婚約者のいる令嬢が別の男に恋をして失恋する話
ちょっとまえまで、私の人生はかなりうまくいっていたと思う。
私の周りにはいつも人が溢れかえっていて、みんな私が好きだった。
「アリア様が羨ましいですわ」と私を尊敬する貴族令嬢たち、美しく天才の婚約者とその友人達、私に英才教育から、不自由なくいろいろなものを与える両親。
他人の決めた道筋の通り生きて、それが幸福で、なんの疑問も持ちあわせてはいなかった。
それがちょっとまえまでの私だ。
冬の肌寒さを実感する昼さがり。
放課後をもうすぐ迎える時間帯に差し掛かっていた。
校庭ではおなじクラスの男子たちが模擬戦の授業の最中で、模造刀をにぎり各々の相手にぶつけあっていた。
皆必死だが、家督を継ぐ長男と違い貴族の次男や三男はとくにそうだ。
官職になれない彼らは将来騎士となったとき、待遇のいいポストにつくため先生達に自分の実力をアピールしなければならない。
その光景を眺めている女子軍団は彼らの事情はいったんどこかにしまって、声援を飛ばしたり手を振ったり、小言で男子って幼稚よねと定型文の会話を交えていた。
私は彼女達に同調し、「そうよね」と愛想笑いで答える。
女子グループのやりとりが面倒くさいことこの上ないが、それ以上にこの時間が嫌いだったから適当な返事にもなる。
鉄と鉄がぶつかりあったときの特有の音は耳ざわりで嫌いだし、そもそも授業自体がすきではない。
男子達が決闘形式で戦いあうのだが、女子は身分関係なくただそれを眺めているだけのたいくつなものだ。
女性陣にとっては人気がないばかりでなく、被差別の対象でもある。
女性の地位向上を訴える一部の女子は抗議活動でビラ配りをしているひともいるぐらいで、私もなんどか誘われたことがあった。
だが集会への参加はすべて断ってきた。興味はあったのだが、親や婚約者の目が気になり一度たりとも参加したことはなかった。
つまり何が言いたいかというと、この時間は最悪ということだけだ。
ただ最近は幾分マシにおもえてきていたこともある。
いや、もしかしたら。
今はこの時間を待ち遠しくおもっている自分がいたのかもしれない。
「レオナール様の番ですわよ」
私をかこむ貴族令嬢の一人がなんの気なしに囁いた。
自分の心臓の鼓動がはやくなるのを感じる。
指南役の講師の掛け声で、休憩していたふたりの男子が剣を持って前にでた。
「レオナール、剣を前に」
「はい」
女子達の黄色い声援がひときわ強くなった。
男子のうち何人かも手をとめ、様子を伺うものもチラホラいた。
レオナールは姿勢をただし、剣を前に構える。
ただその所作だけで女子の歓声がまたあがった。
品位を感じるのは彼が一流の騎士を家庭教師にしているからという理由があり、実力も折り紙つきだ。
レオナールは私と同じく名門貴族の生まれだった。父は伯爵位で、遠縁ではあるが王族の血をひいているとは本人の談。
華奢で、ウェーブのかかった金髪と美しい碧眼のたぐいまれな美貌の持ち主で、運動にしても語学にしてもすべてにおいて優秀だ。
そして学園一の人気者で、私、アリア=フォルネーニの婚約者だった。
「えーでは、ジョン君も剣を」
「……先生、俺はジョゼです」
どっとわらい。
生徒たちだけでなく、先生すら謝りながらもすこし笑っていた。
私も彼らにあわせて愛想笑いをしたが、内心はマグマみたいな怒りを抑えるのに必死だった。
確かに皆の反応は自然なものではある。
ジョゼ君はクラスでも目立たないし、影は薄く、身分だって高くない。それに聞いたこともない家の生まれの男爵の三男。
だが彼は反論することもなく、極めて冷静に笑い声のなかでもすと真っ直ぐに剣を構えた。
レオナールに比べれば、無骨で洗礼されてない仕草だが、真っ直ぐで寡黙な彼には似合っていた。
黒髪を揺らし、瞳には静かな闘志をたたえ、グリップを持つ手に力をこめている。
その動作だけで私の心は引き付けた。
私はジョゼ君に恋をしていた。
ジョゼ君とレオナールが対峙した。
お互いにじりより、私のまわりも息を飲んで彼らの動向を見守っていた。
風が一陣吹いて、校庭の茂みを揺らした。
それが合図だった。
二人は距離を詰めて、駆け出した。
◇
「起きたジョゼ君?」
「……どうしてアリアさんがここにいるんだ?」
保健室のベッドのうえで、彼は目を覚ました。寝ぼけ眼をこちらにむけた。
普段見せないレアな表情で、平静を装いつつも緊張している私がいる。
野戦病院として使われていたわが学園の保険室は異様にひろく、ベッドも十数台はある。私たちは部屋の隅を占領し、私は彼が目をさますのを放課後のいままで待っていたのだ。
「君はね、レオナールに負けて保健室に運ばれてきたんだよ。結構惜しかったんだけどね」
私は、さきほど起きた事実を伝えた。
レオナールとジョゼ君の戦いは、ジョゼ君の敗北で終わった。
剣をあわせた時はお互いの実力は拮抗していたようにみえた。
その証拠にさしものレオナールも驚いていたみたいで、あの涼しい顔を硬直させた。もしかしたらレオナールには慢心があったのかもしれない。クラスでも目立たず、実力だってたいしたことない彼に負けるはずがないと。
それから何度かの剣戟。そこまではよかったのだ。徐々にだがジョゼ君が圧倒し始めた。
もう一振りでレオナールに勝てる。その時急にジョゼ君は倒れた。
外では決して表情を崩さないよう淑女教育を受けていた私だったが、さすがにその時ばかりは驚かされた。焦って変な声をだしてしまったかもしれない。
その後、講師の人の指示で彼を保健室に運ぶことになった。それに私が立候補した。周囲の人間は反対した。「アリア様がそんなことをする必要はない」と。でも私は無理を押しきり頼みこんだ。
「俺が聞きたいのはそうじゃなくてさ」
彼はむくりと起き上がり、ためいき混じりに頭をかいた。
「なぜ貴女がここで待っていたのか聞いているんだ」
「だれかが君が起きるのを待たないとまずいとおもうんだけどな」
「それはそうかもしれないけど」
「……私がここにいたら、変?」
一瞬の静寂。もともと静かだった保健室は、余計静まりかえった気がした。
「俺達、ぜんぜん接点とかないじゃないか。教室でも話したこともない」
「そうかな?」
「そうだよ」
確かにその通りだ。
彼と私の関係は一方的なものだった。
私が彼のことを知りたいだけの関係。彼のことならなんでも気になって、いつも彼を目で追っていた。
でもそれだけだ。
彼のいうとおり接点はほとんどないし、教室で話しもしない。友達でもない。ただの学友で、それ以上でも以下でもない。
「その、介抱してくれたことには感謝してる。でも、そのままほっといてくれてもよかったんだ」
「先生に頼まれたの、ほら、私優等生だから。こういうの頼まれちゃうんだ」
「そっか、ありがとう助かったよ」
私の嘘に彼は納得した表情でとつぶやいた。
普段の教室での仏頂面の彼がだれにもみせないような安心しきった笑顔で、それが本心からのものだと分かって心底腹が立った。
私のなかでいままで押さえつけていたものが静かに爆発したような気がした。
だから私は続けざまにでた言葉をとめられなかった。
「ほんとうは私が君を好きだから待っていったって言ったら、どうする?」
「――え」
私は彼の顔をみずに、彼がかぶっているシーツに出来た夕暮れの影にむかって告白した。
勝てるわけもないのにレオナールに突っかかって、そのために放課後の下校時間まで残ってひたすら剣の修業をして、手にはたくさんかすり傷を作って、それでもダメで。
闇雲に頑張る、彼の危ういところが好きだ。
教室が同じになったとき、私は彼のことを気にも留めていなかった。
たまに思い出したかのように、授業とかで私の婚約者につっかかるよくわからない一般人。
それが私の彼に対する当初の評価だった。
なぜ彼がこんなことをするのだろうか?
頭の隅にできた引っかかりは、私に行動を起こさせ、彼のことをいろいろ調べあげた。赤の他人が知らなくてもいいことまで知ってしまった。
彼の両親は貴族ではあるが、平民に毛が生えたような家だ。
学校に通えているのが奇跡なくらいで、本来なら学校に通わず、騎士として戦場に借り出されても不思議じゃない。戦争があった10年前なら、きっとそうなっていただろう。
しかも現在進行形で学校に通わせてもらっている理由もひどいものだ。
両親は長男が婚約相手を見つけて結婚するまで、世間に今の男爵家の家計事情が問題ないことをアピールするためだけに三男の彼を学校に通わせている。結婚先の相手方だって遊びで結婚するわけではない、家計事情を調べるのは道理だ。
次男や三男を学校に通わせていないことを知れば、自然と婚約者との関係がどうなるかは想像がつく。もしも明日にでも長男の結婚が決まれば、何かと理由をつけてジョゼ君を中退させる腹積もりだろう。
だから彼はいつ学園を去れてもいいように、技術を身につけ、必死で勉強や訓練を受けている。心に色々な感情を抱えたまま。
レオナールとの戦いで倒れたのだって、本当は過労のせいなのだろう。でもおくびにもださない。
彼の努力を知るたびに、彼の横顔が凛々しく見えた。
気付けば私は彼のことをもっと知りたくなっていたのだ。
だって彼の努力に気付いているのは、きっとこの世界で私だけだ。しかも私のほんのちょっとの好奇心からのもので、ただの偶然だ。
誰も彼の努力にも、世界への抵抗にも、気にも留めない。
そうやって世界は回っている。
「どうして俺が好きなの?」
「さぁ?」
「君はレオナールと婚約しているじゃないか」
……なにもレオナールに不満があるわけじゃない。私はいままで両家の良好な関係を築く礎となるために、彼のことを好きになるように両親から教えられてきたから。
でもこのままでいいのかと思っている自分もいる。だって親が勝手に決めたことだから。
「それって理由になるの?」
「なるだろ、普通……」
私が聞き返すと、ジョゼくんは目を丸くさせた。よほど彼を驚かせる内容だったみたいだ。彼がこんな表情するなんて思っても見なかった。
「ねぇ、貴方は私のことどう思っているの?」
私の質問に口ごもり、それから間があって彼は唇をゆっくり開いた。
「俺は君たちみたいな人間が嫌いなんだ」
ほら、やっぱりこうなった。
知っていたよ。覚悟はしていたのだから。好きなんだから、君の答えは嫌でもわかっていた。ほんとうはずっとまえから君が私のことを嫌いだって知っていたし、その理由も私は知っているんだ。
彼がもっとも苦手とする類の人間にはきっと私も含まれているから。
だって君ががむしゃらに努力する理由は、将来のためだけではないもの。
「ひどいこというんだね」
「ごめん」
彼は一呼吸おいて――
「君やレオナールは、俺のような人間には眩しすぎるんだ。俺の持ってないものをなんでも持っていて、それが当たり前みたいな顔をして、でも嫌味もなくて。だからどうしても負けたくないと思ってしまう」
夕暮れの薄明かりに照らされて、彼はまるで自分を罰するかのように萎縮した。
「俺の気持ちがただの八つ当たりだってのはわかってるけど、どうしてもとめられないんだ」
ジョゼ君は自分の行動の源泉が心のうちの黒いうねりのような感情からきていると分かっているのだ。たしかに酷い理由かもしれない。
この謝罪も現状を必死に変えたくてもがいている彼の、ただの論理感からの後ろめたさなのだろう。
私とは根本的にことなる人なんだ。
今まで他人の与えたものに疑問すらもたず、他人の決めた道を歩いてきた私とは。
「私じゃあ、君のことを受け止められないのかな」
「ごめん」
静かにだがきっぱりと、彼は私を否定した。
声は震えていたが明確な意思を持っての発言だろう。
「もう帰るね」
「……玄関口まで送っていくよ」
ベッドから立ち上がろうとする彼を制し、私は自分の鞄をもった。
「ありがとう。でもいいのよ。自分が余計みじめに思えるだけだから」
君のことなんて知らなければよかった。
そうすれば、このまま私はなにも知らず、学園を卒業してそのままレオナールと結婚して、ただどこにでもいる貴族の令嬢として幸せに生きていられたんだ。
他人の敷いた道のりのうえを何の疑問もなく歩いていられたんだ。
「ごめんね、明日からは私たち普通のクラスメイトにもどれると思うから」
私は一度深呼吸して、笑顔を作ってそう告げた。
でも彼とは目線を合わせず私はすぐに立ち上がり、逃げるように保健室を後にした。
校舎を出ると、目の前には夕焼けが映えていた。冬のやさしくない寒さが体を芯から冷たくさせる。このまま心も一緒に凍ってしまえばいいのに。
「なにやっているんだろう、私……」
彼に告白してからずっと頭のなかはぐちゃぐちゃのままだった。
でもどうすればいいのかもわからなくて、とりあえず歩き出すことにした。重い足を動かし、夕日の方向に歩く。
その時、冬の風が吹いて土ぼこりが空中を舞った。
歩き始めた足をすぐ立ち止まらせ反射的に何度か瞬きした。
ほこりのせいか、気付けば涙が流れ始めた。
涙が頬を伝い、地面に落ちるのが分かった。それは音もなく土に染みていく。
私は咄嗟に地面を蹴った。
でも、地面を濡らす涙がとまることはなかった。