第七話 遠き日の思いと風評被害
本校舎と旧校舎をつなぐ渡り廊下。さして長くもない渡り廊下を歩く間にも、生徒会長の藤島芳弘は知り合いに呼び止められては相談や世間話に応じていた。彼の人付き合いの広さ、面倒見の良さが伺われる。
知人と挨拶を交わし、目的地の旧校舎へと向かう芳弘は練習上がりの来栖亜希良と遭遇した。亜希良はソフトボール部の練習着という姿だった。昨夜の雨でグラウンドコンディションがよくなかったのだろう、全身泥まみれで、泥の飛沫が顔までも汚していた。
このような日は、グラウンドの使用を避けて、筋トレなどに練習メニューを切り替える部が大多数だ。実際に今日の練習でグラウンドを使用していたのはソフトボール部だけだった。練習中の亜希良は泥遊びを楽しむかのように、グラウンドを駆け回っていた。
「あら、生徒会長」
亜希良は華やかに笑った。長い髪を束ねてポニーテイルにしている亜希良は、いつもの雰囲気とは異なり、活発な体育会系少女に見える。
リストバンドで頬を拭うのだが、泥がのびて余計に顔を汚してしまう。才能があるだけではない。彼女にはそんな天然な一面があり、それが人を惹き付けるのだ。
「聞いたところによると、あなた、わたくしの部にちょっかいを出しているらしいわね?」
もちろん彼女が言う『わたくしの部』というのは、エースで四番バッター、さらにはキャプテンをつとめるソフトボール部のことではない。
「君こそ。あまり身内が口を出すと、あの年頃の男子は反発してしまうんじゃないのか」
「ふふっ、弟を弄ぶのは姉の権利であり義務であり、責任でしょう?」
「まあ、来栖家の作法に口を出す気はないけど、彼も大変だな」
「あの部で遊ぶのはかまわないけど、わたくしより楽しんでいるのが気に入らないのよね。アレを使いたかったら、わたくしの許可を取ってからにしなさいな」
警告めいた言葉と共に、亜希良は芳弘の傍らを通り過ぎた。すれ違い、お互いに反対方向に歩き出す二人だったが、亜希良が思い直したように芳弘を呼び止めた。
「あの男……どうしていた?」
その呼びかけには彼女の逡巡が込められていた。普段の彼女を知っている者にとっては違和感のある雰囲気だった。
芳弘は振り返り、亜希良の姿を見た。亜希良は背中をこちらに向けているため、その表情を知ることはできない。亜希良はそのままの姿勢で、問いかけだけを芳弘に向けていた。
「春休み、帰ってきていたのでしょう?」
「ふっ、『帰ってきていた』か。君にとっても、あいつはまだこちら側の人間なんだな」
「……体の具合は?」
「気になるなら君も来ればよかっただろう? 雛子が誘ったはずだが」
「……」
「……年末の怪我なんて、とっくに完治しているさ。元気すぎるくらい元気だったよ」
「そう、だったらいいのよ。ごめんなさい、つまらないことを聞いたわね」
亜希良は足早にその場を去った。結局その話題の間、彼女は一度も芳弘に表情を見せることはなかった。
旧校舎、今は文化部の部室等として使われている建物の三階。帝王学研究部の部室はその一角にあった。騒々しい声がドア越しに聞こえている。中に誰かがいるのは分かり切っていたのだが、芳弘のノックに応える声はなかった。芳弘がドアを開け室内に入ると、長机を挟んで顔を付き合わせるようにして何かを議論していた部員達の視線が、一斉に彼に注がれた。彼を一瞥しただけで議論に戻る者、舌打ちをする者、何度もぺこぺこと頭を下げる者、礼儀正しい挨拶をしてくる者、それぞれの反応で芳弘を出迎える。
一人だけ議論に加わらず、所在なさげに悠希の傍らに立っていた女子生徒が、芳弘の姿を認めて詰め寄って来た。帝王学研究部唯一の二年生である三ツ瀬栞那だ。
「かっ、会長っ、どうしてくれるんですかっ? 会長のせいで私、さらし者じゃないですかっ!?」
「どうしたんだ、三ツ瀬さん? 少し落ち着いてくれ」
「あれから私の議題でずうっと盛り上がっているんですよ?」
「あれからって、もう三日も経つのにか?」
「どうして会話に加われないのか、私の生い立ちから聞き取り調査をされて、皆がそれを分析して原因を探ってるんですっ!? 今、小学校六年生まできました」
「……それは、徹底しているな」
芳弘に文句を言いながらも、畳んであったパイプ椅子を彼のために用意して座らせたり、紅茶を淹れて振る舞ったりと、せっせと働いてしまう栞那であった。
議論はなかなか良い解決策を得られず停滞していた。美優が男子部員達を見回しながら、投げやりな調子で意見を出す。
「栞那先輩のことについてばかり話しているけど、私はあんた達に原因があるんだと思ってる」
「なんだと? 三ツ瀬先輩が話に加われないのはこいつらに問題があるというのか?」
閑崎と多嘉芝を見やりながら悠希が驚いた表情を見せた。あまりにも自然に自らを除外してしまう悠希に、美優は思わずイラっとしてしまう。
「あんた達よ、分かる? あ・ん・た・た・ち」
美優が悠希の鼻先に人差し指を突きつけながら念を押した。その指を手で払い除けながら悠希が反論する。
「俺達にどんな問題があるというのだ?」
「問題だらけでいちいち指摘する気にもならないわね」
美優は芳弘に目を付けると、面倒くさそうに話しを振った。
「そこの陰険メガネ、何を呑気にお茶なんて飲んでるのよ。少し意見を出して行きなさいよ」
「い、陰険メガネ……梅沢君、口が悪いなあ。まあいい、そんな議題よりも、新しい相談が来ているんだが、こちらを片づけてもらえないか?」
栞那への助け船も兼ねて、芳弘が下級生達の議論に割って入った。
「そんな議題ってどういうことですかっ? 私にとっては大事なことなんですよ!?」
「……君はさらし者になりたいのか、なりたくないのか、どっちなんだ?」
何故か抗議の声をあげる栞那に戸惑いながら、芳弘は生徒会に寄せられた相談が書かれた用紙を長机の上に投げ出した。
悠希が顎を使って美優に偉そうな指示を送る。
「美優、読んでみろ」
「はいはい。ええと、サブカルチャー研究部? ――からの相談ね。部員が集まらなくて困っている。新入部員が入らないと廃部になってしまうらしいわね」
「でもよお、サブカル研って、ただ集まってマンガやアニメやゲームの話をしてるような部なんだろ? 廃部になっても構わないんじゃねーか?」
閑崎が噂で聞いたサブカルチャー研究部の実態を披露した。
「ところが文化祭などでは、質の高い自作アニメーションを制作するようなスキルがある。それが目的で訪れる他校の生徒がいるくらいだ」
「ふむ、好きこそ物の上手なれ、ということか」
芳弘の追加情報を聞いた多嘉芝が感心して呟いた。
「生徒会では部員集めの面倒までは見きれない。そこで、短期間で部員を集めた実績のある、この帝王学研究部の優秀さを思い出したんだ。この部なら問題を解決してくれると期待している」
「……悪知恵が働くだけの小物だと思っていたが、なかなか分かっているではないか、生徒会長」
芳弘からの評価を受け、早くも帝王学研究会の威信が増してきたと満足する悠希。
「こいつ、悠希の扱い方が巧いわね」
美優は嫌そうな顔で呟いた。黙って話を聞いていた多嘉芝は、サブカル研の部員達に同情したのか依頼を引き受けることに乗り気になっている。
「わざわざ生徒会に相談まで持ちかけているんだ。他者にとっては理解できなくても、本人達にしてみれば大切な部活なんだろうな。そういう居場所を失ってしまうというのは気の毒な話だ。来栖、何とかしてやれないか?」
「お前、目ぇ瞑って、声と言う事だけ聞いてたら、マジでイケメンに思えてきちゃうなあ」
多嘉芝に対して、誉めているのか貶しているのか判断できない感想を口にする閑崎。
「そうねえ、そこに箭野先輩も惹かれたのかもしれないわね」
美優は閑崎の感想に同意するが、箭野鏡子の名前を出したとたんに閑崎の体が小刻みに震え始めたのを見て、強引に話題を変える。この話題は閑崎の精神への負荷が大きすぎるようだ。
「で、でっ? どうするの悠希? この案件、引き受けるのかしら?」
「まあよかろう。教えを下々に説いて回るというのも、上に立つ者の義務というものだろう。俺の人材収集のノウハウを伝授してやるとするか」
「実際に勧誘をしていてたのは梅沢だろう……」
多嘉芝があきれたように呟くが、当の美優の方は素知らぬ顔だ。自信満々に突っ走る悠希と悪態をつきながらもサポートに徹する美優、それがいつもの二人の関係だった。
サブカルチャー研究部の部室は帝王学研究部と同じく文化部の部室棟三階にあった。さっそく詳しい話しを聞くためにその部室を訪れた帝王学研究部一同だったが、ドアをノックする前に議論が始まってしまう。議題はサブカル研の部室のドアに貼られていた一枚のポスターの印象についてというものだった。
そのポスターを見た悠希以外の面々は、異口同音に「うわあ……」と何とも複雑な声をあげた。そんな部員達を振り返って、悠希が不思議そうな表情で首を傾げる。
「この絵がどうしたというんだ?」
「あんた、何も思わないわけ? いい歳した男が、こんな小さな女の子の水着姿を見て喜んでるなんて、気持ち悪いじゃないの」
美優の容赦のない意見が飛ぶ。
ポスターに描かれているキャラクターは、最近ヒットした魔法少女同士の戦いを描いた深夜アニメの登場人物である。どう見ても小学生くらいの年齢にしか見えない女の子二人が、スクール水着姿で手を取り合っているという構図のイラストだった。美優がバンバンとポスターの上からドアを掌で叩きながら悠希に質問を投げ返す。
「あんたこそ、率直な意見を言ってみなさいよ。この絵を見てどう思うの?」
「うーん、感想と言われてもな……この女子は頭が大きすぎて前開きのシャツしか着られないんじゃないのか?」
「他に?」
「ほ、他か? 頭が大きすぎて、すぐに転んでしまうんじゃないだろうか?」
「他っ!」
「首が折れてしまいそうだな。頭が大きすぎて」
「全部頭の大きさの話じゃねーか……どんだけ気になったんだよ」
閑崎があきれたように呟いた。悠希の感想を聞いていた栞那は不安そうな表情だ。
「悠希君は頭の小さな女性が好きなんでしょうか?」
「いやあ、そういう話ではないと思います」
真面目な多嘉芝が栞那の勘違いを律儀に訂正した。悠希は美優以外の部員達を見回しながら確認する。
「お前達も美優と同じ印象なのか?」
表現には違いがあるものの、全員がほぼ同じ見解を示した。周りからの評価に左右されやすい閑崎などは苦々しい表情だ。
「まあ、こんなのが好きだと堂々と言ったら、周りから白い目で見られるわな」
その時、サブカルチャー研究部の部室のドアが開いて、男子生徒が姿を現した。学ランの襟部分には三年生を示すバッジが輝いている。背がひょろりと高くて、分厚い黒縁メガネをしたその男子生徒が甲高い声で不満を漏らす。
「ウチの部に新入部員が入らないのは、そんな心ない、オタクへの風評被害が原因なのだよ」
彼こそが生徒会に部員確保についての相談をしてきたサブカルチャー研究部の部長、最上敏志だった。