再び、どちらさま?
ピリピリピリ……。
携帯電話の着信音で目が覚めた。
寒河江里美は目を擦りながら着信を押した。
彼女の寝床は常に事務所のソファの上となっている。初めはなかなか寝付けなかったが、もう慣れた。
起き上がって携帯電話の通話ボタンを押す。
『あ、あなた奥さん?!』
突然、知らない女性の声。
「……どちら様ですか?」
『私、ミユキよ!! あんたの旦那さん、大変なの……急に顔が真っ白になって、すごく胸が苦しいって……!!』
とうとうきたか。
「……わかりました。お手数ですが、救急車を呼んでいただけますか?」
驚いた相手が絶句しているのがわかった。
眠りを妨げられた里美は起き上がると、今日と明日のスケジュールを確認した。
幸か不幸かそれほど予約で埋まっていると言う訳ではない。一時的に経営は持ち直したものの、やはり波がある。
『ミユキ』なる女性が何者なのかを里美は詳しくは知らない。
知らなくてもいい。だいたい予測はつく。
夫にはもう長い間付き合いのある、愛人があることを知っている。恐らくそのミユキなる女性が該当者だろう。
一時的にはこの旅館の女将の座に就こうとしたが、器ではないと追い出された、流川のホステスだと聞いている。
戸籍上の夫である寒河江俊幸が、毎晩のようにその愛人宅で寝泊まりしていることを里美も承知している。
自分がこの旅館に女将として迎え入れられた理由は、ただのお飾りである。
若くて綺麗な……というのは他人の評判だが……要するに外面を取り繕うためだけに雇われた【モデル】なのだと。
文句を言えた立場ではないことを自覚している。
実を言うと里美はかつて、藤江賢司が言った言葉を真実だと信じている。
『親が犯した罪を償う責任は、子供にもある』……と。
旅館の借金を肩代わりする代わりに、美咲を妻として差し出せと言われ、何とか考え直してもらえないかとお願いしに行った時のことだ。
彼は自分の父親と美咲の母親のことを教えてくれた。
その事実は既に、他所者である里美の耳にも入っている情報だったが。
そして賢司は言った。
『彼女のことは利用できる』と。
その目的が何なのかを教えてはくれなかったが。
とにかく、恨むのなら彼女の母親を恨め、と。
里美がごく普通の家庭に育った人間なら、きっと納得できなかった。でも。
普通の家庭ではなかった、ということである。
里美の父親はかつて政治の世界でそれなりに名の知れた人物だった。
それが、過度の名声と富を求めて撒いた種が【汚職】と言う実を結び、最終的には犯罪者の汚名を甘んじて受ける羽目になり……一家は離散した。
母親は幼かった里美を連れて、石川県の輪島温泉に身を寄せた。そこはもともと母の出身地だったこともある。
女性ばかりの職場に渦巻く黒い感情の恐ろしさを、子供の頃から知っていた里美は、どうにか上手に立ち回る術をいつしか身につけていた。
母も教えてくれた。
無事に生き延びるためには、時には本音を押し殺すことも必要なのだと。
何度も同じところを摩擦していればいずれ皮膚は固くなり、鈍感になる。
心もそれと同じことだ。
女として幸せになる権利なんて、初めから持っていないと思いなさい。
だから里美はそう何度も自分に言い聞かせ、寒河江俊幸との縁談が持ち上がった時も、たいして抵抗はしなかった。
誰にも心を開くことはない。
ただ、食べ物と着る物、寝るところさえあればいい。
だけど……。
やめよう、考えるのは。
確か愛人は流川でホステスをしているという話だったから、おそらくその近辺に住んでいることだろう。
救急車を呼んで運ばれる先は恐らく……安芸総合病院。
里美は時計を確認した。
もう、今の時間ではフェリーは運航してない。
始発までもう少しだけ眠ろう。




