ある記憶
「まあ――ちゃん、来てくれたの」
うれしそうに、ベッド上の老婆は言った。
「遠くからねえ」
先程と全く同じ言葉を。僕が聞くのは、これが三度目だった。
枯れ木に咲いた笑顔を前に、少し落ち着いた僕は考える。
短期記憶が失われるとは、こう言うことなのか。
*
10ヶ月ぶりに会った祖母は元気そうだった。
見舞ったのは、病院とも施設ともつかない場所。
「まあ――ちゃん、来てくれたの。遠くからねえ」
肺炎とのことだったけど、体調は良さそうに見えた。
僕は何気なく、とりとめのない話を交わす。
身内のこと、体調、近況。祖母は元気そうに見えた。
*
そのことに気付いたのは、僕がお手洗いで中座した後だ。
僕の顔を見て、驚いた祖母は言った。
「まあ――ちゃん、来てくれたの。遠くからねえ」
察してから、恐らくは数十秒だったと思う。
このときの僕が何を話したか。
今になっても思い出せない。
それでいいと言う気もする。
「……ちょっとごめん」
言って部屋を出、向かいの手洗いにかけこんだ。
ほんの30秒前、用を足したばかりなのだけど。
*
そして冒頭に戻る。
*
その後、僕は話した。決して中座しないように。
後の記憶は帰り際、受付職員さんとのやり取りだ。
「――さん、お元気でしたか」
「ええ。ただ、腕が痒いみたいなので、その所よろしくお願いします」
その祖母も亡くなり、しばらく経った。
けれども書いて残さない限り、どこにも残らないことに気付いた。
僕以外のどこにも、このときの記憶は。
だからたった今書くことにした。
本当に、ただそれだけのお話。