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政略結婚シリーズ

政略結婚のお相手は、呪われた王子でした。

作者: 双田ヨナ

短編小説に初挑戦しました。

作中に登場する病気は、医学について知識の欠片もない素人が創作したものです。ファンタジー的な何か、としかお答えできませんので、ツッコミは無しの方向でお願いします…

 緑豊かな小国ベルデの王女は、その一報が伝えられた時、両手に抱えていた花を取り落とした。はらはらと舞い落ちる花弁は、ショックのあまり涙を流す事も忘れた姫君のお心そのものに見えたと、臣下は語ったという。


 ベルデ国は気候が穏やかで、土壌にも恵まれた良い国だ。しかし隣接する三つの国と比べて国土は最も小さく、軍事力も他国に遠く及ばない。徒党を組まれて攻め込まれれば一溜まりもないのが実情だった。故に、姫君として誕生した王族は、不可侵条件を携えて祖国を後にする。先代もそのまた先代の王女達も、いずれかの国へと嫁いでいった。そうやって、この小さな国は守られてきたのである。

 生まれながらに課された使命について、賢明な王女エイレーネは幼き頃より受け入れていた。


───エイレーネ・メイ・ベルデの命は、愛する祖国のために。


 それが彼女の立てた誓いであった。エイレーネは生まれ育った小さな国が大好きだった。祖国で作られた作物は何でも美味しく、それらを支える民も皆、エイレーネ達王族に心から敬服している。国と民の安寧のためならば、王女としての責務を果たす事に苦痛は感じなかった。いざ、己の婚姻が確定するまでは…

 エイレーネは気立てが良く、国王夫妻のたった一人の娘ということも相まって、皆から愛されてきた。品行方正で、勉学にも勤しみ、顔立ちも愛くるしい彼女は、宮殿の中でも外でも人気があった。しかし周囲の人間に大切にされているからといって、決して驕りたかぶったりしない王女だった。誰もがいずれ訪れる王女の旅立ちを惜しみ、それと同じくらい幸せな結婚を望んでいたのである。

 ところが、エイレーネの婚約発表は皆の…いや本人も含めた全員の期待を大きく裏切ることとなった。選ばれた相手は、果てしなく広がる海をも統べる大国カルムの第四王子。"呪われた王子"と疎まれる、五歳年上の青年だった。


 いつでも素直で、聞き分けの良かったエイレーネであるが、初めて「嫌です」と父親の決定に異議を申し立てた。だが頭では己の使命を理解しているのか、彼女の声は極めて弱々しかった。王女と言えど、エイレーネも多感な十六の娘だ。大好きな場所を離れて独り嫁ぐ相手が"呪われた王子"だなんて救いが無い。多少の難ならば彼女とて目を瞑っただろう。しかし思わず不服が口をついて出てしまうほどに、かの第四王子に纏わる話は酷いのだ。

 まず第一に容姿。虚弱な体質のため体は細く、肌は病的なまでに白いらしい。加えて、産まれた時から全身に痣のような斑点があり、顔や手足の先は特に重篤な皮膚病を患っているのだとか。花嫁側はエイレーネの肖像画を送ったのに、花婿側からは送られてこない事からも、容態についておおよそ察しがつく。

 とはいえ、先天的な病は不可抗力というもの。本人もさぞかし苦しい思いをしているのだろう。それはエイレーネも分かっている。彼女が憂いたのは、第四王子が既に二度結婚し、立て続けに二度離婚している点である。一人目の妃殿下は挙式から一ヶ月と経たないうちに、愛人と駆け落ちした。すぐに別の姫君があてがわれたが、二人目の妃殿下は毎日のように癇癪を起こし、果てには宮殿の金品を無断で持ち出し、故郷へ横流しする暴挙に出た。カルム国を追放される日、妃殿下は晴れやかに笑っていたそうだ。エイレーネが知る限り、嫁ぐ前の姫君達は恥知らずな行いをする女人には見えなかった。彼女達をそんな風に変えてしまう何かが第四王子にはある、そうとしか考えられないのだ。


「お願いです、お父様…どうかお考え直しを…」


 嫁いだが最後エイレーネも、二人の妃殿下みたいに哀れな末路を辿らねばならぬのか。尊厳も消え失せ、人が変わったようになってしまうのか。だとしたら、なんて恐ろしいことであろう。

 王族という立場ゆえに、普通の結婚なんて望めないのは重々承知。祖国の平和は代々に渡る悲願だ。けれど、砂粒程度で構わないから"女としての幸せ"を求める気持ちが、心の片隅にあった。愛情深い両親に育てられたエイレーネは、理想の家庭像を捨てきれなかったのだ。多くは望まない彼女がただ一つ求めたのは、両親のような夫婦になる事だった。

 しかしいくらエイレーネが嘆願しても、それは聞き入れられなかった。既に両国間で調印はなされた。国王同士の決め事に、ましてや女の身で逆らうことなどできない。最初から分かり切った事だった。この時代、身分の高い女人達は政治の道具でしかなかったのだ。




 王族の結婚には、往々にして時間がかかる。姫君を迎える側の支度もさることながら、花嫁であるエイレーネにもしなければならない事は多いからだ。最も大変なのは、嫁ぐ国の言語や文化、礼儀作法を覚えることだろう。一朝一夕で身につくものではないため、エイレーネも苦労を強いられた。

 実のところ、エイレーネはカルム国ではなく別の国の王子に嫁ぐ方向で話が進んでいたのだ。ゆくゆくは王妃になる事を見据えた勉強を指示されたので、エイレーネも漠然とそうなる心づもりでいた。だが蓋を開けてみれば、せっかく覚えた知識は全く役に立たないカルム国へと嫁ぐ羽目になった。王妃になりたいなどという野心は無いものの、費やした時間が無に帰したのは勿体なかった。その分の時間をカルム国の勉強に充てられたらと考えずにはいられない。

 上述した理由により、王族同士の結婚には長い準備期間が設けられるのが通例なのだ。だというのに、エイレーネにはひと月半の猶予しか与えられなかった。寝る間も惜しんで勉強したが、そんな短い日数では喋りも所作も不十分なまま。簡単な日常会話ができる程度の成長が精々だった。彼女は余計に増し加わった不安を抱えて嫁がなければならなくなったのである。

 何故、こんなにもエイレーネ達の結婚が急がれたのか。相手側からの説明は無かったが恐らく、二度の結婚が大失敗に終わり焦っていた事。第四王子は虚弱な体質ゆえに先が短いと予見され、一分一秒さえ無駄にしたくなかった事。考えられる理由としてはこんなところだろうか。四人も王子がいるのに、カルム国には未だ後継ぎとなる男児が産まれていない。一応、幾人か産まれはしたのだが、全員が二歳に満たないうちに夭折しているのである。カルム家としては"呪われた王子"でもいいから王家の血筋を絶やしてはならぬ、という藁にも縋る思いだったに違いない。何であれ、エイレーネへの配慮は微塵も存在していない。明らかに小国の姫君だと軽んじられている。

 国を治める一族同士が結婚する場合、自国の民へのお披露目を兼ねて盛大な式が執り行われるものである。しかしながら、エイレーネの結婚式は非常に簡素なものだった。国民へ周知されたのが後日になったせいで、彼女の乗った馬車は人知れず街中を進んだのである。当たり前だ。国民は何も聞かされていなかったのだから。用意された馬車も質素だったので、花嫁が乗っているなんて露にも思われなかった。本来なら数日に渡って行われるパレードも無し。三度目の結婚ともなれば、国費を節約する方針に決まったのか。百歩譲ってそうだとしても、花婿側の列席者は数名の臣下のみというのはいくら何でも異例すぎる。仮にも他国の姫君を迎えているのに、国王陛下が顔すら見せないのは一体全体どういう了見だろう。エイレーネはいかにこの結婚が歓迎されていないのか、否が応でも思い知るしかなかった。

 

「私、リファト・グレン・カルムは、エイレーネ・メイ・ベルデを妻とし、永遠に変わることのない愛を神に誓います」


 永遠の愛。その言葉を目の前の人はもう三度も口にしたのだなと、エイレーネはぼんやり思った。永遠なのに三回あるなんて不思議なことだ。

 宣誓に際しての指示は「司祭の言葉の後に手を取り合い、リファト殿下の台詞に倣え」であった。エイレーネはそれを思い出しながら、厳かに台詞をなぞる。


「…わたし、エイレーネ・メイ・ベルデは、リファト・グレン・カルムを夫とし…永遠に変わることのない愛を神に誓います」


 聞いていた通り、リファトは痩せた体躯の青年だった。骨の浮き出た細い手であるのが、手袋越しにも分かった。小柄なほうであるエイレーネと、さほど身長も変わらないようだ。だが皮膚病の状態が如何程か、エイレーネには判断できかねた。やわく握った彼の手は手袋で覆われていたし、彼女は最後まで夫となる青年の顔を見ることができなかったからである。


 簡素な結婚式の後、エイレーネは夫婦の住まいとなる小さな宮殿へと案内された。其処は王城から隔絶されたような所で、一歩足を踏み入れた邸内はひどく殺風景だった。彼女は贅沢を好むたちではなかったが、仮にも王族が暮らす場所とは思えず絶句した。故郷のベルデでは、先代達が築き上げた芸術品が大切に飾られ、働き者の使用人達によって清潔で暮らしやすい宮殿に保たれていた。なのに此処はどうか。必要最低限の調度品しか無くて、温かみなど一切感じられない。椅子の一つにしても、あまり質が良くないのは明白だった。豪奢である必要はないとはいえど、捨て置かれたような待遇にエイレーネは目の前が真っ暗になる。


「疲れたでしょう。今日はもう休みませんか?」

「…はい」


 呆然と立ち尽くすエイレーネは疲れているように映ったのか、リファトが気遣わしげに声をかけてきた。実際、エイレーネは酷く疲れていた。彼女にはただ頷くだけの気力しか残っていなかった。


 これから初夜を迎えるのだとエイレーネが気付いたのは、寝室へ続く階段を上がっている途中であった。どくん、と心臓が不穏な音を立てる。緊張と不安しかない。否、これは恐怖か。

 エイレーネは何もかもが怖かった。顔を上げる事さえ怖かったのは、これから起こるであろう事から、たとえ形だけでも目を逸らしたかったからかもしれない。


 夜着に着替えたエイレーネは、頭を下げる使用人に見送られて寝室に入る。此処の使用人達もまた、必要最低限の会話しかしなかった。終始俯き、顔色のすぐれない姫君は見て見ぬふりをされたのである。

 寝室はすでに照明が落とされ、枕元の小さな燭台だけが灯っていた。仄暗い室内に細い影が見える。エイレーネは恐る恐る影の在るほうへ視線を向けたが、薄ぼんやり浮かぶ輪郭の主が自分の夫なのか、若干不安になった。目を凝らしても暗くてよく見えないのだ。

 リファトは寝台ではなく二人用の長椅子に腰掛けていたようだが、エイレーネがやって来ると立ち上がった。しかし彼はその場所から一向に動こうとしない。エイレーネはどうして良いか分からず、棒立ちになったまま途方に暮れた。


「…そこのバルコニーから隣の部屋へ行くことができます」


 静寂だった空間に、ぽつりと静かな声が落ちる。彼は何を言い始めたのかとエイレーネは困惑したが、リファトの言葉を聞き逃さまいとして耳に意識を集中させた。


「貴女が良いと思えるまで、私は貴女に触れることはしません。同衾も拒んでもらって構いません。その場合、私は隣の部屋に行きますから」


 一瞬、何を告げられたのか分からなかった。言葉の意味を飲み込んでも、エイレーネは理解に苦しんだ。同衾を拒むということは、すなわち王族としての責務を放棄すると同義である。よりにもよって後継ぎを切望するカルム家の人間から、そんな台詞を聞くことになるとは思わず、エイレーネは反射的に面を上げていた。彼女のエメラルドグリーンの瞳がリファトを見つめたが、室内を覆う暗闇が相変わらず彼の顔を隠していたので、枯れ木のような姿がぼんやりと見えるだけだった。


「……恐れながら殿下。それではわたしは何の為に、此処に居るのでしょうか」


 エイレーネは恋を知らない。ただ一人を愛することも知らない。遅かれ早かれ、自分ではない誰かが決めた相手の元へ嫁ぐことは承知していたから、敢えて知らないようにしてきたのだ。今、彼女の心にあるのは、王女としての使命感である。たとえ相手が名前しか知らない"呪われた王子"であろうとも、後継ぎを作る責務は果たす気概を持っていた。

 エイレーネの問い掛けに対し、リファトは薄く笑ったみたいだった。はっきり見えないので、あくまでも笑ったような雰囲気、であるが。


「エイレーネは此処に居てくれるだけで大丈夫です」

「ですが…」

「ご存知でしょうが私には兄が三人もいます。いずれ後継にも恵まれるでしょう。貴女が無理をする必要は無いんです」


 エイレーネは同意も否定もできず、再び俯くしかなかった。そうしている間に、リファトはバルコニーのほうへ体を向けようとした。さすがにそれはいけないと、彼女は咄嗟に声を上げるのだった。


「殿下を追い出すなどという非礼は許されません」

「しかし…貴女を追い出す訳にもいきません。貴女はこんな所に来てくれた大切な姫君です」


 エイレーネは必死に言葉を探していた。互いに出て行かせる気が無いなら、この部屋にある一つの寝台で眠るほかない。だが、それを何と言って伝えたら良いのか。女のほうから一緒に寝ようと誘うなんて、はしたないのではないか。思い悩む彼女だったが、またしてもリファトから笑う気配があった。


「では、すみませんが私も此処で休ませてもらいます」

「…はい」


 リファトが切り出してくれて良かったと、エイレーネは密かに胸を撫で下ろしたのだった。彼が寝台に上がるのを待ってから、エイレーネもおずおずと近付く。大きさだけは立派な寝台に、二人並んで横たわる。彼らの間にはまだ人ひとりが寝転べるほどの間が空いていた。ふとエイレーネは、寝具から出ていた彼の手を見つける。これから就寝するというのに、彼は黒い手袋を嵌めたままだった。彼女の視線に気付いたリファトは、その理由を教えてくれた。


「冬からこの時期にかけては、どうにも乾燥して肌がひび割れるんです。血や膿で貴女を汚してはいけませんから。感染するものでないので、その点は心配いりません。見苦しいと思いますが、どうか容赦してください」

「いえ…わたしこそ、不躾に眺めて申し訳ありませんでした」

「そんな事は気にしないでください」


 リファトはとても物腰が柔らかい王子だった。それが分かってきたエイレーネはほんの僅かに、詰めていた息を吐いたのである。




 カーテンの隙間から差し込む朝陽が、エイレーネの意識を浮上させる。少しばかり心地よい微睡みに身を委ねた後、彼女はゆっくりと半身を起こした。無意識に隣へ視線を向けたが、そこは既にもぬけの殻だった。昨夜は本当に字義通りの共寝をしただけに終わった。それはあまり良くない事だろう。ともすれば初夜に失敗するのは恥なのかもしれない。けれども仄かに安堵の気持ちを覚えたのも確かで、エイレーネにとっては一概に悪いとは思えなかったのである。

 エイレーネは小さく溜息をついてから、寝台のすぐ脇に置いてあったベルを鳴らした。使用人を呼ぶ合図だ。しばらくすると侍女が一人やって来たが、彼女は洗顔の準備と衣装を無言で机に並べたらすぐに出て行ってしまった。身支度に手を貸してくれるとばかり思っていたエイレーネは面食らう。しかし自分が勉強不足なだけで、これがカルム国の習わしなのかもしれないと思い直し、彼女は慣れない着替えに取り掛かるのだった。

 だが思いの外、身支度に時間がかかってしまった。王族の衣装は、平民のものと違って繊細かつ複雑だ。必ず誰かに手伝ってもらわねばならない部分もあるというのに、独りでやるしかなかったエイレーネは、当たり前だが完璧には仕上がらなかった。ふわふわ広がる長い橙色の髪もブラシで梳かしただけで、ベルデ国で使用人がしてくれたような纏め髪にはできなかった。嫁ぐにあたり使用人を連れて行くことは、カルム国の王に許してもらえなかったのだ。


 急ぎ足で階下へ行くと、朝食が並べられたテーブルの側にリファトが居た。というより正確には彼しか居なかった。給仕役の姿も無いし、よくよく見てみればテーブルの上の朝食は準備の途中である。パンはスライスされておらず、ナイフとフォークすら置かれていない。


「おはようございます。エイレーネ。ゆっくり休めましたか?」


 唖然としたまま固まっていたエイレーネは、慌てて頭を下げる。王子に挨拶もせずに突っ立っていたなんて恥ずかしい。罰が悪くて、床に落とした視線がなかなか戻せなかった。


「すみません。貴女がいらっしゃる前に準備しておくつもりだったのですが…」


 その言葉にエイレーネは自分の耳を疑った。


「…殿下が、ご用意なさったのです…?」


 いくらなんでもそれはおかしい。カルム国の礼儀作法はまだ覚えきれていないが、それでも王子に食事の準備をさせるなんて絶対に変だ。あり得ない。


「いえ、料理人が調理してくれましたよ。私はただ出来上がったものを取りに行って、並べただけです」

「……それは、何かやむを得ぬ事情があるのでしょうか」


 此処が祖国の宮殿であったなら、エイレーネはただ食卓の席に座っているだけで良かった。料理人が作った出来立ての食事が、給仕役によって運ばれてきた。それを疑問に感じた事などない。そんな事はこの先もないはずだった。


「…私が極力、使用人と関わらないようにしているだけです。言ってしまえば私の我儘みたいなものですから、気にしないでください」


 気にするなと言われても、目の前で王子がスープを注いでいるのに、落ち着いて着席などできようか。心臓に毛が生えている人間でもそうそうできまい。エイレーネは自分もやると宣言し、見様見真似でパンを切り始めた。半ば勢いでやってしまい、後には引き返せなかった。リファトは止めようとしたが、彼女は決してパン切り包丁を手放さなかったのだった。

 すったもんだの末、やっと食べ始めた頃にはスープは冷めてしまっていた。とはいえエイレーネは、マナーを間違えない事で頭がいっぱいであり、味なんて気にしているどころではなかった。


 食後、見せたい場所があるとリファトが言うので、彼の後に付いて行くことになった。余談だが、食べ終えた食器の片付けだけは、使用人がやってくれるらしい。

 リファトが案内してくれたのは庭だった。しかし、其処にはこじんまりとした四阿があるだけで、花は一輪も咲いていなかった。まだ季節ではないので仕方がないのだが、殺風景な庭を見せられても侘しい気持ちしか浮かばないだろう。どんな反応をするのが正解なのか分からなかったエイレーネは、曖昧に微笑むのが精一杯だった。

 そんな彼女に気付いているのかいないのか、リファトはどことなく嬉しそうに、あそこは何の花が咲くだのと語っていた。


「此処は何も無いので、庭だけでも華やかにしたくて庭師には無茶を言いました。花が咲いたら是非一度、見てもらえませんか?」

「…殿下のお心遣いに感謝いたします」


 花は好きだ。祖国は自然が豊かで、エイレーネも物心ついた頃から緑に囲まれて育った。美しく咲き乱れる花々を楽しみながら、四阿で本を読むのも悪くないかもしれない。彼女は半分上の空でそう思った。




 同じ寝台で眠るだけの夜、必要最低限の会話のみ交わす使用人、殺風景な邸内。

 エイレーネは変わり映えしない一日の大半を、読書に費やしていた。無論、言語の勉強のためである。リファトの口調はゆっくりなのであまり聞き逃すことはないのだが、使用人の中には早口な者もいて、話している内容が理解できない場面が多々あった。それに自分の発音にも不安が残る。このままでは公務にも支障が出る、とそこまで考えたところで、エイレーネはハッとなった。

 その日の晩、彼女は意を決してリファトに尋ねた。日中、彼は読書中のエイレーネに徹底して近寄ろうとしないので、まともに話せるのは寝台の中くらいなのだ。


「殿下。一つお聞きしても宜しいでしょうか」

「どうかしましたか?」

「国王陛下へのご挨拶に伺うのは、いつ頃になりますか?」


 実はまだ一度も、エイレーネは義父となったカルム国の王と顔を合わせていないのだ。本当なら結婚式にてお目にかかるはずだったのだが、あの場には家臣しか来ていなかった。謁見を先延ばしにしては駄目だと理解しつつも、礼儀作法に全く自信の無かったエイレーネは、誰も何も催促しないのを良いことに自身も黙っていた。しかし、どうにか挨拶だけは完璧に覚えたことだし、一刻も早く謁見すべきだと決心した次第である。


「父上から特に指示は受けていませんが、貴女の気持ちが落ち着かないのであれば、明日にでも向かいましょうか」

「はい、殿下。仰せのままに」


 ところが翌朝、エイレーネは新たな問題にぶつかることになった。昨日までは苦戦しつつもどうにか自分で身支度を整えていたが、さすが正装となるとそうもいかないのだ。そもそも、この国の正装がどこに仕舞われているのかさえ把握できていない。着方なんて以ての外、知るはずもなかった。エイレーネに残された道は、恥を忍んで夜着のままリファトに申し出ることだけだった。


「…わたしが未熟なばかりに申し訳ないのですが、使用人の方を数名お借りできませんか…?」

「……すみません。詳しいお話を聞かせてもらえますか」

「え、と…?」


 此処へ来てからまだ数日しか経っていないのに、すっかり俯くのが癖になっていたエイレーネは、躊躇いがちに事情を説明した。何故かリファトから感じる雰囲気が固かったのも、居心地が悪い原因であった。


「…そうでしたか。それは本当に申し訳ないことをしました」


 話を聞き終えたリファトがまずしたのは、心底悔やまれるといった謝罪だった。王子に頭を下げられたエイレーネは、おっかなびっくりして彼のつむじを凝視してしまう。彼の髪は灰を被ったようで艶も無かった。

 少しだけ待っていてください、その言葉を残してリファトは寝室を出て行った。エイレーネはぴくりとも動けなかった。

 ちょこんと寝台に座ったまま待つこと数分。二人の侍女が強張った面持ちで扉をノックした。寝室に入ってきた彼女達は正装を手にしており、エイレーネの支度を手伝うと小声で告げた。

 エイレーネは侍女達へ感謝を伝えると同時に、王子の手を煩わせてしまったと肩を落としたのだった。


 正装を纏ったエイレーネが玄関へやって来るなり、同じく正装をしたリファトが改めて謝罪をした。彼曰く、使用人が自分のみならずエイレーネまで避けていたのは知らなかった、らしい。


「私はこんな風ですから無理もないことですが、何とお詫びすれば良いか…使用人達には厳重に注意しましたが、おかしいと感じた事があれば何でも遠慮なく指摘ください」

「わたしが無知なのもいけなかったのです」

「違います。私が気付くべき事でした。何より、貴女を蔑ろにして良い理由などありません」

「…本当に、大丈夫ですから」


 いつかきっと、カルム国からの扱いにも慣れるだろう。エイレーネは自分にそう言い聞かせながら微笑んだ。そのぎこちない笑みを見たリファトは最後に「困ったことがあれば、どんな些細なことでも私に教えてください」とだけ口にしたのだった。


 正装姿のリファトは顔を覆う黒いヴェールをつけていた。彼は家族から「会う時は必ず顔を隠せ」と言われているそうだ。彼の顔をまともに見れていないエイレーネが言えた義理ではないが、家族なのに接し方が冷たいと感じた。けれどもリファト本人が、別になんて事はないといった風に話すものだから、エイレーネはそれきり掛ける言葉を失ってしまった。

 二人は昼過ぎに登城したものの、国王に謁見が叶った頃には三時を回っていた。正直、待っているだけで疲れてしまったが、ここからが正念場である。エイレーネは挨拶の言葉を頭の中で繰り返し呟き、一礼の仕方を何度も思い起こした。自分の挙動には祖国の名誉がかかっているのだ。粗相は絶対に許さない。

 張り詰めた緊張を持て余すエイレーネをよそに、国王の対応はびっくりするほど淡白であった。芳しくない雰囲気に最初は冷や汗をかいたエイレーネも、国王や王妃が此方に大して興味が無いことを徐々に感じ取る。彼女の胸には空虚ばかりが広がっていった。


 待たされた時間に比べて、謁見の時間は至極短かった。歓迎されていない結婚だと幾度も突き付けられれば、さすがに堪える。思わず溜息が出そうになるのを辛抱して、エイレーネはリファトの後ろをとぼとぼ歩いていた。

 回廊の向こうから誰かが来る。それに気付いた二人は足を止めた。相手はリファトのすぐ上の兄だった。彼は弟とその嫁を見比べるや、せせら嗤いながら言った。エイレーネが必死に覚えた挨拶を披露する暇も無かった。


「今度こそ金目のものを持ち出して逃げるような女じゃないといいな。ああ、盗みを働いたのは使用人のほうだったか?」


 その瞬間、エイレーネは唐突に悟った。

 用意された屋敷が殺風景なのも、使用人を連れてくる事が許されなかったのも、前妻達の愚行を阻止するためだったのだ。エイレーネはどこまでも歓迎されない花嫁であった。

 だがしかし、信用されなくても、軽んじられても、心を踏み躙られても、祖国を想えばただ耐えるしかない。彼女が唇を噛み締めた直後───


「苦言は全て私が聞きます。妻への侮辱は金輪際やめていただきたい」


 黒いヴェールの内側から、凛とした音が放たれた。弾かれたようにエイレーネが顔を上げるも、線の細い背中が見えるのみ。彼の表情は窺えない。しかし初めて耳にする声音には、青く燃える炎のような怒りが込められていた気がしたのである。

 対峙していた相手が去ってから、リファトはおもむろにエイレーネへと向き直った。


「…すみません。兄上が無礼なことを」

「いえ…」


 気分を害したでしょう、とエイレーネを気遣う声に先程のような熱は無い。彼女は小さく首を横に振ることで大丈夫だと伝えた。予想外のことに驚いて、つい先ほどまで感じていた悲しみが薄らいでいたのである。

 黒いヴェールの向こう側で彼がどんな表情を浮かべているのか、エイレーネは少しだけ気になった。だが結局、その覆いを外すために手を伸ばすことはできなかった。

 もしもこの時、彼女が勇気を出していたら───眩しそうに目を細める、リファトの微笑を見つけていただろう。




国王への謁見を終えた事で、エイレーネの懸念は一つ取り除かれた。だが、それで何か好転するということはなく、殺風景な生活は続く。毎朝の身支度は手伝ってもらえるようになったが、変わった事と言えばそれくらいか。そこで顔を合わせた侍女達とは、翌朝まで鉢合わせない。主人と使用人同士が互いに避け合う、奇妙な暮らしであった。

 しかし人間は慣れる生き物とはよく言ったもので、奇妙な暮らしもひと月、ふた月と流れていけば感覚が麻痺していく。エイレーネは蕾が膨らみ始めた庭の四阿で、息を潜めながら読書に耽るようになっていた。そうしているのが一番落ち着くのだ。雨が降ろうと一向に構わなかった。雨音は好きだった。けれども雨の日は、身体が冷えてしまわないかとリファトがしきりに案じるものだから、エイレーネはやむなく邸内で過ごす。身体を冷やしたらいけないのは、むしろ彼方だろうに。

 今日も生憎の雨模様であった。一階の無造作に置かれた長椅子の所で読書をしているのはエイレーネひとりだけだ。彼女はしばらく無心で頁をめくっていたが、雨音に混じる人の声に気が付き、その手を止めた。ひそひそと囁かれる早口な声は、以前なら聞き取れなかったに違いない。しかし幾分かカルム国の言葉が耳に馴染んできた今、囁き声の意味がところどころ理解できる。話しているのは恐らく侍女達で、内容はエイレーネの悪口だった。マナーがなっていないと笑い者にしたり、まだ時々間違えてしまう発音を大袈裟に真似したり…少し聞こえただけなのに、耳を塞ぎたくなる衝動が込み上げてきた。

 これ以上、惨めな思いをしたくなくて、エイレーネはますます一生懸命に勉強した。そのあまりの必死さに違和感でも覚えたのか。リファトが控えめに声をかけてきたのは、それから十日後の事だった。


「いつも熱心に読んでいますね。この国の本を気に入ってもらえたのなら嬉しいですが…」


 彼は言葉尻を濁していたが、言外に「でも違うのでしょう?」との意味合いが含まれていることを、エイレーネも察した。彼女は逡巡したものの、ここは素直に吐露する。


「…恥ずかしながら未だ言葉が堪能ではありませんので…こちらのマナーにも不慣れですし」


 伏目がちになってぽつぽつ語る彼女を、リファトは励まそうとした。この短期間でとても上達している、ついこの間ここへやって来たとは思えない、貴女は素晴らしい努力家だ。

 だが、それらの言葉はいまいちエイレーネの心に響いていなかった。今もこの邸内のどこかで使用人達が「小国の姫君が大袈裟な慰めを真に受けている」などと嘲笑っている気がしてならなかったのだ。


 後日、雨上がりの庭で例の如く本を開いていたら、そこへリファトがやって来た。彼は「貴女さえ嫌でなければ」と前置きし、瞠目するエイレーネに同席しても良いか許可を求めた。「構いません」以外の返答を持たなかった彼女が戸惑い気味に頷くと、ようやくリファトは隣に腰を下ろしたのだった。読書中に話しかけられたのは初めてである。

 四阿はこじんまりとしているため、必然的に二人の距離は近くなる。これは夜、眠る時よりも近いかもしれない。土の匂いに混じって、隣に座る彼からは微かに薬の匂いがした。いったい何事かと、依然として訳がわからなかったエイレーネだが、彼が本の文字を指差しながら静かに語るのを聞いていれば、リファトは語学を教えにわざわざ来てくれたのだと気付く。これは文法がややこしいので切り離して考えるといい、これとこれは音は違えど意味は同じ等々、彼はとても丁寧に教示してくれる。教師がいるのといないのでは、勉強の捗り方が段違いであった。


「あ…ありがとうございます。とても助かりました」

「いえ。お役に立てて良かったです」


 終わりがけにエイレーネはおずおずと頭を下げた。すると上の方から、穏やかに笑う気配がしたのだった。


 それ以来、ささやかな勉強会は毎日行われた。

 リファトは必ず隣に座って良いか許可を求め、エイレーネも決まって「はい」と返した。彼女はゆっくりとした静かな声に耳を傾けながら、頁の上を滑る黒い手袋を目で追った。リファトが隣にいると、耳を塞ぎたくなるような悪口は聞こえてこなくて、いつしか安心感にも似た心地よさを覚えるようになっていた。


「そろそろ花が咲きそうですね」


 気が付けば、勉強と関係の無い話題をエイレーネから投げかけていた。とても自然に、するりと唇から溢れた言葉だった。


「咲いたら…一緒に眺めてもらえますか?」

「はい。是非」


 以前、似たような台詞を言われた時は形だけのお礼しか伝えられなかったのに、不思議と今はすんなり返事をすることができた。

 そんなやりとりをしてから二日後、殺風景だった庭に一輪の花が咲いた。とても可愛らしい桃色をしたラナンキュラスであった。幾重にも折り重なった花弁が華やかで、たったの一輪でも十二分に見る者を楽しませてくれる。

 エイレーネは持って来た本の存在も忘れて、ラナンキュラスに魅入っていた。しゃがみ込んでまじまじと花を眺めていた横顔が、不意に綻ぶ。まだ閉じたままの蕾がたくさんあるから、全部開花したら壮観に違いない。きっと色も一色だけではないだろう。ああ、満開になる日が待ち遠しい。祖国の庭園の立派さには遠く及ばないかもしれないけれど、エイレーネはこの小さな庭が彩られるのを見たいと心から望んでいた。


「良かった…」


 彼の一言は、朝露が落ちるかのように零れた。その唐突な呟きを確かに耳にしたエイレーネは、反射的に隣を振り向いた。

 そこで、片膝をついたリファトと目が合った。夫婦となってはや数ヶ月が経っていたが、彼の顔を真正面から見つめたのは、この瞬間が初めてであった。彼の瞳には深い海の蒼が閉じ込められていることを、今日初めて知った。

 リファトの顔は鼻から額にかけて皮膚が変質、変色している。それを隠すように伸ばした前髪と、癖なのか背を曲げて歩く様を見て、使用人達が"足の生えた幽霊"と話しているのを聞いたことがあった。多分、手袋をしている指先も同じような状態だと思われる。

 しかし、皆して呪いだ、化け物だという顔をこうして目の当たりにしても、エイレーネは恐怖を感じなかった。


「貴女に喜んでもらいたくて、この庭だけは拘ったんです」

「わたしに…?」


 エイレーネが呆然としながら返せば、彼は「しまった」とでも言うように視線を泳がせる。どうやら話すつもりは無かったみたいだ。だが口を滑らせてしまったので諦めがついたのか、気恥ずかしそうに語り始めるのだった。


「…めぼしい物は没収されたきり、戻ってはきませんでした。貴女が来てくださるというのに、調度品はあれだけしか揃えられなくて心苦しかった。せめて庭くらいは綺麗に整えて、少しでも貴女の癒しになればと思ったのです。ベルデ国は緑豊かなところだと聞いていましたから」


 蒼い瞳を優しく細め、柔らかい笑みをたたえるリファトからエイレーネは目が離せなくなった。それと同時に声が詰まり、唇はわななくだけで意味のある音にはならない。


「エイレーネの喜びになれたことが何より嬉しいです。私を幸せ者にしてくれて、ありがとう」


 春の陽射しよりも穏やかな声音が、エイレーネの心の琴線にそうっと触れる。一輪のラナンキュラスの前で、彼女は頬を淡く染め上げたのだった。




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 もしかしたら自分には婚姻の話すら持ち上がらないのではと、リファトは考えていた。何せ王位継承権は低い上に、虚弱で、見るに耐えない容姿をしているのだ。第四王子という身分が無ければ、結婚したいと思われる理由が見つからない。事実、両親には産まれ落ちた瞬間から見放されていた。身体中に赤、紫、黄といった痣がまだらに浮かぶ嬰児は、さぞかし気味が悪かっただろう。リファト自身、己の身体を見下ろすたびに気持ち悪いと思うのだから、両親の絶望は想像に難くない。それが服で隠せる部分だけならまだ良かったのだが、よりにもよって顔や手の変質が酷くなっていき、誰が言い始めたのか"呪われた王子"と呼ばれるようになった。

 世話係でさえリファトに近寄ろうとしなかった。血の繋がった家族はそれが顕著だった。どうしても会わなければならない時は、醜い部分を全て覆っていないと厳しく叱責された。このままでは碌な教育もほどこされないと思われたが、リファトが十二歳になるまで教師を務めてくれた男がいた。かなり高齢だったため、引退後すぐに亡くなってしまったが、恩師の教えに導かれなければ、現在のリファトは存在しなかったであろう。


 見放されたまま終わるかと思いきや"呪われた王子"にもそれなりの利用価値はあったらしい。十八歳を迎えたリファトが自分の婚姻の話を聞いた際、真っ先に浮かんだ感情は憐れみだった。無論、嫁いで来る姫君に対してである。王子がこんな扱いを受けているのに、妻となる女人が厚遇されるはずがないのだ。過酷な環境に身を落とさねばならない心痛は如何程か。せめてもの償いになればと、リファトは快適な宮殿を用意してくれるよう、父である国王に頼んだ。国王としても同盟国の姫君を無碍には扱えなかったのか、リファトの希望は無事通った。

 一番目の妻との結婚式は盛大に行われた。と言っても王族にしては簡素であったが、国王夫妻もしきたりに則って顔を出していた。同盟国の姫君は、リファトと同い年だった。しかし、彼女とは話が合う合わない以前の問題であった。姫君は結婚式が終わるなり、用意されていた部屋に駆け込んだが最後、出て来ることはなかったのだ。激しく泣きじゃくる声が、部屋の外にまで聞こえてきた。あまりに可哀想で、リファトは妻が望むことは全て叶えるよう指示を出したのだった。ところが結婚生活は二十八日で突如終わりを迎える。彼女は他に愛する人がいる、といった旨の書き置きだけを残して忽然と姿を消してしまったのだ。騒つく周囲に対してリファトは捜す必要はないと告げ、彼女の意思を尊重したのだった。

 大して間も空けずに二番目の妻は選ばれた。古くから親交のある国の姫君で、彼女は太っているという理由で婚期を少し逃していたようで、リファトよりも年上の女人であった。見た目に関してはお互い様というか、むしろこの国で最も醜い自負があるリファトは、父の命令に粛々と従った。此度はあちらから、式の内容やら住まいについて要望があったため、その通りに誂えた。そうしてやって来た妻は、対面するなりリファトを口汚く罵った。暴言なら慣れきっていたリファトは、穏やかにやり過ごしたのだが、何が気に食わなかったのか言葉の暴力は止まなかった。それは結婚生活が半年で打ち切られるまでほぼ毎日続いたのである。日中夜問わず癇癪を起こしていた妻は、とうとう宮殿の家財を盗み始めた。これは流石に父が黙っておらず、両国の親交にも亀裂が入りかねないという事で、彼女は強制送還されたのだった。


 自身に何も期待していないとは言え、二度の結婚は無残な結果に終わった。両親も改めて失望したのか、はたまた醜聞のせいで辛うじて出ていた縁談も消え失せたのか。リファトはしばらく静かな日々を過ごした。

 ところが二度目の結婚から、およそ三年後のこと。再度リファトの婚約が纏まったのである。相手は小国ベルデの王女だと言う。ベルデは農産物が豊かである点以外、特筆することがない国だ。軍事力は低く、希少な鉱物が採れる訳でもない。だがカルム国にもたらす利益は少なかろうと"呪われた王子"の妻には丁度良かったのだろう。相手国が強く出られないのを見越して、婚姻はとんとん拍子で決まった。

 ベルデ国は自国への不可侵を条件に掲げている。今度の姫君は、逃げ出したくても逃げられない。最悪、逃亡は宣戦布告ととられるためだ。だからと言って、三番目の妻のために用意された住まいが、手入れされていない空き家同然の宮殿でも良いという理由にはならないだろう。比較するのは良くないが、リファトはベルデの姫君が最も哀れだと思った。


 しかし、ここへ来て予想外の出来事が起きる。ベルデ国から送られてきた肖像画を見た途端に、リファトはすっかり心を奪われてしまったのである。つまるところ彼は、絵の中で微笑む少女に一目惚れしたのだ。

 エイレーネ・メイ・ベルデは大層愛らしい少女だった。ひだまりをそのまま溶かし込んだような橙色の髪は豊かで、柔らかく波打っている。そして、浮かべた微笑みの温かいこと!この近辺の国々では大抵の人間が青色の目を持ち、リファトもそうなのだが、エイレーネの瞳は緑が混ざった、それはそれは綺麗なエメラルドグリーンをしていた。こんなに綺麗なものが世の中にはあるのかと、リファトを感動で震わせたほどである。


 醜い人間だから綺麗なものに惹かれずにはいられないのか。肖像画の少女に恋い焦がれる己は滑稽だったに違いない。だが、どれだけ馬鹿みたいでもリファトは形振り構わなかった。エイレーネのために出来る限りのことがしたいと真剣だった。しかし本人がどれほど必死になろうと、彼の願いは叶えられなった。二度も家財を盗まれてはたまらないと、宮殿は殺風景なまま放置され、贅沢品は一つも寄越されない。小国への侮りは加速するばかりで、体裁が整えられたのは夫婦の寝室のみ、妻の私室さえ用意されなかった。結婚式は結婚式とも呼べぬような代物であり、リファトは父に殴られても抗議したのだが、結果はあの有り様。誓いの言葉よりも先に低頭して謝罪したい気持ちでいっぱいだった。唯一、融通が効いたのは荒れ果てた庭の修繕だけなんて、リファトは自分の無力さこそ呪いたかった。


 卑しい小国に変な気を起こされては迷惑だ、そう言ってリファトの父は顔を顰め、エイレーネが使用人を連れてくる事を拒んだ。たった独りでやって来なければならなかった彼女は、どれほど心細かったことだろう。だがエイレーネは泣きじゃくりもしなければ、癇癪を起こしたりもしなかった。三人の中で飛び抜けて最悪な待遇だったにも関わらず、不満を言い表すことをしなかったのである。黙ってひたすら辛抱するエイレーネに、リファトはますます想いを募らせていく。

 リファトは肖像画に一目惚れし、実際に出会ってもう一度恋をした。絵の中で浮かべていたような笑顔は見られなかったものの、エイレーネは想像を裏切らない温かな少女であった。

 怯えさせている自覚はあったので、リファトはそれなりの距離を置こうと考えていた。あからさまに拒絶されたり、号泣されなかっただけで充分だった。無理に夫婦関係を迫るつもりは毛頭無かったのである。これに関しては歴代の妻達も同様だ。たとえ父に同じ寝室へ押し込まれても、同意が得られなければ触れることはしないと決めていた。なのでエイレーネにも無理強いせず、広々と寝室を使ってもらおうと思ったのだ。ところがなんと彼女は、出て行こうとするリファトを引き留めたのだった。

 その後もエイレーネは、誰からも疎まれるリファトに、王子として、夫として敬意を払った。食事の準備は半ば自主的にやっていたのだが、当然、王子のする事ではない。黙って耐えるだけだった彼女が、あの時だけは頑としてパン切り包丁を手放さなかった。それがちょっとだけ可笑しくて、とても嬉しかったものだ。使用人は諸手を挙げて職務を放棄するのに、彼女はリファトを気遣ってくれたのだから。

 そうやって浮かれていた所為で、リファトは見逃してしまった。エイレーネが使用人達に蔑ろにされていると分かった時の遣る瀬無さは例えようがない。己が蔑ろにされるのは構わないし、どちらかと言えばリファト自身がそう仕向けている節がある。だがしかしエイレーネは違う。違っていなければいけないのだ。リファトは結婚前に使用人へ、妻の世話を頼んだはずだった。それがどうだ。身支度すらほとんどエイレーネに丸投げされていると言うではないか。申し訳なさそうに縮こまるエイレーネだったが、彼女が謝る必要などどこにもない。リファトは直ちに使用人達へ厳重注意した。


 エイレーネは日がな一日、本を読んでいる。邪魔するのが忍びなく、リファトは離れて過ごしていたが、件の出来事以降、使用人達の動向に目を光らせるようになった。すると案の定、彼らは白昼堂々と悪態をついていた。見つけ次第、リファトは嗜めたのだが、元々軽んじられている己では効果が薄い。そして彼らの悪意がエイレーネにも届き始めた。ある日を境に彼女が以前にも増して本に齧り付くようになったため、リファトも感付いたのである。やや遠回しに問いかけたところ、エイレーネの返答はやはり自分自身を責めるものだった。そんな風に思わせてしまうことが苦しく、また、下の者を従えられない情けなさで押し潰されそうになる。

 けれどここで挫けては、役立たずの腰抜けに成り下がるだけだ。リファトは勇気を奮い立たせてエイレーネに近寄った。父の拳を受けた時より、兄に反論した時より、彼女に近付くことの方が怖いと思うのだから、変な話である。心の奥底から望む相手に対しては、ひどく臆病になるらしい。

 言語や作法の違いに四苦八苦している彼女の一助になればと、リファトが始めた教師の真似事は、好意的に受け取ってもらえた。ずっと思い悩んでいた彼女であるが、異様に短い準備期間で、よくぞここまで知識や振る舞いを身につけてきたものだと、感心させられたくらいだ。誠実で勤勉な人柄もあって、エイレーネの喋り方はみるみる流暢になっていった。授業が終われば、彼女は必ず丁重な感謝を伝えてきたので、リファトはそれだけで幸せな気分になれた。


 たった一輪咲いた花を見つけて、嬉しそうに口もとを綻ばせる彼女の横顔を目にした刹那。リファトは三度目の恋に落ちた。なんて尊く、そして、なんて綺麗なのかと、飽きもせずに惚れ抜いたのである。

 本当なら妃殿下と呼ばれる立場なのに、それらしい扱いは一切されず、リファトの力では何も変えられなかった。荒れ放題だった庭を庭師に整えてもらうのが己の限界で、必要品すら買い与えることもできなかった。

 けれどもエイレーネは絵の中でしていたように、こんな場所でも微笑んでくれた。リファトにはそれが、本当の本当に嬉しかった。"呪われた王子"にでも、愛する人を喜ばせることができると知れたのは、目頭が熱くなるくらい嬉しかったのである。


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 庭の花が咲いたのを喜び合ったのも束の間。連日の雨によって気温が下がり、肌寒い日が続いたために、リファトは体調を崩してしまった。本人の言い分によれば、天気が悪い日は時折こうなるらしい。微熱が出て終わるだけなので放っておけばそのうち治る、とのことだ。しかし、それでエイレーネが納得する訳がなかった。

 彼女は使用人達に、医者を呼んできてほしいと頼みに行った。だが彼らは顔を見合わせ、肩をすくめるだけで動こうとしない。


「姫君はご存知ないでしょうが、殿下が熱を出されるのはいつもの事ですよ」

「微熱くらいで出掛けていたら、きりがありません」

「それに今日は雨も酷いですし、我々が風邪を引いてしまいますよ」


 暗に、余所者が口を出すなと牽制された気がして、エイレーネは俯いた。彼女だって出来ることなら自分の足で呼びに行きたかったが、この国の地理が頭に入っていないので、口頭で場所を伝えられてもわからないのだ。

 落胆しながら寝室に戻る途中、エイレーネは隣の部屋から毛布を持ってこようと思い立った。今日は肌寒いので、体を温められるものが必要だろう。寝室の隣は、衣装部屋と同等の扱いになっているという話を漏れ聞いた。いつも侍女達はそこからエイレーネの衣装を持ってきているみたいだし、毛布の一枚くらいあるに違いない。

 そしてエイレーネの想像通り、毛布は見つかった。分かり易い所に収納してあったので助かった。なるべく荒らさないように注意しながら取り出したが、後で小言を言われてしまうかもしれない。それは後で聞くとして、今は早く戻らねば。毛布を脇に抱えて扉を閉めようとした時、エイレーネは室内の状態にふと引っかかりを感じた。だが、その時は違和感の正体が突き止められず、ただ小首を傾げるだけに終わった。

 寄り道を済ませて寝室に戻れば、リファトが咳いているところだった。しかも熱が上がってきて悪寒がするのか、口元を押さえる手先が小刻みに震えている。苦しげな様子を前にして、エイレーネはおろおろすることしかできない。病人を看護した経験が無いため、どうしたら彼が楽になるのか、エイレーネには見当もつかなかったのである。


「…皆を怖がらせているのは、わかっています。貴女も我慢なんてしなくて良いんですよ」


 えっ?と声を上げたエイレーネが見たのは、青白い顔をしているのに此方を気遣う優しい眼差しをしたリファトだった。


「怖いでしょう?こんな、不気味な見目の人間は…」


 そう言いながらリファトが困ったように目尻を下げた直後───瞬きをしたエイレーネの大きな瞳から、透き通る涙がひとすじ流れた。それに仰天したのはリファトだ。今度は彼がおろおろする番だった。


「いいえ…違います。違うのです」


 エイレーネは濡れた目元を軽く拭ってから、言葉を続けた。


「確かにわたしは怖いと感じていました。ですが、それは殿下に対してではなかったんです。わたしは…周囲の人々に怯えていただけなのです」


 使用人に笑われないため、国王の顰蹙を買わないため、民から歓迎されるため。そうやって他人の目を気にするのも時として必要だろう。だが、そればかりに気を取られてはいけなかった。リファトという人間を知ろうとする努力が、エイレーネには欠けていた。歩み寄ることをせず、目を逸らし続けていたのだ。その所為で、こんなにも優しいひとに哀しい言葉を言わせてしまった。

 …そうだ。今しがた覗いた隣の部屋、あそこには寝具が無かった。体を横たえる場所など無かったではないか。にも関わらず、彼は初めて出会った日に何と言っていた?彼はひたすらにエイレーネの心情を思い遣ってくれたのだ。優しい眼差しから逃げるエイレーネのことだけを、いつでも最優先に考えて…

 彼が怖いかと問われたなら、エイレーネは否と即答しよう。彼は、彼だけが。この国で唯ひとり、エイレーネを真心と共に迎えてくれたのだから。リファトが優しくなかった日など、一日たりとも無いのだから。


「…殿下。今しばらくご辛抱くださいませ」

「エイレーネ…?あの、何を…」


 涙を流したかと思えば、エイレーネはスッと椅子から立ち上がり、そのまま颯爽と寝室を出て行ってしまった。それこそリファトが引き止める隙すら与えなかった。


 数分後、エイレーネは休憩室で駄弁る使用人達の前に居た。


「もう一度言います。殿下の侍医を連れて来てください」

「いやしかし先程も申し上げた通り、」

「あなた方の雇い主は誰ですか?リファト殿下ではありませんか。主人に相応しい敬意を払うのは、雇われているあなた方の義務です」


 いつもひたすら息を潜めていたエイレーネとは全く異なる、毅然とした態度を見せつけられた使用人達はたじろぐ。俯いてばかりだった彼女の視線が、今は真っ直ぐ彼らに刺さっていた。


「殿下が熱で苦しんでいるのですよ。"いつもの事だから"などと軽視して良いはずがないでしょう。今、あなた方に許された返事は『かしこまりました』だけです。分かりましたか」


 齢十六とはいえ、エイレーネは生まれながらの王女である。成長と共に身に付いた威厳は本物だ。使用人達は反射的に閉口し、命令を遂行するために重い腰を上げざるをえなかった。

 此処へ来てから何に対しても受動的だったエイレーネが、自らの意志を明確にして行動を起こした瞬間である。




 漸く連れて来られたリファトの侍医は、産まれた時から王子を診ているというだけあって、指示も処置も的確だった。そんな侍医に、エイレーネは薬学の教えを請うた。初めのうちは訝しんでいた侍医も、彼女の熱意を認めて親切にあれこれ教えてくれたのである。医学書まで借りてエイレーネが始めたのは、薬草を育てることだった。侍医からの指導の元、リファトの持病に効く天然の治療薬を作る計画を立てたのだ。

 何を隠そう、エイレーネの特技は園芸である。あまり知られていないのだが、ベルデ出身の人間は"グリーンフィンガーズ"と言って、植物を育てるのに優れた者が多い。エイレーネもその一人だった。ベルデ国の王室は、その力に長けた人間が生まれやすい傾向にある。ひと昔前などは、生まれた順番や性別に関わりなく、秀でた能力を持つ者が国王に据えられたという。そうすることで、ベルデ国の土壌はますます実り豊かになると信じられていたのだ。


「国家機密という訳ではありませんが、ここだけの秘密にしていただけると嬉しいです」

「わかりました。他言はしません。私とエイレーネの秘密、ですね」


 医学書を片手に庭師と話し込むエイレーネを、寝室の窓から不思議そうに眺めるだけだったリファトも、天候が回復すればそれに伴い、体の調子も戻っていった。現在は、庭の一角に芽吹いた若葉を夫婦二人で眺めている最中だ。

 エイレーネは薬草の栽培にのめり込む前から、外へ出掛けたいとは言い出さなかった。外出となれば、リファトが同行することになるだろう。しかし自身の姿を見られたくないのか、見せたくないのか、彼の心情が推し量れずにいたため、エイレーネは彼と共にこの小さな宮殿で日々を過ごすことを選んだ。付け加えておくと、それは決して渋々下した決定ではなかった。


「わたしの父はすごかったです。萎れてしまったお花も、父が数日お世話をすれば必ず元気になりました。子供の時分は、父が魔法使いだと本気で信じていましたよ」

「それは素晴らしいですね。私もその魔法を見てみたかったです」


 エイレーネは以前と比べ物にならないほど明るくなり、口数も随分増えた。だが、これこそ彼女本来の姿である。彼女は肖像画で描写されていたように、明朗な少女なのだ。

 発音が変だろうと、文法が間違っていようと、丁寧に教示してくれたリファトは馬鹿にするはずがない。それはエイレーネが一番よくわかっていた。だから彼の前ではいっぱい話ができる、いや、お喋りしたいと思うのだ。言葉のやりとりは相手の人となりを知る、確実で大事な手段である。話せば話すほど彼の優しさを知り、感じて、心地よさに包まれた。それがエイレーネはいっとう嬉しかった。

 そして朗らかに笑いかけられるリファトもまた、喜色をこれでもかと滲ませていた。四六時中、破顔していると言ってもいい。

 二人が纏う空気の変化に触発されたのか、或いはエイレーネの説教が効いたのか、次第に使用人達も真面目に働きだした。ただ、リファトへの恐怖心を完全に無くすことは難しいようである。腫れ物扱いをするみたいに一定の距離を置いてしまうのは、あまり改善されなかった。それでもエイレーネへの態度を改め、リファトにきちんと礼だけでも尽くすようになったのは、大きな一歩前進と言えよう。


 『"呪われた王子"と異国の姫君が仲睦まじくしている』という風の便りが聞こえ始めた頃。第四王子を知る人間は一様に耳を疑った。その最たる者はリファトのすぐ上の兄、王殿の回路ですれ違った第三王子であろう。彼は一笑に付して「皆、おかしな幻でも見たのだ」と言い、歯牙にもかけなかったのだ。

 しかし、ほんの興味本位で寂れた小さな宮殿に立ち寄った折に、彼は弟についての噂話は真実であると認めざるをえなくなった。こっそり覗き見た先には、幸せそうに笑う弟と、にこにこしながら彼に寄り添う義妹の姿があったのだ。庭を指差し、何やら談笑している彼らは、話している内容など聞かなくても心底楽しそうだった。

 微笑ましい光景を見せつけられた第三王子の胸に沸き上がったのは、猛烈な妬みの気持ちであった。それは憎悪に近い感情かもしれない。家族全員から疎まれているリファトだが、ひとつ上の兄からの虐めは突出して酷かった。彼は嬉々として弟を虐める、惨忍な性格の持ち主だった。そんな男だから、自分を差し置いて幸せを振り撒く弟が到底許せなかったのである。

 醜い弟なぞ化け物らしく惨めな姿を晒していればいい。ああそうだ、あの女を奪ったら弟はどんな顔をするのだろう?絶望に満ちた顔なら見ものだ。悲壮に暮れる背中はさぞかし愉快に違いない。

 内心でほくそ笑みながら、第三王子は二人の前に躍り出た。いきなり現れた男を見て、二人は驚愕に目を丸くする。


「兄上…!?急にどうなさったのですか?」

「やあ。この間は挨拶もせずに失礼をした。改めてよろしく頼むよ。可愛い義妹」


 第三王子は弟を視界の端にも止めず、居ない者のように無視した。彼がにこやかに話しかけていたのは、びっくりして固まったままのエイレーネである。

 妙に友好的な笑みを向けられたエイレーネはというと、動揺しつつも形式に則った礼をするのだった。

 曖昧に微笑むだけの彼女へ、畳み掛けるような台詞が続く。


「こんな陰気な場所に引きこもっていては、君まで病気になってしまう。まったくこの愚弟は酷いことをする。僕と一緒に出掛けないか?歌劇場なんてどうだろう。君に似合う美しいドレスも贈るよ」


 第三王子にも妻がいる。リファトよりもずっと前に婚約が決まり、華美な挙式を経て目出たく夫婦となった。けれども歪んだ性格の彼が夫では、円満な結婚生活など夢のまた夢。妻との関係は破綻が目前に迫っている。だからこそ余計に弟が妬ましかったに違いない。


「申し訳ありませんが、お断りさせていただきます」


 リファトと異なり、兄は眉目秀麗だ。好青年の面に甘い表情と声が加われば靡かない女はいなかった。だがそれも今日までの話だった。エイレーネは義兄の誘いをきっぱり退けたのである。

 夫の背後へ下がろうとする彼女の動きが、第三王子の憤りを煽った。何故エイレーネに拒絶されたのか、彼には理解できなかった。醜い弟は全てにおいて下等である、兄はそれがこの世の理だと信じて疑わないからだ。

 第三王子はエイレーネの手首を無遠慮に掴んで、自分の方へ引っ張ろうとした。嫌がって抵抗する彼女を見下ろしながら、彼はにいっと口の端を持ち上げるのだった。


「此奴との初夜は失敗したそうじゃないか。可哀想に。恥をかかされて辛かっただろう?でももう大丈夫だ。僕の愛人にしてあげよう!」


 エイレーネはこと怒りに関しては淡白な少女である。その彼女が生まれて初めて、腑が煮えくり返るという感覚を味わっていた。使用人から嘲られても黙ってやり過ごすことができたのに、誰よりも優しいあのひとが侮辱されるのは耐えられない。

 でも、同じような思いをしている人間が、この場にもう一人居た。むしろ彼の方が、本気の怒りを覚えていただろう。


「いい加減にしてください。兄上」


 低い声で唸ったリファトは、エイレーネを掴んでいた無粋な手を引き剥がした。黒い手袋の下には骨の浮き出た細い指しかないなのに、兄の腕を捕らえる力には目を見張るものがあった。

 弟から怒りの制止を受けた第三王子は、憎々しげに顔を険しくしたかと思えば大声で怒鳴り始める。


「僕に触るな!!汚らしい!!僕まで呪われたらどうしてくれる!!」

「仰る通りですよ。問題は全て私にあります。エイレーネには何の落ち度も無いのですから、彼女を辱めるのは誰であろうと許さない」

「化け物風情が偉そうに吠えるな!お前が必死に庇う女は僕を選ぶに決まっている!お前はそこでみっともなく指を咥えて見ていろ!さあ、僕と来い。エイレーネ姫」


 差し伸べられた手には、覆い隠すための手袋も無ければ、傷の一つすら無い、綺麗な手だった。だがしかし、エイレーネはその手が綺麗だとは思わない。彼女は一心にリファトだけを見つめ、義兄には目もくれずにこれ以上ない拒絶を叩きつけたのだった。


「わたしが神の御前で永遠の愛を誓ったのは、リファト殿下ただお一人です!」


 こうして、よりにもよって弟の前で赤っ恥をかかされた第三王子は、思いつく限りの悪態を喚き散らしながら去って行った。

 嵐が到来し瞬く間に過ぎ去った…怒涛の数分間に二人はしばし放心状態に陥る。僅差で先に我に返ったのはエイレーネであった。駆け上がってきた想いのまま、熱烈な台詞を口走ってしまった。遅まきながら、頬が異様に火照り始める。

そしてやや遅れてリファトも、エイレーネが放った言葉の意味を噛み締めたことで、青白い頬に赤みが差していた。胸を満たす多幸感は、もはや何に喩えて良いかわからない。


「…誓いの言葉は本来『死によって引き離されるまで愛することを誓う』なんですよ」

「はい…?えっ?」


 脈絡が無いようで有るようなリファトの切り出しに、エイレーネは首を捻った。結婚式での宣誓の話だろうか。どんな式典であれ、覚える事が山のようにあるのは似たり寄ったりで、エイレーネは自分の結婚式に一夜漬けのような浅い知識で臨んでいた。だから、宣誓の言葉が本当は違った、だなんて聞かされても正直ちんぷんかんぷんだ。


「あれは、私の本心から出た言葉です」


 確か彼は───永遠に変わることのない愛を誓います───と宣誓していた。そう、つまりエイレーネが淡々と復唱しただけの台詞には、リファトのありっ丈の想いが秘められていて。決して三度目の永遠などではなかったという事だ。


「だから先程の貴女の言葉は本当に嬉しかった。一生分の幸運を使い果たしたとしても、悔いは残らないでしょう。しかし一点だけ言わせてもらいます。私は非力な男ですが、矢面に立つことはできます。それくらいしか貴女を守る手立てがありませんので、今後その役目は私に譲ってください」


 リファトは自分が幸せである証拠を、優しい微笑みに含ませていた。けれどもエイレーネは、笑い返すことができなかった。それどころか、エメラルドグリーンの瞳は涙に濡れていたのだった。


「っ!すみませんっ、私はまた何か気に障ることを…っ」

「…殿下がわたしを大切にしてくださるように、ご自身のことも顧みていただきたいです」


 エイレーネはぽろぽろ落ちる雫を拭おうともせず、震える声でひと言ひと言を紡いでいく。


「殿下が、何でも自分ひとりが犠牲になれば良いと微笑まれるたび、わたしは哀しい気持ちになります…どうして…どうして殿下は、そんなにもお優しいのですか…っ」

「エイレーネ…それは買い被りというものですよ。私は存外、欲深い人間です。今すぐにでも、この口で告げた約束を反故にして貴女に触れたい…などと考えていますから」


 泣き止まないエイレーネを前にしても、リファトは困ったように目尻を下げるだけである。涙を拭ってあげたいと、心の中でどれだけ強く望んでいようが、彼はきっとエイレーネが良いと言うまでその場から動かないだろう。否、優しいあまりに、許されなければ動けないのだ。

 

「…この涙を、止めてください。殿下の手で…」


 揺れる涙声で頼まれて、ようやくリファトは彼女に向かって歩を進めた。懐からハンカチを取り出したリファトは、それを使って流れ落ちる涙を拭ってやる。


「…困りました。どうすれば、貴女の涙は止まるのでしょうか」

「もっと、ちゃんと…触れてほしいです」


 かなり大胆な言い方をした羞恥により、エイレーネの視線が彷徨う。久しぶりに顔が上げられなくなった。

 リファトはゆっくりと右手の手袋を外す。手先も顔と同様、痛々しい様相を呈していた。爪も歪に変形してしまっている。しかし、侍医とエイレーネの勧めで使い始めた保湿剤のおかげか、出血や排膿は見られない。

 彼はその手で、エイレーネの指先を握った。とはいえ彼女の体感としては、羽毛が指先に触れたような感じであった。およそ手を握るという感覚ではない。


「……貴女は…どこまで、許してくれますか…?」


 それは、あまり聞いたことのない声色だった。言葉の暴力を受けても微笑むだけで、弱る素振りも見せないリファトが、消え入りそうな声でそう問うてきた。微かに触れ合う指先が、彼の精一杯であった。

 なんていじらしく、無垢なひとなのだろう。エイレーネは迷うことなく心を決めて、リファトと向かい合う。


「全部…どうぞ」


 今度はエイレーネの方から、指を絡ませにいった。保湿剤で少ししっとりしている彼の手をきゅっと握り込む。すると、同じくらいの力で握り返され、不意に彼の顔が近付いてきた。口付けされると直感したエイレーネは、思わず目を瞑った。しかし彼女の予想に反して、彼の唇は眦に光る涙を掬い取っただけであった。おずおずと目を開けた先に映ったのは、蕩けるような甘い甘い笑顔を浮かべるリファトだ。


「ありがとう、エイレーネ。でも受け取るのは、もう少し先にします」

「な…なぜです?」


 エイレーネは勇気を出して告白したのに、肩透かしもいいところである。恥ずかしさも忘れてにじり寄る彼女に、リファトは言い聞かせるように説明した。早すぎる妊娠は母体に危険が及ぶ。故に初めから三年は待つつもりでいた、と。


「我が子をこの腕に抱きたいという夢はありますが、私にとって最も大切なのは貴女の存在です。ただでさえ女性に負担のかかる行為なのですから、慎重にならなければ。こればかりは、我を通させてもらいますよ」

「…わかりました。殿下の御心のままに。あの…では、一つだけお願いしたい事があるのですが」

「!貴女の我儘は大歓迎ですよ。何でしょうか」

「あ、ありがとうございます…」


 リファトの弾むような物言いが、エイレーネを更に赤面させる。もう心臓が壊れてしまいそうだ。


「わたし、祖国では家族から"レーネ"と呼ばれていたんです。殿下にもそう呼んでいただきたいのですが、お願いできますか?」

「……良いのでしょうか。大切な、呼び名なのでは…」

「はい。今までお伝えする機会を逃していたのですが、夫となる方にそう呼んでいただくのが、密かな夢でしたので…」

「そう、ですか。では…レーネ」

「!はいっ」


 パッと顔を上げたエイレーネは、花が綻ぶように微笑んだ。彼女のまろい頬は花弁よりも可愛らしく染まっていた。

 

 リファトが丹精に整え、エイレーネが華やぎを加えた小さな庭は、今や咲き誇る満開の花で埋め尽くされている。二人にとって此処は、世界で最も綺麗な庭園なのであった。




*:.。..。.:+・゜・*:.。..。.:+・゜・*:.。..。.:+・゜・


 夜明けを目前にして、リファトは目が覚めてしまった。もう一度眠ったところで、すぐに起きなければならない。ならばいっそ、このまま起きてしまったほうが良い。隣にいるエイレーネの睡眠を妨げないよう、そろりそろりと半身を起こした。細心の注意を払ったつもりだったが、彼女は小さな振動を感じ取ったらしい。


「すみません…起こしてしまいましたか…」


 囁くようにリファトが謝ると、エイレーネの瞼が緩慢に開いた。しかしまだほとんど夢の中にいるのか、視線を合わせても彼女はぽーっとしたまま、次の行動に移ろうとしない。これは間もなく二度寝に入るだろう。あどけないエイレーネの姿に、リファトはつい笑みが溢れる。彼はおもむろに歪な手を伸ばして、寝台に広がる橙色の髪に触れてみた。彼女の髪は見た目に違わず、柔らかな指通りだった。指の腹で髪先を撫でているうち、彼女に触れられたらと切望していた日々が回顧され、リファトは感慨無量になる。

 その刹那のことであった。エイレーネの表情がふにゃりと崩れる。


「……きれい…」


 たったそれだけの短いひと言は、完全にリファトの不意を突いていた。彼女は夢うつつの瞳でリファトを見つめながら、でも確かに"綺麗"と告げた。そのあと、彼女は再び夢の中へ戻っていった。

 現実世界に取り残されたリファトだけが、ただただ呆然としていた。


「……綺麗、ですか。この私が…」


 その言葉は彼女のためにあるようなもので、自分には一生当てはまらない、相応しくないとリファトは思ってきた。そんな日が来ることはないと、半ば確信に満ちていたほどである。

 しかし、エイレーネの瞳には"呪われた王子"が綺麗なものに映ったらしいのだ。それは俄かに信じられないことだ。信じられないほどに嬉しくて堪らなかった。

 彼女が具体的に何を指して綺麗と評したのかはわからない。外見についてではなかったのかもしれない。彼女のひと言には主語無かった。だが、彼女は確かに真っ直ぐリファトを見て言っていた。


 気が付けば、リファトは泣いていた。ひび割れた肌に熱い涙が沁みるまで、彼は自分が泣いていることを知らずにいた。

 いくつも溢れ落ちる雫の一粒が、波打つ橙色の髪に当たって弾ける。カーテンの隙間から入ってきた日の出の光が、その小さな飛沫を煌めかせるのだった。

結局、四人兄弟の中で後継となる男児が無事に育ったのは、第四王子夫妻の子だけでした。

後継がことごとく育たなかった事でリファトは「お前が兄達に呪いをかけたのだろう!」と糾弾されました。

母子共に無事であるお産の方が少ない当時において、エイレーネは三男三女をもうけ、全員が無事に成人しました。それは異例とも言える出来事だったため、あらぬ嫉妬を買う羽目になったのです。

しかし激しい非難の嵐を一刀両断したのが、他ならぬエイレーネでした。

『皆様方は"善には善が、悪には悪が返ってくる"という摂理をご存知ないのでしょうか?長きに渡りリファト殿下へぶつけてきた呪いの言葉が、皆様方の元へ戻ったところで、何ら不思議はありません』

リファトはその後、自ら王位継承権を破棄し、彼の長子が王座に就きました。


リファトとエイレーネは、後の賢王を育てた両親として歴史に名を刻んだそうな。


めでたしめでたし。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 禍福はあざなえる縄のごとし そんな言葉を思い出してしみじみしました。 緑を美しく育てる力は、結局は人をすこやかに育む力に他ならないのでしょうね。 [一言] 誰かを疎み蔑み罵る心を改めない…
[一言] とってもとっても素敵でした! 特に最後のエイレーネが寝ぼけてリファトに「きれい」というシーンが好きすぎます。じーんきました。 いつかまた二人の物語が読めたら嬉しいです
[良い点] いろいろありながらもお互いの素晴らしいところをしっかり見つけて愛を育む二人がとても良かった! 政略結婚でも愛のある結婚を望んだエイレーネと、絵姿でエイレーネに一目惚れしていたリファトだから…
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