へとお供することにした。
そこは広場から西――つまり城が見える方向とは逆の方角への大通りを進み、突き当たった道を右に曲がったすぐの場所にあった。
相変わらずアリスには看板に書かれてある店の名前が読めない。
「暇つぶしに、字を教えてもらえばよかった」
先を行く老婆に、続きながらアリスは小さく零した。
店内は薄暗く、勿論こんな時間にくる客はいないと知っていても、なんだかアリスは不安になって前の老婆の様子を窺う。
そこに水を持ってきたのは老婆と同じくらいの老人で老婆は「いつもので」と言いながらアリスを指差す。
「じゃあ、私もおばあさんと同じもので」
アリスは少し、声を上ずらせながら答えた。
しばらくして老人が持ってきたのは、珈琲とバタートーストであった。
とにかく普通のものが来たのにアリスはホッと一息つく。
そんなアリスの様子を見て、老婆は笑い声を上げ、アリスはギョッとする。
「取って食われるとでも思ったんかのう、この子は……
心配せんでも、大丈夫じゃ。ここはお前さんのための国じゃ」
「え?」
「何を驚く。
娘さんは、アリスじゃろう?」
「なんで知ってるんですか?」
「娘さんがこの国に来た時から、この国の人間は皆、お前さんのことを知ってるんじゃよ」
「ここが不思議の国だから?」
アリスが聞くとまた老婆は笑い声を上げた。
「そういうことに、しとこうかのぅ」
そういって珈琲を啜る。
アリスもそれに倣い、珈琲にミルクと砂糖を入れて、少しだけ飲んだ。
「娘さんは少しでも過去を取り戻したかい?」
「いいえ、全然です」
「来て間もないのなら、仕方ないことじゃな。
わたしゃあ、もう50年はここにおるが、全く取り戻せんのじゃ」
「50年!?」
驚きに声を上げると、カウンターに座っていた老人は、迷惑そうにアリスを見た。
アリスは咄嗟に口に手を充てて、老婆に向き直る。
「じゃがな。一つ分かったことがあるんじゃ。
長い年月を経て、やっと一つのことに辿りついた」
「一つのこと?」
「ここは死のない国じゃろ?」
老婆が当然のように言った言葉にアリスは理解が遅れ、オウム返しする。
「死の無い、国?」
「なんじゃ、何の説明も受けておらんのかい?」
老婆はカップをソーサーに置いて、アリスを見ては不思議そうに尋ね返した。
「え、はい。
この国は、死がないですか?」
「そうじゃよ。
こんな老婆が50年経っても、くたばらないんじゃからねぇ」
「それでその、分かったことって?」
話の軌道を戻したアリスに老婆は目を細め、再び珈琲を啜る。
沈黙の後、何を思ったのか緩やかに首を傾げた。
「やめておくことにするかのぅ。
娘さんにはまだ早すぎる話のようじゃ」
出鼻を挫かれたアリスは「え?」と間抜けた声を出してしまった。
「娘さんは、早うお家に帰ったほうがえい。
外は危険だらけじゃかならのぅ」
「危険?」
「アリスは、このお伽噺の主人公じゃ。
沢山の厄介事に、巻き込まれるお話じゃ。
娘さんもそうならんように、気をつけなるんじゃ」
老婆はいつのまに食べたのか――空になったカップをソーサーに置き、ソーサーをトーストが置かれていた皿に乗せた。
「達者にな、娘さん」
老婆はアリスを残して立ち上がってはゆっくりと店を出て行くが、彼女は老婆を追うことはしなかった。
何故か老婆の背は、もうアリスに会うことはないだろうと語っているように見えたからである。
「死のない、世界……危険……?」
まるで初めて聞いた単語のように、アリスは老婆の言葉を頭の中で反芻させながら呟く。
不思議の国には、死がない。
そんなことを言ってたような気がしなくもない。
でも確実にそうだとは言わなかった。
帽子屋や眠りネズミはともかく、チェシャ猫なら話そうな内容であるのに。
そしてその先にはまだ続きがあるのだ。老婆が言わなかった続きが。
―――その先を……アナタは聞きましたか? もし……取り戻せなかった場合、の話。
記憶は早めに探した方がいい。
やっぱり今度にしましょうか―――
チェシャ猫の言葉が、走馬灯のように脳裏に過る。
良く良く思い返して見ると、公爵夫人もアリスを一歩も外には出そうとしなかった。
それも屋敷ではなく、自室から出ることを強く禁じていた。何かを危惧しているように。
それはまるで、大切に飼いならされた小鳥が逃げないように、錠までかけた鳥かごのように――
「だって、鳥かごから逃げてしまえば、迷子になって戻ってこない。
大きな鳥に食べられちゃうから……」
思考を巡らせて、知らずの内に呟いた言葉に、ゾッと寒気がした。
そのまま珈琲がすっかり冷めてしまうまで、アリスはテーブルを見つめていた。
カウンターに座る老人は全く動かない。
気が付けば日は斜めに昇ってきて、店の外は人通りが増してきていた。
賑やかになっていく街を見て、ホラー映画を見た後のような悪寒は和らぎ、「御馳走様でした」と一言、アリスはそっと店を出る。
出る際にちらりと目に入った時計は9時になる手前を差していた。




