第九話 オタップルの快進撃とアニメ魂
高天津高校全校生徒の意識と価値観の変革。サブカルチャーや、それを愛するオタクに対するイメージをアップさせる。それが悠希と美優の使命となった。二人が校内のオタクのフラグシップとなる作戦は翌日から決行された。
放課後の高天津高校の廊下を一組の男女が徘徊していた。新入生の来栖悠希と梅沢美優である。普段から注目を集める二人だったが、今日は特に奇異の眼差しで見られている。その原因は二人の痛いファッションにあった。彼らは共に学校指定の制服からティーシャツに着替えているのだが、そのデザインは着こなすには色々な物を捨てる覚悟がいる代物だった。
悠希が着ているティーシャツは、前面に小学校高学年くらいの半裸の女の子が膝を抱え込むように丸くなっているイラストがあしらわれていた。その背面には、『十三歳以上お断り』の文字が、毛筆調の書体で大きくプリントされている。このご時世、声を大きくして訴えるには、あまりに反社会的な主張であった。
美優は前面に二人の男性キャラクターが描かれているティーシャツを着ていた。上半身裸の男同士が絡み付くようにキスをしてるという大胆なイラストだった。背面にはデザイン化された記号がプリントされている。矢印と丸で構成された男性を意味する記号が二つ並んでおり、一方の矢印部分が、もう片方の丸部分を貫いているという、意味深なデザインだった。
どちらのイラストも、アニメファン以外のいわゆる一般層をターゲットにした物ではなく、いかにもコアな雰囲気が漂う絵柄である。空気を読む人間にとっては、着る機会と場所が著しく制限されるアイテムであった。
痛ティーシャツを着ていつも通り堂々と歩いている悠希に対して、美優は普段の強気な彼女からは考えられない様子だった。周りの生徒の反応を見るのが怖くて、紅潮した顔を伏せながら、悠希にエスコートされている状態だった。さらに、自分の姿が少しでも隠れるように、悠希に体を押しつけるようにして歩いている。だが、その行為には大きな副作用が伴っていた。端から見ると、オタクのカップル同士が人目もはばからずイチャついているようにしか見えなかったのだ。
美優は悠希に引きずられるようにしながら、全校生徒の衆目を集めるためだけに連れ回されていた。悠希と美優の姿を見て、彼らがオタクだと認識してもらうことが目的なのだ。美優にとっては、羞恥心をすり減らすような校内引き回しだった。
「どうした美優? やましいところがないのなら堂々としていろ。お前らしくもない」
「……やましいのよ。やましいところだらけだから、こうなってるんでしょうが」
「しかしだな。少し離れないと、ずっと……お前の胸部の脂肪が当たってるんだが」
悠希にしては珍しく尻すぼみで歯切れの悪い言葉だった。美優がむやみにしがみついてくるため、悠希の腕は彼女の胸の間に埋まっているような状態なのだ。世間知らずの悠希といえども思春期真っ盛りの男子。男女の違いに戸惑ったり、恥ずかしがったりするのは当然の反応だった。
「ヤダやだっ!? 離れないでよっ! 見えちゃうでしょっ!?」
自分を引きはがそうとする悠希を逃がすまいと、渾身の力で抱きつく美優。通りすがりの男子生徒には、露骨に舌打ちをする者もいた。傍目にはじゃれ合っている幸せな恋人同士にしか見えなかったのだ。
そんな悠希と美優を特に興味深く観察している生徒がいた。田野倉鈴、一年五組の女子生徒である。
鈴の趣味はアニメ鑑賞だった。小学生の時に放送していた、剣道部の美少年達が題材のスポ根アニメを見て、この世界にどっぷりとはまってしまったのだ。その頃は、アニメが好きだと公言することは恥ずかしいことではなかったし、他にもアニメ好きの友達は何人もいた。放送日の翌日に教室でアニメの話をするのが楽しみだった。
それがいつの間にか、周りの友達がアニメの話をしなくなったことに気が付いた。そういう友達には、自分の方からアニメの話を切り出すこともできなくなった。中学生になってからは、数少ない同好の友人と人目をはばかりながらその手の会話を楽しむことになった。
そんな鈴にとって、今の悠希と美優は複雑な感情をもたらす存在だった。周囲が引くくらいに嗜好をさらけ出すことに呆れもするが、同時にうらやましくも思えるのだ。しかも恋人同士で趣味が同じだなんて、憧れすら感じてしまう。
――それにしても、来栖君と梅沢さんってそういう人だったんだ。梅沢さんのティーシャツは、明らかに公式グッズじゃないわよね。自分とは多少趣味のジャンルが合わないのが残念。上手くいけば、梅沢さんと仲良くなれるチャンスだったかもしれないのに。
「やあ、田野倉さん」
オタクカップルに気を取られている鈴に話しかけてくる男子生徒がいた。小学校から同じ学校の幼なじみ、菊田英孝だった。そういえば、彼も小学生の頃によくアニメの話をしていた友達の一人だった。彼に誘われ、サブカルチャー研究部に仮入部したものの、一度部室に行ったきりで、その後は顔を出していない。そのような事情もあって、鈴には彼に対して後ろめたさがあった。
「菊田君……」
「何だか、話するの久し振りな気がするね」
菊田の声に鈴を責めるような調子はない。そんな意図もないのだろう。しかし、鈴には彼を裏切ったような、見放したような罪悪感があった。
「ごめんね、部活行かなくって」
「ううん、いいんだよ。男子ばかりの部には居づらいだろうし、あの部室の有様じゃね……女の子には厳しいよね」
「……」
正直なところ、鈴はサブカルチャー研究部の部室には、それほど嫌悪感はなかった。むしろ、好きなアニメの設定資料集などが置いてあるのを見て、興味を抱いていたほどだった。彼女が入部しなかった理由は別の所にあった。
この高天津高校に入学した鈴と同じ中学校の知り合いは少なかった。この菊田を含めた数人といったところである。元々、鈴の地元から離れた場所にあるこの高校は、人気のある志望校ではなかったのだ。
この学校に入学してから、数人の気の合う友達はできたが、皆アニメとは縁遠い女の子達だった。彼女達との会話の中心となるのは、いわゆる女子力が必要とされる話題――おしゃれに流行のスイーツ、そして恋愛話。鈴もそういう話に興味がないわけではなかったが、ディープな趣味の話題で盛り上がりたいと思う時もあるのだ。
アニメという趣味を知られてしまったら、その子達はどういう反応をするのだろう? 今までと同じように接してくれるのだろうか? 鈴の最大の懸念はそこだった。アニメ鑑賞は個人の趣味として、誰に知れられることもなく続けることはできる。それで満足すべきなのだろうか?
美優を励ますように声をかけていた悠希が、菊田の姿を認めて話しかけてくる。
「おお、菊田ではないか」
「あ、ああ、来栖君。お疲れさま」
さすがの菊田も、この状況で悠希に話しかけられるのは困惑するようだ。引きつったような笑顔を浮かべている。周囲の人間には、元々オタクとして認知されているようだが、彼にも守りたい一線というものがあるのだろう。もちろん、鈴も周囲の人間にお仲間だと思われるのは避けたいところだった。そんな鈴の気持ちも知らずに、菊田が悠希に彼女を紹介する。
「そうだ、来栖君。彼女が田野倉鈴さん。例の、ウチに仮入部してくれた……」
「ほう、仮入部までしたということは、お前もサブカルチャーに興味があるのだろう? 入部はしないのか?」
「え? 私は……」
「来栖君、そんなふうに無理強いしちゃ駄目だよ。田野倉さんにだって都合があるんだから」
「……」
「そうか、なら仕方ないだろうな。ところで、どうだ菊田? 少しはオタクらしく見えるだろうか?」
「いやあ、ちょっとうかつに近寄れないくらいオタクになり切ってるよね……」
「いやいや、まだまだいけると思うのだが。オタクを演じるというのも奥が深いものがある」
「そ、そうかな? まあ、あまりやりすぎない程度がいいんじゃないかな?」
――どういうことだろう?
二人の会話を聞きながら鈴は困惑していた。
――オタクを演じてるって、来栖君は本当はアニメが好きではないということだろうか?
鈴は自分の中にわき上がる感情に戸惑った。それは怒りだった。アニメが好きでもないくせにこんな格好をしてどういうつもりなんだろう? オタクと呼ばれている人間を馬鹿にして面白がっているのだろうか?
「……そっ、それじゃあ、私行くから」
鈴は興味深く自分を見つめる悠希の表情を見て、初めて彼を睨みつけていることに気付いた。もちろん、この場で彼と言い争いをするつもりなどない。鈴は取り繕うように愛想笑いを浮かべて、その場を後にした。
足早に自分達の前から去っていく鈴の後ろ姿を見送る悠希。彼女の強い視線に自分に対する憤りを感じていた。他人の感情に疎い彼でも、怒りや嫉妬といった感情を向けられることには慣れているのだ。
しかし、鈴の怒りには自分に対する悪意というものは感じられなかった。それは、言うなれば義憤。自分の言動が、彼女の気に障ってしまったのだろう。その心の動きを悠希は知りたかった。
「なあ、菊田よ……」
「来栖君? どうしたの?」
「……いや、何でもない」
悠希は傍にいる菊田にそのヒントを求めようとした。しかし、すんでのところでそれを思いとどまった。菊田は鈴が怒っていたことにも気付いていないようだ。悠希は彼女の感情の動きを、自分の中で吟味すべき課題とすることにした。
校内を練り歩き、散々衆目を集めた悠希と美優は、休憩のために部室へと戻ることにした。
美優は人目から逃れるように部室に転がり込むと、部屋の隅で床にへたり込んだ。両手を床に付き、がっくりとうなだれている。何か大きなものを失ってしまったようだった。
栞那は美優の背中を覆い隠すように、肩から体育用のジャージを掛けてやった。どんな労いの言葉も軽いような気がしたが、一言声をかけずにはいられない。
「美優ちゃん、お疲れさま」
「……あり得ない、絶対にあり得ない」
同じ言葉を譫言のように繰り返す美優。ティーシャツの柄を隠そうと、ジャージをかき抱くような体勢になる。彼女のショックを表すように、その肩が小刻みに震えていた。
一方の悠希は平然と水分補給をしていた。ティーシャツの絵柄を誇示するように、堂々と胸を反らしてペットボトルの水を飲んでいる。
その痛々しい姿を見た閑崎と多嘉芝は、改めて息を呑んだ。特に他人の目を気にするタイプである閑崎はどん引きであった。隣にいる多嘉芝に青ざめた顔を向ける。
「なあ。これ、着てるのがお前だったら現行犯逮捕じゃねーか?」
「……せめて弁護士は呼べるんだろうな?」
「やだあっ! もうヤダっ! 帰るっ! おうち帰るっ!!」
駄々をこねる美優を多嘉芝が痛ましいものを見るような目で見た。付き合いの長い彼にとっても、このような幼い美優の態度を見るのは初めてのことだった。
「梅沢がここまでダメージを受けるとはな……」
「いやあ、俺はあいつの気持ち分かるね。俺ならほとぼりが冷めるまで登校拒否だな」
さすがの閑崎も美優に同情を禁じ得ないようだ。そして、恐ろしいものを見るような表情で悠希に視線を移す。
「んで、こいつは何でこんなに堂々としてるんだよ?」
「ここまで来ると特殊能力としか思えないな……」
「……」
悠希を見守る栞那の心境は複雑だった。彼のやる気に水を差してはいけない、そう思うのだ。しかし一方で、ズレた彼の認識を改めさせることも必要なのではないだろうか、という意識もある。そう、彼を守ることができるのは自分だけなのかもしれない。彼女は勇気を振り絞って、彼の自重を促す言葉を投げかけようと口を開く。
「あ、あの。悠希君……」
「三ツ瀬先輩、どうだ? 似合っているか?」
着ているティーシャツを指で摘んで、栞那に見えやすいように絵柄をのばす悠希。輝くような笑顔。その様子は、母親に褒めてもらいたくて仕方のない子供を思わせた。
「はいっ! 悠希君は何を着てもよく似合っていますっ!」
即答だった。その笑顔を曇らせることは栞那には到底できそうもなかった。彼女の讃辞に気をよくしたのか、悠希はさらにやる気を漲らせる。床から動かない美優の腕を取って立ち上がらせた。
「よし、美優。もう一回り行ってくるぞ。俺達がオタクだという認識を完全なものとする」
「ち、ちょっ? あんたっ、ふざけないでよ! もう一生分の恥ずかしい思いしたわよっ!!」
ジャージをはぎ取られ、悠希に引きずられるように部室を出ていく美優。もはや足を踏ん張って抵抗する力も残っていないようだ。悠希に向かって大声で悪態を叩いているせいで、余計に生徒達の注目を集めているのが哀れだった。部室に残された三人は、美優の心の傷が早く癒えることを心の底から願うのだった。