迎え盆に亡き人を想う
時間と共に、人の心は変わっていく。そしてどれほどの時を経ようとも、褪せぬ想いもある。
変わる心と、褪せぬ想い。
どちらが正しいとか、幸せだとか。いったい誰が決められるだろう。
迎え盆の今日、澄江は仏壇に向かって手を合わせながら、そんなことを考えていた。
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澄江が宝田の家に嫁いで来たのは、二十二歳の時。平成も終りを迎えようとしているこの夏から数えれば四十年も昔の、はるか昭和の時代のことだ。
見合い結婚だったが、相手の清一は穏やかな人で印象も悪くなく、二・三度会ってから心を決めた。
宝田家は、北関東の片田舎にあるこの町の中では比較的大きな米農家で、戦前は多くの小作を抱えた豪農だった。
農地解放で田畑の多くを手放してしまったが、築百年を超えるという広い屋敷と、大きな長屋門を構える白塗りの土塀が、かつての栄華を物語っていた。
夫となる清一は、この家の一人息子だ。
中学校の国語教諭を務める傍ら、農業の手伝いもしている。いずれは退職して家業を継がなくてはならないと、見合いの席でも語っていた。
農家の嫁となることについては、特に抵抗はない。澄江の家も農家であったし、宝田家は地元ではそれなりの名家で通っていたので、むしろ玉の輿だと密かに喜びさえした。
結婚してからも、大きな問題はなかった。
夫は真面目で優しく、義父の慎二郎と義母のカネも、二人とも朗らかで夫婦仲も良いように見えた。
嫁入りしたのは、六月の始めのこと。田植えも終わり、春の農作業が一段落した時期だ。
繁忙期は越したが、それでも水の管理や肥料、農薬の散布など、日々やるべきことは少なくない。
夫は平日は出勤で不在なので、若い澄江はことのほか頼りにされ、義父母に代わって野菜の出荷や肥料などの手配も任されるようになっていた。
「澄ちゃん。悪いんだけど、直売所からネギ持ってきてくれって電話あったんで、ちょっと届けてくれんかね。作業小屋に積んであるやつ、二十箱でいいから」
「はーい」
義母のカネは、気さくでおしゃべり好きだ。長年一人で男二人の相手をしていたので家に女性がいるのが嬉しいらしく、一日中澄江をそばに置いてずっとしゃべり続けている。
「あ、ついでに夕飯のお買い物もしてきちゃいますね」
「はいよ、好きなもん買っといで。若いんだから、精のつくものたんと食べんとね」
そう言いながら、澄江の尻をポンと叩く。澄江は「あはは」と笑い返しながら、この子作り圧力だけは勘弁して欲しいと密かに願うのだった。
働き者の澄江にとって、多忙であることは全く苦にならない。
澄江はこの家の嫁として恥じることのないよう、早朝から夜遅くまで、家事に農作業にと甲斐甲斐しく働いた。
狭い町のこととて農協や役場にも知り合いは多く、皆親切に対応してくれるので、慣れない伝票の処理などもすぐに覚えることができた。
夫は家のことを任せきりで申し訳ないと言うが、その代わり夜や休日には存分に甘えさせてくれるし、義父母も、頼りつつも色々と気を使ってくれているのがよく分かるので、特に気苦労を感じることもなかった。
あげくに、買い物先で「宝田の若奥さん」などと呼ばれついニヤついてしまう自分に、我ながら呆れたもんだと、毎朝鏡に向かって真顔の練習をしたりする。
そんな、幸せな日々が続いた。
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小さな違和感に気付き始めたのは、嫁いでから三月ほど経った、九月半ばの頃のこと。
その対象は、夫ではなく義父の慎二郎だった。
慎二郎は、宝田家代々の務めとして地元の顔役という立場にあり、様々な組合や団体などの役職に就いていた。
それは農協や水利組合、土地改良区などの農業関連のみならず、教育委員会や消防団、社会福祉協議会など、町や県の各種団体にまで及ぶものだ。
当然、会議や会合などに出席することも多く、夜は不在になることが度々あった。
澄江は週のうち半分も家を空ける義父に、(偉い人って大変なんだなあ)という程度の感想しか持たず、その背中を見送りながら、いずれは清一もその立場を継ぐことになるのかと、密かに夫の将来を慮っていた。
違和感というのは、その外出についてだ。
慎二郎は、外出時には澄江に「今日は○○の集会があるから、晩飯はいらないよ」ときちんと告げてから出かけて行く。酒好きの慎二郎のこと、帰宅が深夜に及ぶのは毎度のことで、外泊して翌日にご帰還ということも珍しくない。
だが時折、その告知を忘れて出かけてしまうことがあるのだ。
初めてそんなことがあった日、澄江は夕食時に慎二郎の姿が見えないことに気付き、義母のカネに訊ねた。
「あら? お義父さんは?」
カネは返事もせず、黙々と箸を動かしている。あら今日は機嫌が悪いのかしらと夫の顔をうかがうと、夫も「ん……そうだな」と言葉少なに答えるだけだ。
その日の夕食は、妙に静かだった。
翌日、昼過ぎに家に戻って来た慎二郎に、澄江は当然のことながら文句を言った。
「お義父さん」
腰に手を当てて憤然と立つ若い嫁に、玄関を上がりかけた慎二郎はギクリとして足を止めた。
「ど、どうした? 澄江さん」
「出かける時は、ちゃんと言ってくれなきゃ駄目じゃないですか。お夕飯が無駄になっちゃいましたよ」
「あ、ああそうか。こりゃうっかりした。済まなかったね」
「昨夜はお楽しみでしたか。まさか午前様どころか午後様になるとは思ってませんでしたよ。おかげで朝ご飯まで無駄になってしまいました。
で? お昼はお済みですか?」
「はは、すまんすまん。あ、ちょっと畑を見てくる」
よほどバツが悪かったのか、そのまま後ろを向いてコソコソと外に出て行く義父を、澄江は「まったくもう」と、息を吐きながら見送った。
その時は、それだけで済んだ。澄江も別に本気で怒っていたわけではないのだ。
だがそれからも、慎二郎は相変わらず外出を繰り返していたが、やはり時折、告知を忘れることがある。
夕食時になって姿が見えないことに気付き、またか、と夫に文句を言おうとすると、清一もカネもその日に限って妙に口数が少ない。まるで、義父の不在の理由が判っているかのような素振りだ。
そんなことが何度となく続くと、さすがに不審に思った澄江は、寝室で二人きりになってから夫を問いただした。
「どういうことなんですか。知ってることがあるならちゃんと教えて下さい」
すると清一はこぶしを握り締め、俯いて、絞り出すような声で答えたのだ。
「ごめん。いずれ話すから……、もう少し待ってくれないか」
予想だにしなかった、夫の辛そうな顔。澄江は言葉を失い、それ以上の追及をとどまった。
その後も義父の無断外泊は変わらず続いたが、澄江もそれには触れることはなく、表面上は平穏な日々が続いた。
義父に対する不信感よりも、夫に対する信頼が勝った。事情は判らないが、清一は、そしておそらくカネも、何かを守ろうとしているのだ。
彼が待ってくれと言うなら、いつまでも待とうと心に決めた。
真相を知ったのは、それから数年も経った後のことだった。
~~*~~~*~~
その日、澄江は隣町へと買い物に出かけていた。繁華街を歩いていると、人混みの中に見覚えのある背中を見つけた。すぐに義父だと判った。
でもその隣に、同年代と思われる女性。
義父は買物袋を下げ、女性と手をつなぎ楽しそうにおしゃべりをしながら、何処とも知らぬ方角へ去って行く。その後ろ姿を、澄江は声もなく見送った。
想像もしていなかった、そういうことだったのか。
いや、誤解かもしれないけれど。いずれにしても、もう知らぬふりなどしていられない。
次の日、澄江は義父を問い質した。
「お義父さん、あの人はどういう方なんですか?」
澄江の真剣なまなざしに、慎二郎もとうとう観念したように頭を下げた。
「澄江さん、すまない。口では言い辛いから、手紙に書く。一日だけ待ってくれ」
眼を伏せたままそう告げる義父に、澄江は「わかりました」とだけ。
その翌日。無言で手渡された封書には、驚くべきことが書かれていた。
『 宝田澄江様
この度は、大変なご心配をお掛けして申し訳なかった。もっと早くに言っておくべきだったと思うが、きっかけが見つからずこんなに遅くなってしまったことは、本当に済まなかったと思う。
これから記すことは、にわかには信じがたいだろうが、全て本当のことだ。
カネや清一も、あなたに何も言わなかっただろう。でもどうか、二人のことを悪く思わないで欲しい。すべては私の責任だ。
私には、二歳上の兄がいた。名は幸吉という。
でも戦争で帰らぬ人となった。二人兄弟だったので、この家は私が継ぐことになった。
それは別にいいのだが、問題があった。当時、兄はもう結婚していて、生まれたばかりの子供もいたんだ。
そこで親から、家を継ぐにあたって兄の奥さんを娶れと言われた。その子が次の跡継ぎなのだからと。
それはつまり、カネと清一のことだ。
親の命令には逆らえない。信じられないだろうけど、当時はそういう時代だったんだ。
そして問題はそれだけじゃなかった。その時、私には将来を誓い合った女性がいたんだ。
私はその人に言った。結婚することはできなくなってしまったが、俺の気持ちは変わらない。君のことを命をかけて守り抜くと。
カネにも正直に全部話し、貴女のことは一生大切にするから、どうか彼女とのことを許して欲しいと頭を下げた。
二人とも、私の気持ちをわかってくれた。
彼女は、私とカネが祝言を上げるとほぼ時期を同じくして、実家を出て一人暮らしを始めた。
それから私は、自宅と彼女の家を行き来する生活を続けている。
君が見たのは、その人だ。
もっと早くに言うべきだった。本当に申し訳ない』
夫の清一がこの事実を知ったのは、高校生の時だそうだ。手紙を見せると、涙を流しながら「黙っていて済まなかった」と澄江に謝った。
でも……。
いったい、誰を責めることが出来ようか。澄江も泣きながら「うん、うん」と漏らすのが精一杯だった。
~~*~~~*~~
それからも、変わらぬ日々が続いた。
澄江と清一は二男一女を授かり、その三人も成人して結婚し、孫も生まれた。
清一は教職を辞して家業を継ぎ、宝田家の家長として多忙な毎日を過ごしている。
そして慎二郎は去年、91歳でこの世を去った。
最後の数年間はすっかり体が弱ってしまい、外出もままならなくなってしまっていたが、時おり、手紙を出してくれと頼まれることがあった。
誰へ、と告げられもしないが、宛名で相手の名前を知ることができた。
だから、葬儀の日に駐車場の隅で一人手を合わせている老女を見かけた時にも、すぐにその名に思い当たり、駆け寄って声をかけた。
「あの、失礼ですが芹沢さんでしょうか」
彼女は驚いた様子だったが、澄江が義父から事情を聞いていることを話すと、ホッとしたように微笑んだ。
「そうですか、あなたが清一さんの……」
「少し、お話をうかがってもよろしいですか」
どうぞ中へ、と誘うわけにもいかず立ち話になってしまったが、それでも彼女は、誰かに話を聞いてもらえるのが嬉しかったらしく、はにかんだような笑みを浮かべながら、俯いてポツポツと語り始めた。
「あの人は、とても優しかったですよ。でもね、私はずっと別れたいと思っていたのです。だって、一生日陰の身なんて辛いじゃないですか。
何度もそう言ってお願いしたのですけど、あの人は許してくれませんでした。
ほんとに頑固。
守ってくれると言われた時は本当に嬉しかった。愛してくれているのも解っています。
でも時間と共に、私の気持ちの方が離れてしまった。それが憐れで、結局ズルズルとね。ふふっ。
今でも好きですよ、それは変わりません。でも人生を縛られてしまったという、恨みもあるのです」
義父の一途な想いと、彼女の本心のすれ違い。
それは意外でもあり、でもどこか納得できるものがある。
そしてカネは、葬儀が一段落した後、にこやかに微笑む遺影を見つめながら、澄江にこう漏らした。
「あたしはね、この人のことをずっと憎んでいたんだ。
でもそれは慎二郎さんのせいじゃない、結婚した時に二人で話し合ったんさ。
あの人には心に決めた人がいる。そしてあたしも、前の夫が忘れられなかった。お互いその気持ちを大事にしようって。
だからあたし達は、初めから本当の夫婦じゃなかったんだよ。
けどね、あの人は優しかった。本当にあたしを大切にしてくれた。一緒に暮らす内に、あたしの気持ちは少しずつ慎二郎さんに傾いて行った。
なのに、この人は頑なだった。
あたしへの優しさは妻としてでなく、あくまで義理の姉に対するものだったんだ。それに気付いた時、あたしはこの人を憎んだ。
それからずっとずっと、今でも憎んで、でも愛しているんさ」
その一か月後、カネも他界した。
眠るような、静かな最期だった。
身内の者達はみな、「爺さんに呼ばれたんだな」「本当の夫婦だ」と語り合った。
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七十年もの長い時を、愛と苦悩に生きた人達。
(でも、好きな人と共に過ごせた時間は、やっぱりお幸せでしたよね)
澄江は、仏壇に二つ寄り添うように並ぶ位牌に向かって、そう語りかけた。