この子はアタシの下僕よ
結局、進路希望については振り出しに戻ってしまった。
自分がどうしたいのか周はまだ決めかねている。思った以上に自分が優柔不断だったことに気付き、やや愕然とする。
この機会だから、由子さんに相談しよう。
彼女を一緒に車に乗せたところで、周は病室に忘れ物をしてきたことに気付いた。
「あ、俺……賢兄のところにスマホ忘れてきたみたい。とってくるから、ちょっとだけ待っててもらえる?」
周は院内に戻った。
病室に入ると、兄は眠っていた。
起こさないよう気をつけながらスマホを探す。すぐに見つかった。
元気で退院しろよ。声に出さず、周は彼に話しかけて病室を出た。
それから駐車場に向かって歩いている時だった。
「藤江周君、だよね?」
午後のひととき、閑散としている待合室で。いきなり周は呼び止められた。
誰だ?
怪訝に思ってあたりを見回すと、ベンチに腰かけている男がこちらを見ていた。
何度か顔を見たことがある。賢司の知り合いだ。
銀縁眼鏡をかけ、黒い髪をオールバックにし、スーツを着ている。
兄とこの男が険悪な雰囲気だったことを思い出し、周も思わず身構えてしまう。
すると男はくすっと笑った。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないか。確かに、君のお兄さんにはずいぶん嫌われてしまったけれどね」
名前、なんだっけ?
聞いたようなそうでもないような……。
「何か?」
「毎日、賢司のお見舞いに来ているの? えらいね」
周は返事をしないでおいた。
「……そんな表情しないで」
優しい声音で語りかけてくる男の表情は柔らかい。
だけど。醸し出す空気はどこか禍々しく、近寄りたくない雰囲気であった。
「ねぇ、前にも訊いた気がするけど、君は芸能界に興味ある?」
「芸能界?!」
予想もしなかった単語が飛び出してきて、周は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「いや、あの……」
「君は顔も綺麗だし、頭も良さそうだし……素質があると思うんだよね」
そう言われて悪い気はしないが、考えも及ばないことだ。
「上手くすれば、すごいお金になるよ?」
お金なんて、と言いかけた周を遮るかのように、
「君のお姉さんの実家、ずいぶんと借金を抱えているようだね?」
「どうしてそれを……?!」
男は笑顔を浮かべてポケットから名刺を取り出し、両手で包むようにして周の手に握らせた。
そうして不必要とも思える距離に、顔を近付ける。
香水のキツイ匂いが周の鼻先をかすめたその時だった。
「病院でボーイハントなんて、良識を疑うわね」
と、頭上から別の男の声が聞こえる。
首だけ振り向くと、そこにいたのは北条だった。
男が微かに表情を歪める。
「気安く触らないでくれる? その子……」
な、何を言うつもりだろう?
和泉なら確実に『ステディ』とか『ハニー』とか、それはそれで誤解を招きかねないことを言ってくるのだが。
「アタシの下僕なの」
もっと悪かった。
というよりも、最悪だ……泣いてもいい?
男は苦笑しながら立ち上がる。
「これはこれは。北条さんのお小姓さんでしたか。知らぬとは言え、大変失礼いたしました」
どっちも違う!!
周は叫びたかったが、一応ここが病院内であることを考えて我慢した。
「何してたの? この子に手を出すなって、こないだ、あんたとこの下っ端達に申し伝えておいたはずだけど」
ずいぶん居丈高だが、大丈夫なのだろうか?
しかし男はひたすら低姿勢に、それでいて慇懃な態度で応じている。
「申し訳ありません。どうやら上手く伝わっていなかったようです」
それでは失礼します、と男は去っていく。
「一人で何してるのよ?」
やや咎められるような口調で訊かれ、周は姉達を待たせていたことを思い出した。
「北条さんこそ……なんで? 俺は、姉と一緒に来たんですけど……」
「お姉さんは?」
駐車場に、と答えかけて急に不安になる。
周は挨拶もそこそこに駐車場へと走った。
「周君。遅かったわね」
幸い、姉も由子さんも無事だった。
周は少し落ち着いてから、渡された名刺を見た。『支倉潤』と書いてある。
肩書きも書いてあるが、なんの職業なのかよくわからない。
それにしても。
考えてみれば確かに、あの旅館は借金だらけだ。忘れかけていた。
そのために姉は望まない結婚をさせられたのだということも。
大金があれば彼女を救えるのだろうか? 本当に好きな男の元に嫁がせてやることができるのだろうか。
今はそんなこと、考えられない。
兄があんな調子でいる今は。




