第一話 護国寺周
「ふぅ」
静かな部屋に男の溜息が響く。それを遮るのはいかにも高性能と言わんばかりの大型PCの駆動音だけ。男が持つマグカップからは湯気が立ち上っているが、コーヒーは寡黙にして何も語らない。
男がいるここには大型PCと無機質なデスクがいくつか。男のほかには人影はない。窓から見える外は全てを飲み込もうとするほど暗く、時刻は夜中の2時を回ったころか。男は疲れているのか眉間を指で押さえ強く揉み始める。
「よし、やるか」
男は着ている白衣を翻しながら喧しいPCのもとへ向かう。白衣からチラりと覗くスラリと伸びた長い脚は男のスタイルの良さを表しており、その身長は日本人の平均より高く180 cmに届くだろうか。頭髪は眉に掛からない程度に短く切りそろえられており快活な印象を与える。顔立ちも整っており十人いれば十人が美男子だと声を揃えるだろう。切れ長の眉と、スッと通った鼻筋は男の知的さを表している。
部屋にキーボードの打鍵音だけが響く。男はモニターに向かい合っているがどうやら思い通りには行っていないようで、眉間に皺を寄せながら時折右手でコーヒーを啜る。
「やっぱりデータ不足かぁ……。うーんマウスだけじゃ限界があるなぁ」
男がそう愚痴る。が、それを聞いているのはPCとデスク、後はコーヒー位のもので、彼らは答えを返す術など持たないだろう。
此処が何処なのか。男が何をしているのか。その説明には彼が何者なのかから説明しなければならない。
彼の名は護国寺周、大学二年生の20歳だ。彼が大学生ということは、彼が今いる此処は大学の構内だろうか?事実此処は大学の研究室である。
周が大学二年生であるにもかかわらず研究室に、しかも夜遅くにいることに諸兄は不思議に思うかもしれない。それを説明するためにはこの言葉で十分だろう。
周は非常に優秀な学生であり研究者だった。
彼は倍率2000倍の、『若手研究者育成プログラム』に通過し学費を全額免除された学生として大学に通っている。
その対価として大学入学時点で研究室に所属することが義務付けられ、博士課程に進むことも決定している。
期待されている。そんな環境で彼はすぐに結果を出した。彼の専攻は生物学であるが学部一年次で学会発表を行いすでにある程度の評価を受けている。
「駄目だな、これじゃ実験データが間違っているのかデータ処理が間違っているのかの判別がつかない」
彼はそう言いながら体重を椅子に預けしばらくの間モニターと見つめ合う。彼は完璧主義者なのだろう。別に締め切りに追われているわけではない。今日上手くいかないなら明日やり直せばいいとは思うのだが、彼はそれを良しとしない。例え明日出来ることであっても、今日出来るならばやらずにはいられない。彼はそういう人間なのだ。
「違うパターンを試してみるか」
どうやら再起動したようだ。話を戻そう。彼の専門は遺伝子改良による家畜の調整体の精製だ。このテーマにおいてある程度の成果を出すことに成功している。――実際に豚などの家畜ではなくマウスで実験しているのが現状だが――そこからわかる通り彼は優秀な学生で、このまま研究を続ければ間違いなく後世に名を残すような成果を達成するだろう。
ただし彼が本当に望むものは彼のみが知る事実である。
それを大衆が知ればあらん限りの罵詈雑言を持って彼を非難するだろう。お前はイカレていると。
「くそっ、これも駄目か」
彼はそう言うと勢いよく立ち上がった。おそらくは考えるときの癖なのだ。右手にコーヒーを持ったまま同じところをグルグルと回り続けている。
「関数がいけないのか?いや、モデル化は出来ているはず……」
彼がこのまま思考を続ければ問題は解決したであろう。しかし運命の悪戯か、人ならざる者の意思か、彼らはそれが成ることを許さなかった。
「っっ!?なんだ!?」
彼の足元に幾何学模様と円で構成されたものが光り始める。どう見ても非科学的な“それ”は魔法陣と呼ぶのが相応しい。
「なんの悪戯だ!これは!」
周は逃げようとするが魔法陣は彼を中心として描かれ、逃げようとしても着いてくる。
周は混乱の中この件の原因について考えようと、ひとまず落ち着こうとするが、その暇を与えないのか魔法陣は自身の光を段々と強くしてゆく。
「いったい何なんだ――」
そう言い終わるが早いか、この日一人の男は世界から姿を消した。
残された静寂はPCの駆動音が空しく響き渡るだけ――。
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空間を引き裂くような極光が徐々に薄れていき次第に自分の周囲が明らかになってゆく。しかし周囲の状況を確認するたびに僕の脳内は暗雲に閉ざされる。
僕の周囲は窓ひとつない石壁に囲まれている。部屋の広さは十畳ほどか。足元にはどう見ても科学的には見えない円が描かれ、ぼんやりと光を放つそれによって部屋の中が照らされ周囲を視認できる。
そして僕の正面には長身の女性が立っている。薄暗い部屋の中では彼女の表情までは視認できないが、厚手に見えるローブを押し返す豊かな双丘の存在から『彼女』だと認識できる。
周囲を見渡しても埒があかないので自分の状況を認識する。僕こと護国寺周は20才の大学生だ。先ほどまでは一人研究室に残り自身の研究を進めていたが、一区切りつけようと思いコーヒーを淹れていた。研究に行き詰まり思考を巡らしていた所、体が極光に包まれ気が付いたらこの部屋の中だ。
光に包まれてから時間が経っていない証拠に右手には湯気を立てているマグカップが握られている。左手の電波ソーラー式腕時計は1時48分。先ほどの不可解な現象から一分と経っていないことは感覚から解る。
これはたちの悪い夢かと思いマグカップを持つ右手を左手でつねる。
「痛い」
どうやらこれは現実のようだ。受け入れがたいが。
とにかく落ち着こうと思いコーヒーを口にする。ぬるくなってしまってはもったいない。
「旨い」
教授にコーヒーメーカーを研究費で買ってもらったのは正解だった。研究費は元をただせば国民の皆様の税金だが、この程度で研究が捗るなら国民の皆様も納得するだろう。
「おっといけない」
いったん逸れてしまった意識を現状の把握に費やす。
足元にはぼんやり光る魔法陣らしきもの、目の前にはいかにも魔法使いですと言いたげな格好をした女性。鼻をくすぐるコーヒーの香りと、右手をつねったジンジンとした痛みがこれを現実だと告げている。
とにかくこの場でこれ以上の情報を得るためには、目の前の胡散臭い女性に目を向けるしかない。薄暗くて見づらいが、彼女は顎に手を当て考えこむような仕草でブツブツと何か呟いている。
こちらを見ようともせず考え込んでいる彼女に若干の苛立ちを感じつつ、このままでは現状は進展しないので彼女に話しかける。
「もしも~し、聞こえますか~?」
話しかけるも彼女は反応せずブツブツと呟いている。
「すいませ~ん」
またも反応なし。イライラして彼女の肩を揺さぶろうと考えるが初対面の女性にやることではないだろうと思い、先ほどより大きな声で一つ。
「失礼!」
「ひうっ!」
その声で彼女はやっとこちらに視線を向ける。薄暗くてわかりづらいが、全身をビクッと震わせたことから彼女が驚いていることがわかる。変な声を出したのは触れないでおこう。
驚かせて申し訳ないなと思いつつも、とにかくこの馬鹿げた現状を打開するためには情報が必要である。先ほどより柔らかな口調で尋ねる。
「この状況の説明をお願いしたいんですが」
この日から僕の長い旅が始まった。