喪失
幼い少女の目に飛び込んできたのは、真っ赤に燃え盛る村だった。
生まれ育った村が、舐めるように炎に飲み込まれていく。夕食に使う食材が入ったバスケットを投げ捨て、少女は金切り声を上げながら炎の中へ飛び込んだ。むせ返るような熱波と濃い煙。衣服の袖で鼻を覆っても、煙は容赦なく体内へ侵入してくる。
目からボロボロと涙を流し、無我夢中で地面を蹴って我が家を探した。
どこもかしこも瓦礫の山で、どれが自分の家なのか見当もつかない。転がるように坂を下り、いくつもの畑を抜けると、瓦礫もまばらになっていく。
森を突っ切ってきり立った崖の下まで行くと、奥の方に今にも崩れそうな家屋が見えた。
「お母さん、お母さんっ!!」
血相を変えて走り出す少女の顔はすすにまみれ、跳ね上げた泥でズボンもベタベタだった。
喉に鉄の味がこみ上げてきて、思わず膝をつく。もうすこし、もう少しなのに――――涙と血液を撒き散らす少女を嘲笑うかのように、古い家は思い出と共に崩れ落ちていく。
「やめ、て……」
最後は、声にならなかった。
煙にやられた喉は使い物にならず、視界もぼやけている。必死に目を擦って見ても、目の前にあるのは潰れた屋根と土埃だけだった。
たった今、村がひとつ、消えたのである。
「お母さん……嫌だよ……私、一人なんて嫌だよぉ……!」
朦朧とする意識の中で、最後に思い浮かべたのは母の白衣姿だった。
――――アリス。お前はまだ〝力"を制御できないから、この森を出てはだめよ。自分が生まれた意味を知るまでは、絶対に。見つかったら、お前は殺されてしまうから
ごめんなさい、お母さん。私、約束破っちゃったよ。私が森を出たから、こんなことになっちゃったの?私のせいで、みんな死んでしまったの?
でももう、誰に見つかるって言うの、お母さん。だって私も、ここで死んでいくんだよ。
伸ばした手には、気味の悪いほど白い、滑らかな石が握られている。
やがて火の手は、醜い姿で倒れ伏す少女の身体を容赦なく攫っていった――――
「……どうやら、手遅れだったようですね」
煙の燻ぶる焦げ臭い森を前に、一頭の白馬が足を止めた。前に乗っていた男はヒラリと着地し、うやうやしく後ろの女性の手を取る。
抱え降ろされた女は、まだ二十歳そこそこか。美しい顔に憐憫の色を滲ませ、フードを目深に被り直した。
「いえ。まだ間に合います」
壮年の騎士が足を踏み出すと、不服そうに女も続いた。時折辺りを見回してはため息を吐く。スラリとした体型の彼女より、さらに頭一つ分背の高い男は、大股でずんずん歩いていってしまう。
呆れ返って、女は口を開いた。
「……ユアン。あなたには、何かアテがあるの?」
ユアンと呼ばれた男は、静かに振り返って立ち止まった。懐をまさぐって掌を突き出す。
差し出されたのは石だった。鈍い光を放つ白濁した水晶が、大きな手に握られている。
「これを、覚えておいでですか」
「当然でしょう。最近になって、あまり見なくなったけれど」
「この石の持ち主が、この森にいるのです」
妙齢の美女の瞳が、驚きに見開かれた。それは毒々しいまでの緋色に輝き、まっすぐに目の前の男の眼を射抜く。
「……あなたは、ここにアレシアがいると言うの」
「間違いありません。生き残った村人から「赤い瞳の女を見た」との証言を得ております」
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる男の顔には、ざっくりと大きな傷跡。
片眼こそ醜く潰れているが、前髪から覗くもう片方の瞳は、やはり炎の色をしていた。
「急ぎましょう」
ユアンは女の手を取り、人とは思えないほどのスピードで走り始めた。腕を引かれる女は、血色の悪い手で右目を覆う。左目の輝きが増したように見えた。
「……その道は右。次は……林檎の下を潜って草むらへ入って。湖が見えるでしょう?その坂を下りたら、後は北へ……」
女の指示通り、ユアンは走り続ける。消えかかっていた煙臭さが濃くなったかと思うと、急に目の前が開けた。
作為的に削られた山肌はむき出しになり、大きく抉れている。土砂の隙間から見える瓦礫が、そこに建造物が存在していたことを示していた。
「ユアン……」
「クリスティーナ様。あれを……!」
モミの大木の下敷きになり、ボロ切れのような少女が押しつぶされていた。クリスティーナがあまりの惨たらしさに目を背けると、ユアンが前へ出て、木の側面に刃をあてがった。
真っ二つに割れた老木の下から現れた少女は、消し炭のような無残な姿をしていた。全身すすまみれな上に腹は潰され、四肢は不自然に折れ曲がって骨が飛び出している。
どう考えても生きているわけがない。
だが。
「ユアン。この子の手……」
小さな手をこじ開けると、彼女の身体が、一瞬ピクリと震えた。己の持つ石と同じものが握られているのを見て、ユアンは驚きのあまり言葉を失った。
「これは……まさか」
薄く開いた瞼を押し上げて、瞳を覗き込む。瞳孔が開ききって光を失ってはいるが、少女の瞳は、二人と同じ色をしていた。
「……わたしたちは、やはり取り返しのつかないことをしてしまったのだわ。……だって、この症状は……」
『時雨病』
「これがアレシアの娘だったとして……まさか、この瞳は遺伝……」
絶望に打ちひしがれる美女の隣で、ユアンは迷わず剣を振り上げた。止める間もなく、一瞬で深々と少女の胸を貫く。貫通して地面にまで突き刺さったそれを、無表情に騎士は引き抜いた。
「……本当に遺伝しているのなら。私たちは、確かめなければなりません」
ユアンの声音に、感情の色は無かった。淡々と数箇所も刺し貫いていき、反応を待つ。
部下の心が壊れてしまったように見えて、クリスティーナは恐ろしさに身震いした。
「ユアン!あなたの行為は、死者への冒涜に過ぎません。この娘はもう、死んでいるというのに……」
「……アレシアはこうも申しておりました。「〝力"が制御出来ぬうちは、再度刺激を与えなければならぬかもしれぬ」と」
顔を引きつらせるクリスティーナの前で、尚も少女の遺骸からは、わずかながらに血が噴き出た。
ドロドロの血液を正面から浴びた女は、絶対に起きてはならないことを目の当たりにして、力なく地面に膝をつく。
「動い、た……」
グチャグチャに破壊されていた身体は、かつて自らが体験したように、静かに形成されていく。
ゆっくりと時間をかけて〝元通り"になった少女は、おもむろに起き上がって目を擦る。
「あれ?私、何してたんだろ。あなたたちは……誰?」
クリスティーナは、目の前が真っ暗になるのを感じていた。
――――それは、人としての終わり。終わることない悪夢のセカンドライフの始まりに、過ぎなかったのである――――