白檀の怪
私が本当に小さい頃、私は祖母の家に行くのがたまらなく嫌いだった。
テレビは民放2局しか映らないし、周りにあるのは田んぼや山ばかり。子供の遊べるおもちゃといえば、母が幼いころに使っていたらしい古びたおままごとセットやボロになった服を着せられたお人形。その虚ろな表情がなんとも不気味で、恐ろしくて、私は祖母の家にいる間は母の側から片時も離れなかった。
「よっぽどお母さんが好きなのねぇ」
祖母はそう言って微笑み、私にお菓子を差し出してくる。古臭いパッケージの砂糖とチョコレートがこってりとかかったそれすら、私は手を付けるのを躊躇うほどだった。
小さな私にとってはただただ広いばかりの家の中で、なにより怖かったのは仏間だった。天井近くにずらりと並んだ私の知らない老人の写真も、ぬうと立つ真っ黒な仏壇も、部屋に充満する溶けた蝋燭や線香の匂いも、嫌いで仕方がなかった。
凝り固まった考えの古い人間だけが集い、笑いあう、それに押し込められる『可愛らしい子供としての自分』という像が不気味で大嫌いだった。
今思えば、祖母の家はその象徴だと思っていたのかもしれない。
早く自分の家に帰りたい……。4才になってから初めての年明けのある日、その日何度目かのため息を吐いた時、不意に声をかけられた。
「おめ、ここのもんじゃねな」
がさがさと掠れたような声は仏間の方から聞こえたようだった。驚いて振り返るが、そこには誰もいない。
ただ、鉛のような重い存在感だけは感じた。
それをどう表現すればいいのか、今の私も分からないが、確かに、何かが、そこにいるのは解った。
「おめにおらは見えね方がええ。安心しろ。おめはあと三度、ここさ来たら、もう来なぐてよぐなる」
暗い仏間の奥の方で、何かが嗤ったように思えた。そこには、何も、見えないのに。
「いがったな」
今度こそ、間違いなく、声が、嗤った。
その声に弾かれるように、私は家を飛び出した。冬のきんとした寒さが薄着の肌を容赦なく刺す。だが、一刻も早くそこから離れたかった。じゃりじゃりと転がる小石が素足に当たって痛かったが、気にせず私はただ走った。
「どうしたの! なにがあったの?」
私の奇行に慌てて飛んできた母が私を抱き留める。その腕の中で、私は半狂乱になって泣き叫び続けた。お化けを見た、話しかけられた。そう訴えても信じてもらえず、母は「よしよし」と身体を撫で擦ってくるばかり。
結局その日は一日泣き続け、私は母の腕の中でそのまま眠った。
それから三度正月を迎え……その年の春、あんなに元気だった祖母が死んだと伝えられた。脳溢血による急死だった。
大人たちの話し合いの結果、あの古く大きな家は取り壊され、土地は売りに出されることになった。
あの日聞いた『何か』の声の言うとおり、本当に私は三回この家を訪れ、そしてもう二度と来なくて済んだ。
古い仏壇だけは私の家に置かれる事になり、今は祖父母の遺影だけが飾られている。
そういえばあのお化けはどこに行ったのだろう。家と一緒にいなくなってしまったのだろうか。それとも、この仏壇と一緒にここに憑いてきたのだろうか。
あれ以来、私はあのお化けの声は聞いていない。
しかし、不意に香る線香の匂いが、あの日のことを、私の中の仄かな疑問を思い出させるのだ。
あの声の主は、どういうつもりで私に話しかけたんだろう?、と。
結婚し、帰郷したある年の正月。
みっつになったばかりの私の子供が仏壇の前でどこかに向かってけらけらと笑っているのを見て、湧き上がる恐怖をひとり飲み込んだ。