第九話 待ち望んでいたもの
「いい天気だね」
「ああ、暑すぎず寒すぎず。いい天気だ」
他愛もない会話をする年ごろの男女二人。二人は隣り合って座りながら前を見つめている。しかし楽しげな会話にかぶさるようにゴトゴトとした音が響く。
なんてことは無い。僕とハンナは同じ馬車の御者台に乗っているというだけだ。だから僕たちは同じ方向を向いて隣り合っているし、森の中の不整地を進む馬車はゴツゴツと容赦なく突き上げてくる。
なぜ僕が馬車に乗っているのか?その答えを伝えるためには時を数時間ほど巻き戻さなければならない――
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「アマネ。今日は村へ買い出しに行こうと思う。」
彼女は何時だって唐突だ。もう少し早く、具体的には昨日の夜に伝えてくれれば多少心の準備が出来ただろう。そうすれば今行っている魔法実験の準備も無駄にならずに済んだものを……。
「一応聞くけど、なんで?」
「そろそろギシャの粉の備蓄が心もとない。それにアマネ用の生活用品も買いにいかないとな。ずっとそれ一着で過ごすわけにもいかないだろう?」
確かに僕は召喚されたときに着ていたワイシャツとスラックスをこの一週間着っぱなしだ。まさか女性であるハンナの服を借りるわけにもいかず、そろそろ汚れが目立ってきたのでどうにかしたい所だったがこれは嬉しい提案だ。ちなみに最初に着ていた白衣は汚れるのが嫌なので倉庫に置いてきた。あいつはこの厳しい環境についてこれそうもない。
「その提案は嬉しいんだけど、僕はお金を持ってないよ?」
「心配するな。これでも蓄えがある。それに仕留めたタルビーの皮を売ればそれなりの値段になるしな。後、例のパンを柔らかくする水も売れるんじゃないか?」
なるほど酵母を売れば多少の値段にはなるか。正直水とギシャの粉を混ぜて放置しただけのものを売るのは何となくはばかられるが。
「で、村へはどうやって行くんだい?馬車か?」
「そうだな。帰りは結構な荷物になるだろうから、そのほうがいいだろう」
これまでこの小屋に住んでいるのは二人だけと言ったが実はもう一人同居人が存在する。
いやこの場合一頭というべきか。馬車があるんだから当然馬がいるわけで。
「よしよし、ファルシオン。今日は頑張ってくれよ」
ハンナは馬小屋に繋がれた彼の頬を優しく撫でる。
ただ彼女は彼のことを馬と呼ぶが、僕の中の常識はそうは言っていない。
こいつはどう見ても牛だ。
確かに細長い顔つきは地球の馬に似ている。だが似ているのはそれだけだ。頭には二本の立派な巻角があるし、足は太く短く、体型はずんぐりむっくりとしていて地球のサラブレッドとは似ても似つかない。まあ力はありそうなので馬車を牽くのには適しているのだろうが。
ちなみに彼はオスで名前はファルシオン。明らかに名前負けしていると思う。
「悪いが馬車を持ってきてもらえるか? 私はファルシオンに馬具を取り付けるから」
「ああ、わかった」
僕はそう言うと倉庫の裏にある馬車に向かう。
馬車と言っても非常に簡素なもので、幌はないし積載スペースは二畳程度か? そこに申し訳程度の御者台が付いている。当然サスペンションなどない。乗り心地は当然劣悪なものだろうが、僕の心中は乗り心地による不安よりも馬車に乗れる期待で満たされていた。それも当然だろう。現代日本に住んでいれば一生馬車に乗る機会など巡ってこないだろうから。ちなみに日本の道路交通法だと馬は軽車両扱い、すなわち自転車と一緒なので公道を走れるらしいが馬車も一緒なのだろうか?
僕が馬車を持ってくると、そこには既に作業を終えたハンナと馬具を取り付けられたファルシオンが待っていた。
「この間にファルシオンを入れればいいのかな?」
今回使う馬車は車体から進行方向に向かって二本の長い木の棒――轅――が伸びている一頭牽きのものだ。馬車を押して轅の間にファルシオンを入れると、ハンナは慣れた手つきで馬車と彼を繋いだ。
「よし。後は荷物を積み込むだけだな。今日は頑張ってくれよファルシオン」
彼女がそう語りかけると、ファルシオンは任せておけと言わんばかりに前足で地面をかき鳴らす。この馬言葉が解っているのか?それとも久しぶりに仕事の時間なので気がはやっているだけなのか。
それからしばらくして荷物も積み終わり出発の時間と相成った。今回の売り物は土ウサギの毛皮、山で採れた薬草類、例の酵母の入った水と商品サンプルの柔らかくなった黒パンだ。量としてはウサギ十羽分の毛皮が一番多いが、馬車の荷台は半分も埋まっていない。
「じゃあ出発しようか。そうだアマネ、運転してみるか?」
「馬車なんて運転したことないけど、大丈夫なのか?」
「大丈夫だ。簡単だよ」
「まあ何事も経験か。やって見るよ」
表面上なんてこともないように装うが、僕は内心は初めて馬車を運転できる喜びでガッツポーズをしていた。
「よっと」
僕は馬車の御者台に登る。御者台は意外と位置が高いので馬車に乗るというよりよじ登ると言ったほうが正しい。
意外と大変だなと思った僕は、いまだ地面に立っている彼女に向けて自身の右手を差し出す。
「ん?どうしたアマネ?」
「どうしたって乗るのは大変だろう?僕が引っ張り上げるよ」
「あ、ああ。そういうことか。よろしく頼むよ」
彼女はそう言っておずおずと手を差し出し、足を御者台に掛けた。僕はその手をしっかりと握り、一気に上まで引っ張り上げる。
引っ張り上げるが、上げきった所で彼女はバランスを崩してしまった。これではいけないと思い、僕は彼女の腰に左手を回し両の手で彼女を引き寄せる。そうすると二人の距離は一気に縮まって――。
「ご、ごめんハンナ」
一瞬、互いの息遣いが聞こえそうなほど近づいた僕らの距離を引き離す。当然彼女が馬車から落ちないように優しく。
「ま、まあ、今のは仕方ない。それより出発しよう。手綱を握って引っ張れば進むぞ。」
「あ、ああ。行こうか。それっ」
手綱を引くと馬車は僕らの間に訪れた沈黙を塞ぐようにゆっくりと動き始めた。
そして時は冒頭へと戻る――。
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出発の時の出来事のせいなのか、小屋を出て三時間ほど経つが僕らの間の会話は少ない。それでも馬車はそんなことを気にせず進む。僕は一応手綱を握ってはいるが、出発の時に鳴らして以来一度も使っていない。ファルシオンは道はわかっているんだぜと言わんばかりにグイグイと、そして小走り程度のスピードで進んでゆく。
「ねえハンナ。これで道はあってるのか?」
「大丈夫だ。ファルシオンは賢いからな。眠っていても目的の村に着くぞ」
そうですか。ファルシオンが賢いのはいいことだが、同時に僕の仕事はほとんどないことに若干の喪失感を覚える。
「あとどれくらいで村に着くんだ?」
出発から手元の腕時計で約三時間。この簡素な馬車の容赦ない突き上げでそろそろ僕のお尻は限界である。ちなみにハンナはちゃっかりクッションを使っている。村に着いたらまず最初にクッションを買うんだと心に誓いつつ、まだ着かないのかと彼女を急かす。
「まあそう焦るな。この丘を越えれば見えてくるさ……。ほら。見えたぞ」
そこには僕のお尻が待ち望んでいた目的地がようやく見えてきた。