ピアニストとトランぺッター
新人賞に応募して落選したものです。
演奏旅行に行こう。そう声をかけられた。右側の席に誰かが座ったことにも気づいていなかった。見るとかなりの老齢で、なんとなくどこかで見たことがあるような気がした。
駅の中にあるカウンタバーだった。私は一人止まり木に泊まって、この日のスペシャルというコニャックのハイボールを呑んでいた。何口か啜って、もう飲み終りそうなところだった。
何を言っているのかわからない、というのが普通の反応のような気がするが、そのとき私は、何を言っているのかはわかったのだ。ただ、なぜ私にというのがわからなかった。
一杯おごろうと言う申し出に、私は顎を引いて応えた。それを承諾と理解して、同じものでいいか問いかけてきたので、私はさっきよりはっきりと頷いた。そして私の分と自分の分と、合わせて二杯のハイボールを注文した。
トランペット。
その人は、背の高いグラスに口も着けずにそう言った。私は私の左側の止まり木に楽器ケースを置いていた。私は二杯目も、何回か啜って飲み終えようとしていた。氷ばかりはいっているようなグラスだった。味は悪くなかった。船のような形のボトルに、フランス語で銘柄が書いてあった。それを発音はできたけれど、意味は知らなかった。
名刺がすっと目の前に置かれた。名前と電話番号だけが書かれていた。私はそれをポケットに入れ、席を立った。
部屋に帰ってから調べてみたら、有名なピアニストだった。若いころに一度そのライヴをラジオか何かで聴いたことがあったように思う。ネット上の噂話は、信用に足るものではない。最近は演奏活動はしていないということだった。歳をとって引退したのだと書かれてもいた。レコーディングが長引いているとも書かれてもいた。写真はいずれも私が実際に会ったときより若かった。カウンターの上の節くれだった指が記憶に残っていた。長いピアニストらしい指ではあったけれど、もう辞めたのだと自然に思わせるくらいには古びていた。
どうして私のことを知っていたのかわからない。なぜなら私は一度もステージに立ったことがなかったからだ。何よりも、私は何者でもなかった。ネットで調べたって、個人的にやってるブログくらいしか出て来ない。旅行に行ったとか、読んだ本が面白かったとか、そんな内容で、更新も月に一度くらいで、読者は二十人ほどだった。そんなものを読んで私を見つけたとは思えない。きっと私の名前すら知らないのに違いない。たぶん楽器ケースを持っている所を、たまたま見かけただけだったのだろう。
私は申し出を受けることにした。電話をかけたら、本人よりも若い声が応答した。子供なのか、あるいは弟子なのか。声は私のことをわかっていた。そういう電話があることを、聞かされていたようだった。一度来てくれということなので、日時を約束した。最後に声は名前を聞いてきたので私は答えた。
普通の一軒家だった。豪邸というほどのものではなかったが、私のようなアパートの貧乏暮らしとは程遠かった。電話に出た若い人物はいなかった。あの人が自ら迎えてくれて、応接室に案内された。ソファに座ったが、お茶は出なかった。私はのどが渇いたので、鞄からペットボトルを出して麦茶を飲んだ。
ステージがあるから、一緒に出て欲しいとのことだった。編成はを聞けば、二人だけだとのことだった。
楽屋の入り口で私たちを出迎えた支配人は、ピアニストに尊敬のまなざしを向けていたし、私に対する態度も丁重だった。音楽祭か何かをやっていて、何組ものミュージシャンがステージに立っていた。観客席はほぼ満席だった。そんな大きな小屋ではなかったが数百人くらいは入っていた。前の演奏が終わって、私たちの番が来た。
しかしピアニストはなかなか楽屋から出て来なかった。せかされて私はステージに上がった。まだ幕は下りたままだった。私はケースからトランペットを取り出して、手に持って立った。目の前に掲げて、吹こうとして、マウスピースをつけていないことに気づいた。ピアニストが、スタッフに指示を出してレコードプレイヤを舞台の上に置かせた。レコードを載せて、針を置いた。ざらざらという音がして、やがてヴァイオリンらしき演奏の音が始まった。
幕が上がった。私はマウスピースをセットして、唇を当てて吹き始めたが、音が出なかった。試しに吸って見たら、少し音がした。マイクの前でそうしていたら、何とか客にその音が聞こえたようで、耳を澄ます感じだった。レコードの音は微細だったので、私の音とクラッシックの録音は、ちゃんと観客に聞こえているようだった。
ピアニストは、楽屋から出てきてピアノの前に座った。蓋はスタッフの手によって上げられていた。歳を取っているにも関らず、あの人の姿勢はぴしっと背筋が伸びていた。しかし、両腕は膝の上に置いたまま、前に伸ばそうとはしなかった。
レコードはいつの間にか針が上がって音がやんだ。私も口からトランペットを離して音が終わった。ピアニストは最後まで鍵盤に触れなかった。それでも大きな拍手が起こって、私たちはそれに押されるようにして捌けた。
楽屋に戻って、私が心配していたのはギャラが貰えるかどうかだったが、ピアニストは皺を深くして笑い、よくやったと言ってくれた。これからツアーに出るからよろしくと付け加えた。どうやら今夜のテストには合格したらしかった。
それから私たちは各地を回る演奏旅行に出かけた。私は少しずつトランペットの音が出せるようになった。始めは吸わないと音が出なかったが、やがて吹いても音が出るようになった。唇を湿らせて、マウスピースのところで震わせ、指を使って音階を操って音を出した。しかしそれが何らかのメロディを作るというような感じではなかった。耳障りな雑音にしか聞こえないようなものだったが、観客たちはすすんで聞いていたし盛大な拍手をくれた。心配していたギャラも、ちゃんと口座に振り込まれていた。
ピアニストは相変わらずピアノを弾こうとしなかったし、レコードプレイヤも登場しなくなった。ピアニストはただ椅子に座り、私はその横でマイクに向かってトランペットの音を出していた。それが私たちのスタイルだったし、それが演奏として認められているようだった。
ピアニストは年老いていた。世に出る前は、客のリクエストに合わせて弾くようなピアニストだったらしい。それがトリオを組んでフリー演奏をやるようになってから、ファンがつき、小さい小屋が満員になるようになった。ヨーロッパやアメリカ各地のフェスティバルにも参加して、拍手喝采を浴びた。つまりは、何かを成し遂げた人なのだ。
私は何かを成し遂げた人がどんな気持ちでいるのか知らない。私は、何も成し遂げたことがないからだ。高校受験や大学受験はそれなりに成功したと言える。高校は公立の優秀校だったし、大学は有名大学の端っこに位置していた。最近は大学全体のレヴェルが下がったので、有名大学の真ん中くらいには昇格している。しかし大学を出てからは、特に何の夢もかなえることなく、会社に入って、いくつか転職をして、いまに至るという感じだ。恋愛はしたけれど、結婚したことはなく、子もなしていない。
だから、何かを成し遂げるとはどういうことか本当には知らない。有名な漫画家が、人気漫画家になるということを成し遂げた後で、失踪したりアルコール中毒で死んだりする。それは、何かを成し遂げたからそうなったのか、それともその人は何かを成し遂げなくても結局そうなったのか、私には判断がつかない。
私は何を怖がっているのだろうか。
学生のころは核戦争が怖かった。自分の手の届かないところで、バカな為政者が秘密のボタンを押すことで、この世界が滅んでしまうのが。考えてみれば、これは当たり前の恐怖であって、逆に怖がらない方がおかしいくらいだ。それなのに、いつのまにか私はこのことを強く意識しなくなった。なぜだろうか。もう十分に生きたからだろうか。いま人類が滅んでも、そんなに悪くないと思っているからだろうか。自分の子供や子孫というものがいないからだろうか。
私が失いたくなかったものはいくつもあった。失恋すれば、数日間は何もできなかった。飼っていた猫が死んだときも喪失感は大きかった。しかし、それは恐怖というのとは違うように思えた。
もしうちにいまも猫がいるのなら、私は老ピアニストの提案を受け入れなかっただろう。一日二日の旅行なら、水や餌を多い目に用意することで凌げたし、現に月に一度くらいはそうしていた。しかし、猫は十九歳くらいで亡くなってしまった。くらい、というのは最初は野良を拾ったからだ。猫がいなくなってしまえば、長期の旅行が可能だ。だから今こうしていられる。
自分の生命がなくなることについてはどうだろうか。これも恐怖というのとは違うように思える。不安になることはあった。収入が断たれれば生きていけなくなるかもしれない。しかし、これも今まで何とかやってきたのだ。会社が嫌になったら辞めたし、職安に行って失業保険をもらって職探しをした。
雪の降った日、通りかかった家の玄関の前に雪達磨があった。立派なものではない、ごく小さいものだった。その家に住む、小さな子供が作ったのだろう。屋根の上の雪はまだあったけれど、道路の雪はもうほとんど残っていなかった。コンクリートの上に、ぽつんと小さな雪達磨があるのだった。それは何かを私に思い出させた。
私はあまり雪達磨を作った記憶がなかった。まだ幼稚園にもいかないころ、長屋が向かい合わせになったような家に住んでいた。間の道路は結構大きかったような気がするが、子供の記憶であるから、本当は大して広いものではなかったかもしれない。向かい側の子供が雪達磨を作るので、手伝ってほしいと言われたのだ。私は喜んで手伝った。結構大きいものができたと思う。向かいの家の親も手伝っていた。私の身長よりも大きいものが出来上がったはずだ。
私の貢献がどれくらいだったのか、もしかしたらほとんどなかったかもしれないのだが、その辺りの記憶はない。出来上がったものを見て、私は嬉しく思っていた。しかし出来上がったものを、向かいの人たちは、自分たちの玄関に入れたのだ。私はショックだった。それでは私はその雪達磨を観れなくなってしまう。そのあと、家に帰ってから、小さな雪達磨をいくつか作った。今目の前にあるような簡単で小さなものを。
最近つらくなったのは、街中で子供の姿を見ることだった。もはや赤ん坊ではないが、まだ学校には上がっていない、小さい子供。年齢が小さいだけでなく、体自体が小さくて、毀れ物のようだ。親に連れられて歩いているその姿を見ると、私はなぜか涙が零れそうな気持ちになるのだった。
自分が子供のころのことを思い出してしまうのだろうか。小学校に上がる前のことは、八ミリの映像として記憶されている。親がよく撮っていたのだ。団地のようなところに住んでいて、その向かい側がまだ開発されていない山で、その林の中をテレビ番組の主人公のアイテムを身につけて駆け回っている。
子供たちの将来の姿を思ってしまうからだろうか。この国の未来はそんなに輝かしいものとは思えなくなっている。ヨーロッパで戦争が続いているのもそうだが、それ以前に不景気が続いている。それにもかかわらず物価が上がっている。それは取りも直さず生活苦の可能性が高いということだ。子供たちの将来を憂えて暗澹たる気持ちになるのだろうか。
まだ勉強していない子供たち、という意味のことが頭を過ることがある。ひらがなや数字から始まって、算数や理科、そして方程式や化学式、対数関数やディーエヌエーの働きなどなど、これから十年以上にわたって学んでいく物事。それらはもちろん人類の誇る英知であり、習得して損のないことばかりだ。学校で学んだものが役に立ったことがない、と豪語するおやじたちがいる。それは違うといつも思う。そいつらは、学校で学んだことを役に立てようとしていないからだ。それに学校で学ぶことは知識だけではない。頭の使い方を学ぶのだ。学校という言い方が悪いのかも知れない。別に校舎に通う必要はない。自分で参考書を使って勉強すればいいのだ。
しかし子供たちがそうやって学んだ能力を活かすことのできる未来はあるんだろうか。
チケットは売れているし、客は入っている。評論家も褒めていた。ただ、ピアニストのピアノの音を聞きたいという意見も多かった。なぜ弾かないのか、いつ弾くのかという議論が戦わされていた。私の演奏については殆ど意見が見られなかった。総じてしまえば「なかなか見どころがある」と言ったところだった。しかし、ピアニストの横にいる存在という認識に変わりはないようだった。
ステージが愉しいかどうかと問われれば、よくわからなかった。演奏旅行は愉しかった。もともと私は旅行が好きだった。電車に載ったり、ホテルや旅館に泊まったり、土地のものを食べたり。そしてその費用をあまり心配しなくてよいのだから、願ったり叶ったりだった。
酒の量が増えたのは事実だった。普通に仕事をしていたときは、仕事前にアルコールを摂取しなかったが、そうでないならアルコールを嗜むのは控えなかった。休日は、以前から朝から呑むことが多かった。演奏の直前には吞まなかったけれど、演奏のある日も昼間から呑んで、それから少し昼寝をしてからステージに立つことはよくあった。
噂に反して、ピアニストが酒を呑んでいるところは見たことがなかった。四六時中一緒にいるわけではなかったが、一緒に食事をしているときなどもアルコールは吞まなかった。食事は当たり前のものだった。肉料理や魚料理、サラダなどだ。ホテルでは、私もピアニストも同じようなものを食べたが、いつも一緒というわけではなく、私は一人で外に食べに行くことも多かった。
私は自由を満喫していた。旅暮らしは快適だった。超高級とはいかなくても、適度に洗練されたホテルに泊まることができたし、食事もだいたい思ったものが食べられたし、ウィスキーの銘柄も好きなものを選べた。数日に一度のステージ以外は何をしていてもいいのだ。書店に行って好きな作家の本を買って読むこともできたし、気が向けば美術館や水族館に行くこともできた。
ただ肝腎の演奏はどうだったのだろうか。肝腎であるという意識すら失くしていったような気がする。ピアニストは何も言わなかった。もしかすると、あの人が期待したかもしれないのが何か初心者の純粋なものだったとすれば、それはもう失われているように思えた。いつお払い箱になってもおかしくないと思うようになった。しかし、それでも自堕落な生活は辞めなかった。
その日の演奏はどうだったのだろうか。いつものように幕が開き、ピアニストはいつものように座っているだけでピアノを弾かなかった。私はトランペットを演奏した。何らかの音楽にはなっていた、と思う。それがいいものであったかどうか。私は特にいいと思わなかった。けれど、演奏が終ると客たちは拍手をした。
子供だった。
演奏を終えた私の前に立っていたのは、年端のいかない子供だった。私は慄いた。王様は裸だ。子供がそういうことを言うのだろうと思ったのだ。お前は、ただトランぺッターのふりをして、雑音を捻りだしているだけの、何物でもない人物である。それを拍手で迎えている聴衆たちは、裸の王様をたたえる国民たちと同じ存在であるというようなことを。
そのことをどんな言葉で表現するのだろうか。内容には確信があった。では、子供はどんな言い方をするのだろうか。自分にだって吹けるよと言うのだろうか。誰でも吹けるよと。いやそんな言い方はしないだろう。もっと端的に叫ぶはずだ。両手で両耳を抑えて、もう聞きたくないよと言うのだろう。
ところが子供は、そんなことを言いはしなかった。
私の方を指さして、上手だね。
と、そう言ったのだ。
哄笑が生まれた。そしてアンコールの拍手が起こった。気が付いたとき、子供の姿はどこにも見えなかった。
そのとき私は左の膝の下の部分に、軽い痛みを感じた。一瞬で収まったが、ああこれが例のやつかと思った。テレビのコマーシャルで散々やっているやつだ。これから私はこの痛みと付き合っていかなければならないんだな、と考えていた。
ピアノの音が聞こえた。アンコールの拍手が止んだ。その音たちは、確かに調弦されたピアノから聞こえてきたものだった。弾かないからと言って、あの人はそういうことを怠りはしなかった。ちゃんとホールに確かめてあった。けれど、その音たちは、和音を伴っているようには聞こえなかった。私のトランペットの音が、たまたま和音になってしまうことがよくあるのに反して、決してそのような響きを引き起こさなかった。
私もトランペットを構えた。なるべく下手糞に聞こえるように音を発し始めた。