ハハガカエル
僕の母はカエルだった。
アマガエルが土の上では茶色に、草の中では緑色に肌の色を変えるように、僕の母はカエルの群れの中ではカエルに、人の群れの中では人に姿を変えて生きていた。
そうした暮らしの中で、たまたま人の姿をしていた時に僕を授かる結果となり、人同様に十月十日、お腹の中で僕を宿し温めてから、外の世界に産み落とした。
母はもういない。
父親曰く、お前が赤ん坊の頃に母親は帰らぬ人になったのだ、と。必ず帰ると言ったのに……と。
父方祖母曰く、お前の母親は若い男と蒸発したのだ、と。お水の暮らしが長かったから……と。
人の姿かたちで、人の輪の中で成長を続けた僕。
きっとどこの誰が見ても人に見えることだろう。
でも、朝起きて水でパシャパシャ顔を洗うとき、洗面台の鏡に映る自分の顔が時たまカエルで、また、雨が降った後の水溜りに映る自分の顔がたいていカエルで、血というやつは抗えないなぁと思ったりした。
僕は恋なんてする予定じゃなかった。
したくなかった。
自分が不確かな、不安定な存在で、そもそもが完璧な人じゃないから。
そんな中途半端な生物に惚れられても、惚れられた相手はきっといい迷惑だろうと思う。
でも、人の心って難しい。
いや……そもそも、ちゃんとした人ではないのだけれど、カエルなのだけれど、カエル心って難しい……のかな?
心、というやつが、きっと兎にも角にも難しい。
ある日、僕に好意を告げにやってきたのは、人の父を持ち人の母を持つ、正真正銘どこからどう見ても人だった。
僕は誠実であろうとした。
真っ直ぐな気持ちに対して、真っ直ぐな心で返したい。
「ごめんね、君とは付き合えない。僕はカエルだから」
僕の答えを聞いた彼女の表情は、なんとも表現しがたいものだった。
怪訝そうな、とか、訝しむ、とか、腑に落ちない、とか。
悲しみとか怒りとか驚きとかを通り越して、なんだかよく分からない、みたいな表情で僕を見ていた。
「大丈夫、な気がします。多分。……カエルはそこそこ好きですし、私は貴方のことが好きなので」
人を好きにならないように、と思いながら、でも彼女と共にいる選択をした。
ランチして、デートして、手を繋いで、ハグをして、まるで人みたいに彼女との交際を続けた。
彼女と体を繋げた日、彼女に最終確認をした。
「僕はカエルだけれど、本当にいいの?」
彼女は笑いながら、人の姿をした僕の顔に手を添えた。
「大丈夫よ。貴方だからいいの。人でも、カエルでも、貴方だからいいの。仮に子どもができて、その子が卵でもオタマジャクシでも、きっと愛せるわ」
彼女は僕がカエルだということを否定しない。
彼女はありのままの僕を、カエルであるという僕をそのまま受け入れてくれる。
結婚し、子ができて、生まれた子は人の姿だった。
どこからどう見ても、鏡に映してみても人。
僕は鏡に自分を映す。
「僕って人かなぁ、カエルかなぁ」
「どちらでも、私は貴方が好きよ? ほらパパ、早くオムツを替えてあげて」
人かカエルかよく分からない僕は、妻の指導を受けながら子のオムツを替える。
「沐浴も頼んでいいの?」
「うん、頑張ってみるよ」
ベビーバスで子を洗う。
人の子だから、両生類ではないから気を付けてあげないと。
子をバスタオルの上にそっとおろし、水滴を丁寧にタオルで吸わせ、オムツと肌着を着せた。
綿棒を使いヘソの消毒、クリームを適量手に取って肌の保湿。
人の世話は大変だ。
子を妻に渡し、ベビーバスを片付ける。
ぬるま湯には自分の顔が映っていて、年相応か少し上くらいの、おっさんの顔に見えた。
人として、僕は順調に年を重ねている。
カエルの母の行方は知れない。
やはり、二度と会うことはないのだろうか。
もし母に会う日があったとしたら、の「もし」を子どもの頃から幾度となく考えた。
夕方、庭で草抜きをしているとぴょんとアマガエルが飛んだ。
「ああ、母さん」
口に出した言葉に、カエルからの返事は無かった。
カエルはぴょんぴょんと、また草むらに消えて行った。