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葵夜叉短編集

葉月ノ巻 向日葵夜叉

作者: 藤波真夏

 未だ収束見せぬ将軍家の骨肉の争い。先代将軍は流行病で夭折され、奥方もその後を追う。残ったのは、先代将軍の忘れ形見。それはまだまだ純粋無垢な少年だった。

 幼き忘れ形見に、魔の手が及ぶ。


 この時代は特に荒れていた。この世は代々足名家という武家が治めていた。ところが先代将軍が流行病でこの世を去ると、跡目を巡って様々な論争が起こった。

 先代将軍には一人息子がいた。しかし、一人息子はまだ幼い子供で、政治をできるような状態ではなかった。そこで、将軍の側近たちは正当な後継者が大人になるまでの間を埋めるため、ある人物に白羽の矢を立てる。その人物は、足名義安あしなよしやす。先代将軍の弟である。

 義安は将軍に就任した。

 しかし、義安には思惑があった。義安は兄である先代将軍よりも武勇に優れた人物だった。数々の武功を挙げたにも関わらず、将軍に選ばれたのは兄だった。それをずっと根に持っていた。あろうことか、棚から牡丹餅のごとく、転がってきた将軍職。

 義安は、忘れ形見である幼い少年にいずれ将軍職を譲らなくてはいけなくなる。しかし、義安はこの将軍職を譲ることなど一切考えていない。義安にとって、忘れ形見は邪魔な存在だった。

 義安は将軍職を追われることを恐れ、自らに刃向かう人間は全て粛清、捕縛、処刑を繰り返した。いつしかこの世は平和とは程遠い、恐怖政治の温床となってしまった。人々は、常に義安に怯え、捕縛されることを恐れていた。

 義安にとって最大の脅威である忘れ形見は、義安の暮らしている屋敷よりも離れた小さい別荘で暮らしていた。義安が入ったことで追われる形で屋敷を出て、現在は別荘でひっそりと暮らしていた。

 世話をする人間はおらず、付き人はたった一人の武士だけだった。

松丸まつまる様。ただいま戻りました」

国永くになが! おかえり!」

 松丸まつまる。彼こそが、先代将軍の忘れ形見。目のクリッとした愛らしい少年だった。質素な着物を着ており、髪の毛は一本に結んでいる。御曹司らしからぬ姿だ。

 そんな松丸に付き従ったのは、有馬国永ありまくになが。彼は将軍家に仕える武士である。亡き先代将軍から松丸のお目付け役兼剣術師範を命じられた。松丸が別荘に追いやられる際も、先代将軍からの御恩に報うため、松丸に付き従い、彼を守っている。

「どうだった?」

「人々は恐怖に怯えていました。いつ自分が殺されるのかと…」

「なんでこんなことに…」

「現将軍が己の保身のために恐怖政治を行っているとしか考えられません」

「僕も…殺されちゃう?」

「そんなことを考えないでください! どんなことがあっても松丸様はこの国永が守り通します!」

 国永は松丸に頭を下げて言った。国永の言うことは正論だった。今、松丸が死ねば直系の血脈は途絶える。それだけは許されないと国永は言った。

 しかし、松丸に従っている人物は目の前にいる国永だけだ。松丸はまだ刀すら握れない。弱々しい少年の腕では、国永のような力もなければ、刀すら重くて持てない。松丸は幼い子供ながら、守られることへのもどかしさと戦っていた。

 そんなもどかしさを持つ松丸へ国永は、幼い子供だからそこまで難しいことはまだ考えなくてもいいと思っている。自覚が生まれるのは悪いことではない。しかし、この戦乱の現状の中で、松丸は生き延びるべき人物である。国永は松丸のためならば死んでも構わないという忠誠心を持っている。

 松丸が国永と話していると、屋敷の門が開く音がする。それを聞いた国永が音のする方を見た。松丸がどうしたのか? と聞くと国永が笑った。

 松丸に対し、迎えに行って参りますと国永は言って部屋を出て行った。

 国永が行くとそこには、大きな風呂敷を持った少女がいた。黄色の花が描かれた着物を着て、少し砂埃を被った髪の毛。横髪を赤い飾り紐で結んだ童女。

日多季ひたき。おかえりなさい」

「有馬様! ただいま戻りました」

「幼い足で遠くまで行かせて申し訳ない。疲れたでしょう、冷たい水を準備しよう」

「…私は大丈夫です。これ、頑張って探してきた食べ物です」

 まだ松丸と同い年のように見えるのに、どこか大人びていて落ち着いている。

 この大人びた童女は、日多季ひたきという。

 彼女の母は松丸の乳母を務めた女性だ。乳母の娘である日多季はまだ記憶が曖昧な赤子の頃から、交流があり、幼馴染のような関係だ。乳母の母からは何度も「松丸を守りなさい」と言われ続けた。

 その癖なのか、幼馴染でありながら日多季は「松丸は命をかけて守る存在」と認識している。乳母の母は忠誠心の強い日多季を見ながら、何度も思った。

 この子が男の子ならば…立派な武士になって松丸の右腕になるはずだったかもしれない。

 本家の屋敷を追い出された時も、国永と一緒に松丸を支えたいと松丸に付き従い、こうしてこの別荘で一緒に暮らしている。しかし、生きていく上で必要な食料を日多季が外出して入手している。

 国永も付いて行きたかったが、いつ命を奪われるかも分からない松丸を一人にさせておくわけにはいかないため、日多季に任せるしかなかった。国永も申し訳ないと思っているが、日多季は国永の予想以上にしっかりしていて、国永は頼りにしていた。

 日多季は井戸水を飲んで喉に潤いを与える。皮膚にくっついた砂埃を濡れた布で拭う。布は砂埃がこびりついて変色した。それだけ、この国が荒廃している証だった。

 日多季が室内へ入ると、松丸と国永が待っていた。

「日多季、おかえり!」

「…ただいま」

 日多季は松丸の前では素直になれず、そっぽを向いてしまう。日多季は素直になれない態度を繰り返すたびに後悔を重ねている。すると、日多季の口が開いた。

「出かけている時、たくさん捕まった人たちを見ました」

「…」

「どうして今の将軍様は私たちを平気で殺そうとしているんですか? みんな、別に何も悪いことなんてしていなのに…」

「日多季。これはこの国のあるべき姿ではない。罪もない人々を殺していくのは、絶対にあってはならないこと。しっかり正していかなくてはいけない。松丸様はいずれ将軍となり、この国を正してもらわなければならない」

 国永は言った。

 しかし、本来本家にいるはずの松丸がこうして別荘に追いやられていることを見ると、現将軍の義安は松丸を目の敵にしていることは事実だ。国永は味方をなくした松丸の唯一の味方として従い続けると心に決めている。

 静かに平穏に過ごす。これが、松丸の願うことだった。





 幼き忘れ形見に迫る脅威。

 その脅威こそ、幼い忘れ形見を消し去ろうとする者の黒い手。

 戦乱で澱んだ穢らわしい空気の中で、彼らは逃避行を始めていく。鋭い刃と恐怖から逃れるように。


 その知らせは暑い暑い夏の日だった。空は青空が広がって汗を額に浮かべながら、人々は暮らしていた。しかし、空気の澱みはまだ重いままだ。

 将軍家の屋敷では、将軍である義安が扇子をパチンパチンと鳴らしながら思案していた。そしてついに知らせを出す。立ち上がり、控えていた家来へ指示を出す。

「兄上の忘れ形見を…殺せ。あれは…邪魔だ」

 多くの兵士たちが松丸たちの暮らす別荘へ隊列を成してやってくる。人々は何事かと物陰に隠れて見ていた。逆らえば、殺される。恐怖が人々の心を支配していたのである。兵士たちは別荘へ到着した。

 別荘へ物々しい雰囲気で入ってくる兵士たちを出迎えたのは、国永だった。国永はものすごい剣幕で縁側に座っていた。兵士は国永に松丸の居場所を聞いた。すると国永はこう答えた。

「お前たちがここへ来ることは予想していた。義安様がついに暴挙に出たということ。松丸様を殺せとでも言われてきたのであろう? 残念ながら、我が主人の松丸様はおらぬ。松丸様の居場所は死んでも吐かぬわ!」

 国永は腰に差した刀を抜き、兵士たちに向ける。松丸を探したくば自分を殺してからにしろ、と言わんばかりだ。兵士たちは国永に襲いかかる。国永は狭い別荘の中で兵士たちをなぎ倒していく。

 松丸様。日多季。必ずや生きてまた再会いたしましょう! この有馬国永も、そう簡単に死にませぬ!

 国永はそう心に強く叫びながら戦いを繰り広げた。

 国永が戦いをしているまさにその頃、別荘から離れた町の路地裏で膨らんだ風呂敷を持った少年少女がいた。別荘から逃げてきた松丸と日多季だ。義安が松丸へ刺客を仕向けた情報はすぐに別荘にいる国永の耳に入る。大人の国永が子供二人を庇いながら戦うのはなかなか難しい話だ。

 そこで国永は一滴の望みにかけてある作戦を行う。それは、松丸と日多季を遠くへ逃がす作戦だった。国永は情報が舞い込んだ直後に松丸と日多季に旅支度をさせて別荘から抜け出させていた。

 戦乱の世であれば、孤児がいても怪しまれないからだ。そして舞い上がる砂埃をかぶれば松丸といえど将軍家の血を引く尊い人間に見えなくなるからだ。

「日多季。大丈夫?」

「うん。大丈夫。有馬様は大丈夫かな…?」

「国永は強いから…大丈夫だよ。さ、行こう、日多季」

 松丸が日多季に手を差し出した。日多季は差し出された手を握った。二人は何度も何度も振り返って国永が戦う別荘の方を見ていた。日多季は心配そうに見ている。そんな日多季の手を強引に引っ張って松丸は走り出す。

 ジリジリと太陽が照りつけるような暑い夏。

 命を狙われた幼い子供達の、真夏の逃避行が始まった。

 二人が潜伏しているのは主に裏路地だった。ここならば、孤児も多くそう簡単に見つけられないと考えたからだ。しかし、戦乱で乱れた世の中を生きる人々の目からは光がなく、兵士が通るたびに恐怖で物陰に隠れるような様子だった。

 二人が移動するときは、日多季が最初に見て安全を確認したら松丸が出てきて移動していた。日多季の中にあるのは、松丸を守らなくてはいけないという強い思い。逃げているこの状況下でその思いは日に日に強くなっていく。

 そして夜になれば二人で肌を寄せ合って暖をとりながら眠りについた。極限状態を経験していく二人の心はだんだんとたくましくなっていった。

 ある日のことだった。松丸と日多季が歩いていると男性の叫び声が響いた。そこへ走って向かうと、若者に武器を持った兵士達が群がる。口論をしているようだった。どうやら義安の陰口を叩いたことを密告されたのだった。若者は必死に無実を伝える。

「私は何も言っておりません!」

「黙れ! 密告がある以上、生かしていく価値などないわ! ええい!」

「ぎゃああああ!」

 若者の体に刃が突き立てられた。断末魔が響き、人々が悲鳴をあげた。松丸と日多季が見たのは無残に殺された若者の遺体。心臓を突かれて死んでいた。地面には血だまりができる。そして若者に刃を突き立てて、無礼にも踏みつけにして兵士は言い放った。

「逆らえば死だ!」

 人々は震え上がり、その残酷な遺体に日多季は声を失ったが、その目を覆い隠したのは松丸だった。日多季の体は恐怖でかすかに震えていた。しかし松丸だけはその無残な現場を凝視して睨みつけていた。

 これが現実だと言わんばかりに自分のまなこに焼き付ける。これがこの国で起こっている残酷な恐怖政治の実態である。少なくとも松丸の父が将軍だった頃はこんなことはなかった。人が変われば、こんなに世は変わるのかと思い知らされた。

 若者を殺した兵士が松丸たちの元へやってくる。松丸はこのままでは捕まると日多季を連れて走り出した。

「日多季。大丈夫?」

「…」

「日多季」

「…うん。大丈夫。ごめん」

 日多季はうつむいたまま答えた。そう言っている日多季の手は震えていた。その手を松丸が優しく握る。日多季が見ると松丸はこの極限状態の中でニッと笑い、日多季を安心させようとした。

 僕は大丈夫、と言わんばかりの笑顔に日多季はほだされていく。安心させるのは日多季の方なのに、立場は変わってしまっている。

「日多季。僕が必ず日多季を守るからね」

「それは…! 私の言葉!」

「僕は男だから! 国永が女子一人守れないのは男ではない! って言ってたんだー。何かあれば日多季を守るのは僕の役目だぞって」

「…へんなの」

 日多季は笑った。日多季が笑ったところを見て松丸も安心して隣に腰掛けた。すると松丸の頬に砂埃の汚れが付いている。それを日多季が手で拭う。

 ひゃっ?! と甲高い声をあげた松丸をよそに、汚れを拭う。するとお返しとばかりに松丸もニヤリと笑って日多季の顔を拭う。やられたらやり返す。それを繰り返してくるとなぜか楽しくなってしまう。

 いつの間にか、松丸と日多季はじゃれあい始め、地面に背中をつけて最終的には笑い合っていた。

 素直になれなかった日多季が年相応の姿を見せた瞬間だった。日多季は松丸のことが大好きだった。しかし、彼女は松丸よりも大人になるのが早かった。好きになっても、将来の将軍である松丸とは結婚できない。悲しすぎる現実を無理やり受け入れようとしていた。

 そんな想いを日多季はずっと胸の中に秘めている。手が触れるたびに胸が高鳴って、どうにかなってしまいそうだった。

「今日はもう寝よう。疲れた」

「そうだね。寝よう」

 二人はまた肌を寄せ合って眠った。人目につかない裏路地の物陰に体を隠し、二人で暖を取り合いながら眠った。

 一方、将軍家では義安が焦りを見せていた。松丸は逃走し、殺すために仕向けた兵士たちは全て国永によって成敗されてしまったのだ。そして国永も松丸を探して行方をくらました。義安は松丸の行方を追って、寺などにも兵士を仕向けている。匿っている可能性があるからだ。隠し立てをしたとみなし、寺に火を放ち、多くの僧侶たちが焼け死んだ。義安は扇子をパチンパチンと鳴らし、ついにそれをへし折ってしまった。

 苛立ちが最高潮へ達していた。

 義安は兵士たちを増員し、松丸の行方を追い続けた。

 そして松丸と日多季の行方を追う国永も目立たない格好で町の中を探す。二人はまだ子供だ。その足で遠くまで行くことはできない。必ずどこかに身を隠していると思っている。

「松丸様…! 日多季…! 無事でいてくれ!」

 国永は必死で探し続けた。





 忘れ形見、ついに捕らえられん。

 真夏の暑い日に、幼子たちは大人相手に逃げ回る。

 必死に生き延びることだけを考え、未熟な足で逃げ回る。


「日多季! 僕の手を離さないで!」

「うん!」

 二人は全速力で逃げていた。二人を追いかけるのは、義安が仕向けた兵士たちだ。刀や槍を持った大人たちに追いかけられ、二人は必死に逃げ回った。二人はとっさに入り組んだ裏路地へ隠れた。兵士たちはそこへ入り込む。二人が逃げ込んだのは割れた民家の壁の隙間。子供しか入れないそこに入り、息を殺す。

 裏路地には誰もいない。兵士たちは息を切らしながら探し出す。二人の心臓の鼓動が大きくて、その音で見つかってしまうのではないかとハラハラしてしまう。すると兵士は諦めていなくなった。気配が消えたことを確認し、松丸と日多季は壁から出てくる。松丸と日多季の腕にはたくさんの傷が。木の棘が刺さってできた傷、逃げた時にすりむいた傷。たくさんだ。

 二人が兵士に遭遇する回数が増えた。義安が兵士を増やした証拠だ。義安が本腰を入れたことを思い知らされる。心が休まらない。

「日多季」

「何?」

「日多季だけでも逃げて。兵士たちの狙いは僕だけ。日多季は狙われることはないし、僕と一緒にいれば殺されることもないよ」

 それを聞いた日多季は目を見開いて松丸の手を振り払った。日多季の目には大粒の涙をたたえていた。涙を流し、顔を赤くして、怒っている。

「逃げて? バカなこと言わないで! 松丸は言ってくれたよね? 僕が必ず日多季を守るからね、って。それは嘘だったの?」

「…」

「私はどんなことがあっても松丸のそばを離れないって決めてる。松丸は将軍様になるんだから! 私は…松丸の味方でいたいの!」

 日多季が言った。松丸は逃げる時も寝る時も必ず離れまいとつないでいた手。それは、日多季が松丸の味方でいるという証だった。女子は大人になるのが早いと言われているが、日多季はすでに心が成長していた。まさに、男だったら立派な武士になっていたくらいに。

 日多季の思いを改めて知った松丸は、再び手を握り返した。僕もだよと言っているかのようだった。二人は離れないように手を握り返して、歩き出す。

 その後は兵士に見つかる度に走り、物陰に隠れてやり過ごしていた。必ず手をつないで絶対に離れないようにしていた。すばしっこい二人に大人たちは翻弄されてしまう。二人は生きるために逃げ続けている。この恐怖政治を終わらせるために、生きて将軍に就任するという使命を胸に。

 しかし、二人は逃げ延びることが叶わなかった。いつものように兵士から逃げていた。いつものように裏路地へ逃げて身を隠しやり過ごそうとしていると、裏路地に兵士が待機しており、逃げ道を塞がれた。

 二人は他の場所を探すが、全て兵士たちが待機していて逃げ道が完全に封鎖されてしまった。無理やり兵士たちの隙間を抜けてなんとか逃げていたが、結局二人は兵士に捕縛された。松丸は兵士に踏みつけにされ、地面に叩きつけられ、日多季も同様に乱暴に地面に叩きつけられた。

 口の中に入る砂利がまずくて呼吸ができない。ジャリジャリと口の中が不快でたまらない。しかし、そんな甘えを大人たちは許してくれなかった。二人は縄で縛られ自由を奪われ、連行されていった。

 何度か脱走を試みるも逃避行中に弱ってしまった体では抜け出すことはできなかった。二人は兵士たちと共に義安の屋敷へ連行されていく。兵士たちは子供にも容赦なく刀を向けて脅す。

「松丸…」

「…大丈夫だよ。僕たちはずっと一緒だ」

 身も心もボロボロになりながら二人は歩く。しかし、その列は止まった。すると兵士の一人が二人に声をかけた。

「ここでよい」

 もう歩かなくていいと思った二人は安堵して顔を見合う。しかし、その安堵は一瞬で崩れ去る。二人の喉元には兵士の刀の切っ先が向けられていたのだった。二人の呼吸は一瞬止まった気がする。

 見上げた松丸に兵士は言った。

「屋敷まで連れてくる必要なないと義安様の命令じゃ」

 その言葉の意味を極限状態でも松丸は一瞬で理解した。屋敷に連れてくる必要がないということはここで殺してしまおうということだ。松丸が振り返った次の瞬間だった。

「っ…」

 命の消える音がした。

 松丸の背後では背中に刀を突き立てられて血を流す日多季の姿があった。それを見た松丸は動揺し、日多季の側へ走り出す。

「日多季! っ?!」

 松丸の足を切りつけた。腱を切られて足に激痛を覚えた松丸はその場で這いつくばる。匍匐前進で日多季の名前を呟きながら近づいていく。日多季の周りはだんだんと血だまりができてきて、もはや助からない。それでも松丸は日多季の側へと急ぐ。すると今度は日多季と同じように背中を突かれた。

 松丸の断末魔が響く。鋭い鉄の塊が松丸の肉と骨を裁断していく。バキバキと骨が砕けていく生々しい音が聞こえて来る。大量の血を流しながら、執念で動く。そしてついに日多季の隣に向かい、手を握る。松丸は痛みに耐えながらそして自分を見下す兵士たちに向かって、怒りを込めて低い声で怒鳴った。

「よくも…僕の大事な人を…殺したな…! 僕が死んだら…必ず…、復讐する!」

 松丸は日多季の腕に口をつけた。そこから滴る血を飲み干す。まさにそれは人間を捨てた者のする行為だった。松丸は日多季を殺されて気がおかしくなったのかと兵士たちは笑う。大量出血で意識は朦朧とし、命の灯火は消えようとしている。しかし、松丸は最期まで日多季を守るため側を離れることはしなかった。

 松丸は兵士たちに異様な姿を見せながら、日多季の血を貪った。それを見た兵士は松丸をこう呼んだ。

「夜叉め! 死ね!」

 兵士の刃は最期の止めとして松丸の首を切りつけた。首からは真っ赤な鮮血が勢い良く飛び出して放物線を描いた。その血は周囲に飛び散り、真っ赤になった。まさに地獄絵図だった。松丸はその場に倒れ込み動くことはなかった。

「…行くぞ」

 兵士たちは松丸と日多季を残して去っていった。しかし、首を切られた松丸はまだかろうじて生きていた。しかし、視界は歪み、色を失い、思考を失っている。もう死は目の前だ。松丸は日多季の顔に自分の顔を近づけた。

 日多季の顔は安らかだった。苦しんでいない。日多季は心臓を狙って刺されていた。即死だ。何も痛みを伴わずに苦しまずにあの世へ先に逝ったのである。守ると約束した大事な人物を亡くしてしまった松丸は泣いていた。

 日多季に対して、守ってあげられなくてごめんねと懺悔の言葉を何度も呟いていた。しかし、松丸はずっと秘めていた想いを死の間際になって口にする。

「日多季…、僕は…君のことが大好きだったよ…。小さい時からずっと…、僕が…将軍になったら…お嫁さんに…した…かった…。日多季…、大好きだよ…」

 松丸は日多季の頬に優しく口を寄せた。その味は二人で拭き合った砂埃の味だった。松丸も日多季のことが好きだった。それは純粋な恋だった。しかし、松丸もまたその想いを秘め、口に出すことはなかった。松丸は日多季の手を握り、寄り添いながらその命を終えたのだった。

 大きな血だまりの中に幼い子供が二人。着物を真っ赤に染めて沈んでいる。傷だらけの幼い物言わぬ体は灼熱の太陽の下にさらされたのだった。





 幼い二つの命が散った。決して許されることではない。

 私は二つの命を守れなかったことを後悔し、何度も死を選ぼうとした。しかし、あの方がそれを止める。必ず、生きて欲しいと。私、有馬国永はここに忌まわしい記録を残すことを決める。


 松丸と日多季の遺体は野ざらしにされ、灼熱の太陽に焼かれた。人々はその無残な姿に心を痛め藁布を被して手を合わせた。そして、二人の行方を追っていた国永の耳に幼い少年少女が惨殺されてその遺体が野ざらしにされているという情報を得る。

 国永が嫌な予感を覚えながら走って向かい、藁布を取るとそこには変わり果てた姿で物言わぬ屍となった松丸と日多季の姿があった。国永は膝をつき、二人の遺体に手を触れて泣き出した。

「松丸様…! 日多季…! すまない! こんなことになって…本当にすまない!」

 国永は松丸と日多季の遺体を引き取った。しかし国永が驚いたのは、松丸が日多季の手を握ったまま亡くなっていたこと。そして松丸の口の中が血で真っ赤になっていたこと。まるで血を吸い込んだかのように。

 その状況を見た人々は言う。この幼い子供達は夜叉だと。

 国永は信じなかった。松丸を夜叉と呼ぶことに。この国では強い恨みを持ったまま亡くなる、禁断の恋に落ちると夜叉と呼ばれる化け物になると言われている。その対象は子供でも変わらない。

 国永は先代将軍の忘れ形見を死なせてしまったことに後悔し、涙を流しながら二人を丁重に葬った。真夏の暑い日の逃避行がもたらした悲劇だった。

 しかし、悲劇はこれで終わりではなかった。義安は松丸の死を聞いて、これで正統血統が途絶え、これからは義安の血統であることに歓喜した。そしてさらに恐怖政治を強めていくのであった。ところが、義安の周りでだんだんと不可解なことが起き始めた。

 義安の次に将軍になるはずだった息子が急死し、義安の妻までも亡くなった。そして流行病がなぜか将軍家の中で流行りだし、多くの貴族や兵士が亡くなった。その中には、松丸と日多季を殺した兵士も含まれていた。

 義安は思った。

「まさか…あの忘れ形見の祟りか?」

 そうとしか考えられなかったが、まだ幼い子供が恨みを晴らすために祟りになるかと自己解決させた。しかし、義安は甘かった。義安は夢枕で松丸に睨まれて、刀を突き立てられる光景ばかりを見ていた。

 そしてついに義安は半狂乱になって、周囲に危害を加えるようになった。義安は自分の一族全てを皆殺しにし自分もその一人になってしまった。ついに足名義安の血を引く一族はこの世から一人残らず消え去ってしまったのだった。

 松丸の無残な死から一年後の暑い夏の日だった。

 そんな中、噂が聞こえてきた。


「暴君の将軍一族を皆殺しにしたのは、先代将軍の忘れ形見の復讐だ」

「一緒に死んでいた童女は忘れ形見の想い人で、その童女を殺したことを怒った忘れ形見が、血を啜って夜叉になって復讐したんだ」


 先代将軍の忘れ形見、松丸のことだ。すでに松丸の死は公表されており、人々はそれをささやきあった。それを聞いた国永は松丸と日多季が並んで眠る墓に向かい手を合わせた。

「松丸様。もう復讐は十分でございましょう。これ以上、人を殺す夜叉になったあなた様を見るのを、あの子は望んでいません。大好きな日多季と一緒に安らかにお眠りください。死するその日までこの有馬がお守りいたします」

 国永は毎日毎日二人の墓へ行き手を合わせた。国永の思いが通じたのか、将軍家に降りかかっていた不幸は、パタリとなくなったのだった。

 国永は一人考えていた。どうして松丸が夜叉と呼ばれるようになったのかを。

 殺された松丸と日多季は非常に仲が良かった。夜叉になると呼ばれているのは禁断の恋に落ちた時。二人はそんな不埒な関係ではない為に復讐の名で夜叉になったと言われた。

 しかし、真実は違う。

 二人は確かに身分違いの禁断の恋に落ちていた。しかし、お互いが素直になれず想いを伝えないまま、運命の悪戯によって無残に命を散らしてしまったのだった。そして、大好きな日多季を殺された恨みから、松丸は日多季の生き血を啜り、夜叉に身を堕としたのだった。

 松丸の想いを鎮めない限り、松丸は後の世でも夜叉として悪い話が伝わってしまう。それを阻止しなければ、と国永は動き出した。

 純粋で優しく、誰よりも幼馴染を愛した幼い忘れ形見の本当の姿を伝える為に。それが亡くなった二人に対する供養になるだろうと。国永は、この真夏の暑い季節に起こった悲しい出来事をしっかりと書き進めていくのであった。





 主君を喪った有馬国永様は、筆を取り一つの手記を書き上げました。

 それは自身の周りで起こった様々な出来事や、主君である忘れ形見と忘れ形見が愛した幼馴染のことが主軸に描かれていきました。

 この手記から、足名義安の恐怖政治の実態が知られ、彼の悪名が後世に伝えられることになりました。そして、この恐怖政治で人々が恐れていた中で、真夏の暑い日に起こった逃避行のことも描かれたのです。有馬国永様が綴った手記の中では、忘れ形見とその幼馴染が手を握りしめ、必死に逃げる様が生々しく描かれていたのです。

 そして忘れ形見の壮絶な最期もしっかりと書かれていました。そして、忘れ形見の祟りと思われる怪事件のことも書かれ、それが「夜叉となった忘れ形見が愛しい幼馴染を殺した相手への復讐」とも書かれていました。

 しかし、今となってはそれが事実がどうかも分かりません。手記の作者である有馬国永様も遠い昔に忘れ形見の元へ向かわれましたから。

 有馬国永様が忘れ形見の元へ向かわれた後、この手記に記された幼い二人の逃避行は、一つの悲劇の物語として様々な演芸の題材となりました。この演芸には名前がありませんでした。この演芸に夜叉とつけようものなら、忘れ形見の恨みを買い、呪い殺されてしまうかもしれませんから。

 そこで後世の人々はこの悲劇の物語に敬意を込めて名前をつけました。その名は、

 「向日葵夜叉ひまわりやしゃ」。

 その名が付けられてから忘れ形見による復讐劇から真夏の日に幼い子供だけで逃げた逃避行、そして幼い子供の純粋な恋を描いた悲恋物語へと変貌を遂げたのです。

 真夏に咲く向日葵の花に幼い子供の純真さを重ねて名付けたのかもしれません。実は、忘れ形見と幼馴染の眠る墓は現存していて、今では夏になるとたくさんの向日葵の花が献花されるようになったとか…。

 そして、この向日葵夜叉の元となった幼い子供達の逃避行は、「向日葵夜叉の逃避行」「向日葵夜叉の純真」「向日葵夜叉の復讐」と様々な名を与えたのです。


 これにて、相思相愛の子供たちによる真夏の日の逃避行「向日葵夜叉」の物語はこれで終わりとさせていただきます。



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