第六話 友情の崩壊と策謀
帝王学研究部の設立準備も部員の確保が終了し、あとは署名用紙を生徒会に提出するだけとなった。部室内は和気藹々とした雰囲気で満たされていた。特に閑崎と多嘉芝の新入生同士は気があったようで、お互いのプライベートの話題で盛り上がっている。
第三者からしてみるとくだらない会話ではあったが、気が合うもの同士は、そういう内容の方が盛り上がるものだ。違う中学校に在学していた二人だが、共通の知人の話題などで話に花を咲かせていた。
「お前らの中学に二年の箭野先輩いたんだろう? 知らないか? 二年の中じゃ一二を争う美人と言われてる弓道部のエース」
女の子の話題となると饒舌になる閑崎は、多嘉芝の返事も聞かずにまくし立てる。
「いやあ、大和撫子って感じでいいよなあ。すらっと背が高くてスレンダーで。ああいう彼女が欲しいぜ、なあ」
「……あのな、ヒマジン――」
「お前もあんな中学時代じゃ女の子と全く縁がなかっただろ? お互いに頑張って可愛い彼女作って、バラ色の高校生活を満喫しようぜ!」
閑崎は希望に満ちた表情で多嘉芝に笑いかける。その時、部室のドアがノックされた。美優の「どうぞ」という呼びかけに姿を現したのは、切りそろえられた真っ直ぐなロングヘアーの黒髪が印象的な女子生徒だった。切れ長の涼しげな瞳。凛とした雰囲気のある美少女だった。
「ああっ!? 箭野先輩っ!」
色めき立った閑崎が机に足を打ち付けながら立ち上がる。机の上のティーセットが騒がしい音を立てた。箭野鏡子はその呼びかけを無視して、まっすぐに多嘉芝の側に移動した。
「誠君、大丈夫?」
「どうしたんだ、鏡子? 大丈夫か、とはどういうことだ?」
「誠君がここに連れ込まれたって友達が教えてくれたのよ。この集まりはあまりいい噂を聞かないから……」
「突然押しかけてきた上に、そんな物言いは失礼だろう?」
「でも、誠君――」
「鏡子、君は噂なんかを真に受けて俺の友達を悪く言うのか?」
「いえ、梅沢さんのことを悪く言うつもりはないの」
「彼女だけじゃない。俺はこの部に入部することになったんだ。梅沢の頼みという形だったけど、話を聞いてみて悪い部じゃないと思えたからな。気の合う友達もできたし、部員は俺の仲間ということになる。そんな人達のことを噂なんかを根拠に悪く言われるのは愉快じゃない」
「誠君が、この部に?」
「それに、ここの部員はほとんどが一年生だ。見知らぬ上級生が突然やって来て、自分達のことをどうこう言ったら萎縮してしまうに決まってるだろう」
多嘉芝は石像のように身動きをしなくなった閑崎を見やりながら鏡子を咎めた。多嘉芝は知らない。閑崎が沈黙したのは萎縮したわけではなく、自分が信じたくない光景を目にして脳のブレーカーを落としてしまったのだということを。
「ごめんなさい。私、誠さんのことが心配で……」
「俺のことを心配してくれるのは嬉しい。だが、君には噂なんかに振り回されて人のことを悪く言うような人間になってほしくないんだ。それに、謝る相手が違うんじゃないのか?」
「ごめんなさい、皆さん。お騒がせして申し訳ありません」
箭野鏡子は素直に下級生達に向かって頭を下げた。
「三ツ瀬さんも、ごめんなさいね。あなた達のことを悪く言うつもりはなかったの」
「い、いえ、わたしは全然気にしてませんから」
「ちょっと、多嘉芝。誘っておいて何だけど、この部が胡散臭いのは事実だから。あまり箭野先輩に強く言わないであげて」
「多嘉芝よ。彼女はお前のことが本当に大切なのだろう。この帝王学研究部の素晴らしさは、これから知ってもらえばいい。いや、いずれ嫌でもその名声を心に刻むときが来る」
美優と悠希が取りなすように言った。
「すまない、見苦しいところを見せてしまったな」
多嘉芝は一同に謝すると、しょんぼりと顔を伏せる鏡子に向き直った。
「鏡子、部活は?」
「え? 今日の練習はお休みだけど……」
「そうか。来栖、部活に参加するのは明日からでいいか? 今日はこいつを送っていくよ」
「ああ、構わないぞ。明日からよろしく頼む」
「あっ、多嘉芝。これだけお願いっ」
美優は部室を出ていこうとする多嘉芝に部員名簿を差し出した。多嘉芝が閑崎の名前の下に署名を入れる。これで生徒会に提出する書類が完成したことになる。
多嘉芝と箭野鏡子が出ていった部室には三人の部員と一体の石像が残された。部室内に屹立した石像からひび割れたような声がする。
「ね、ねえ……あれ、なあに? どういうこと?」
美優が何でもないことのように石像の質問に答える。
「ああ、あの二人、中学生の頃から付き合ってるから」
「……」
「箭野先輩が中学を卒業するときに多嘉芝に告白したのよ。ずっとあいつのことが好きだったんだって。やっぱり男は中身なのかしらねえ」
閑崎はピクリとも反応を示さず、美優の説明が聞こえているのかどうか疑問であった。目を大きく見開いたまま、長机の一点を見つめている。呼吸をしているのかすら定かではない状態だった。
「……んじゃそりゃ……」
噛みしめた歯の奥から漏れ出る怨嗟の声。
「なんじゃそりゃ! なんじゃそりゃっ!! なんじゃそりゃああぁぁあああぁっ!!!?」
天を仰いでの絶叫。突然の狂態に驚いた悠希が弾かれたように立ち上がり、美優と栞那は部室内を右往左往しながら閑崎から距離を取った。部室の隅で身を寄せ合う二人の女子部員。悠希が彼女達を守るようにその前に立ちはだかった。
静かになった閑崎は、糸が切れた操り人形のようにストンとパイプ倚子に腰を落とした。魂が抜け落ちたかのようなその虚ろな目は何も映してないように見える。
「お、おい、ヒマジン?」
悠希にしては珍しい遠慮がちな呼びかけ。それに応じることもなく、閑崎は長机の上に突っ伏した。
「うわあああぁああああぁあぁああ――」
それは聞く者の胸を押しつぶすような慟哭だった。閑崎はそれから五分もの間、声を上げて泣き続けた。時折、魂の叫びを思わせるような嗚咽混じりの言葉が洩れている。そのほとんどが支離滅裂なものであったが、『裏切り者』という単語だけが意味を成す言葉として聞き取ることができた。
悠希達は部室の隅でただ身をすくめながらその様子を眺めていた。声を上げることすらできなかった。これほどの絶望を帯びた人の泣き声を聞いたことがなかったからだ。部室内の空気が震えているように感じる。
いつまでも続くかと思われた悲しみの発露も、少しずつ波が小さくなり、収まっていく。三人は固唾を呑んでその終息を祈った。
「グスッ……うら、ぎりもの……う、ら、ぎり……ものぉ……」
閑崎の肩の震えが小さくなっていくのを見計らい、美優が恐る恐る呼びかける。
「ね、ねえ、ヒマジン。元気出しなさいよ。あんたにもいつか彼女ができるわよ」
「……いつかって、いつ?」
「そうね――今世紀中?」
「……今世紀って、あと八十年以上あるよね?」
閑崎の肩が再び震え始めるのを見て、悠希が慌てて美優をたしなめる。
「おっ、おい、美優。いくらヒマジン相手とはいえ、こんな状態の人間にいつもの攻撃は酷と言うものだぞ。少しは手加減してやってくれ」
「そっ、そうよね。ごめんなさい、つい……」
「もういい、もういいよっ! 下手に気を使われると余計惨めになるんだよっ! 同情するくらいなら俺の彼女になってくれ! そして一緒にお風呂に入ってくれっ!」
「……こいつ、最悪ね」
「くっそう! 絶交だ。もう多嘉芝とは絶交だかんねっ!!」
「……ずいぶん早い友情の崩壊だったな。庶民の友情とは三十分も保たないものなのか?」
「あいつとは仲良くできると思ったのにっ! 俺より先に彼女ができるわけないと思ってたから、ずうっと仲良くできると思ったのに! 魂のセーフティーネットだと思ってたのに!!」
「……私、もうヒマジン君と普通に接する自信がありません」
俗塵にまみれた男のむき出しの本音に触れて栞那がおののいた。
「でも、考えてみたら俺にとっても朗報だよな。男の見てくれなんてどうでもいいって天使みたいな女の子も存在するってことだもんな!」
「あんたって本当に無駄に前向きよね……」
見てくれじゃなく中身を恋人選びの基準にしたら、閑崎は真っ先に脱落してしまうだろう。悠希達三人は一様にそう考えたのだが、さすがに今はそれを口に出す者はいなかった。
一旦は立ち直った閑崎であったが、受けた傷は大きく、今日は心を癒したいと言い残して帰宅してしまった。残った三人は部員名簿を提出するために、生徒会室へと向かった。栞那は遠慮したのだが、一応唯一の上級生ということもあり、美優が同行を願い出たのだ。
校舎三階の生徒会室にいたのは生徒会長の藤島芳弘だけだった。夕闇で薄暗い、さして広くない生徒会室。芳弘は生徒会に提出された書類に目を通していたが、その仕事を中断して三人の訪問に応対した。
「ちゃんと部員を集めることができたようだな」
「ふん、我が威光をもってすれば当然の結果だ」
「なかなか苦戦していたようだし、正直心配だったんだ」
「心配だと? どういうことだ?」
悠希は芳弘の言ったことに違和感を覚えた。帝王学研究部の部員集めの成否など、彼や生徒会には関係がないはずだった。
「生徒会には全校生徒からの悩みや苦情が寄せられるんだが、個人的な問題や各部活動の内々の事情を相談してくる生徒も多いんだ。それはさすがに生徒会の領分ではない。しかし、無碍に扱うわけにもいかないだろう?」
「その話が何だというんだ?」
芳弘の意図が分からず悠希が眉をひそめる。
「そういう生徒会向けではない相談を帝王学研究部に任せることにしたんだ。生徒会からの依頼という形で、何とか解決してほしい。だから君達の部の設立がうまくいかないと、こちらとしても困るんだ」
「……我が部を生徒会の下請けにでもしようと言うのか? そんなことを引き受けた覚えはない」
「部活動設立の申請用紙、君が提出したこの書類にはそう書いてあるが」
「何をふざけたことを……」
芳弘の手から書類を奪い取ると、書面の活動内容の欄を確認する。確かに生徒会からの依頼を引き受ける旨が書かれてある。だが、その文字は明らかに悠希や美優の筆跡ではなかった。
「勝手に内容を書き換えるとは、どういうつもりだ?」
「勝手に、ではないよ。思い出してくれ。その書類を提出するとき、君はこう言っただろう? 書面は書き換えてもかまわない、と」
悠希は言葉を詰まらせ黙り込んだ。確かに話の流れでそのようなことを言った憶えがある。それは、言葉の文というものだったが、藤島芳弘に申請書の提出を託してしまったことは事実だった。
「梅沢君、君も憶えているだろう? 来栖悠希は確かにそう言った、違うか?」
「……これは意趣返しというやつですか? 生意気で無礼な新入生を下につけて、生徒会の権威を見せつけようとでも?」
苦し紛れに論点を逸らした美優の返答は歯切れが悪い。
「ウチの生徒会に権威なんてものはないよ。あるとするなら人手不足だ。三年生は受験を控えているからね」
「……」
「それとも、来栖の御曹司ともあろう者が、都合が悪くなったからといって、大切なことを他人任せにした責任を放棄しようというのかな?」
黙り込んだ二人に対して芳弘はさらに追い込みをかけた。このような言い方をされては、負けず嫌いの二人は言い訳をしにくくなる。
「ふん、面白味のないただの優等生だと思っていたが、とんだ食わせ者だったということか。さすがに姉上を破って生徒会長に就任しただけのことはある」
「そんな評価をいただけるのは面映ゆいが、俺は彼女とは人種が違うよ。俺なんて君の姉さんのように奔放で破天荒な魅力を持つ人間に憧れて、真似をしているだけのただの凡人なのさ」
藤島芳弘はそう自分を評価する。諦観にも似た自己分析。
だが悠希は思うのだ。そこまで自分を客観的に見ることができて、自らを律することができる自制心をも備えている。そのような人物を非凡と言うのではないのだろうかと。
「では、さっそく生徒からの悩みが寄せられている。これを君達で解決してくれないか?」
「……まだ、引き受けると返事をしていないぞ」
「俺のやり口をどう受け取るかはともかく、これは君達が解決すべき案件だと思うんだが……」
芳弘が手にとった書類の中から一枚を抜き出し、悠希に差し出した。悠希が受け取った便箋を隣の美優がのぞき込む。冒頭には二年二組、三ツ瀬栞那という名前。丁寧な文字で、小さく遠慮がちに以下のような内容が書かれていた。
――部活に入ったのですが、部員が下級生ばかりでなかなか話に加わることができません。疎外感を感じないようにするにはどうしたらいいでしょう?
悠希と美優は能面のような無表情で振り返り、背後に控えていた栞那を無言で見つめた。
栞那は握った拳を体の横で振りながら、真っ赤な顔で抗議の声を上げる。
「かっ、会長! どうしてバラしちゃうんですかっ!? 酷いですっ! こっ、個人情報の取り扱いはどうなってるんですかっ!?」
「そう言われても、生徒会だって暇じゃないんだ。こういうことは本人達に直接言って何とかしてもらうのが早いんじゃないか?」
栞那に詰め寄られて、さすがの芳弘も困惑顔だ。悠希と美優はいたたまれなさに、ただ顔を熱くして俯くだけだった。
「ちゃんと書きましたよねっ!? 匿名希望って書いてありますよねっ!?」
「……三ツ瀬先輩」
「……はい」
「こういうことは、俺達に直接言ってくれ。外部の人間から聞かされるとやりきれなくなってくる」
「ごっ、ごめんなさぁい……」
「まあ、栞那先輩の気持ちもよく分かるんだけどね。ヒマジンが加わって騒がしくなったし、さらに増えたのがあの多嘉芝ですもんね。普通の感覚の人だと気後れしてしまうほど濃い奴らばかりだもの」
閑崎が加わってからは、悠希と美優との三人だったころとは比べものにならないほど栞那の口数が減っていた。上級生下級生の壁というよりは、テンポや内容についていけないのだろう。
「……そうか、その通りだな」
悠希と美優は部員達の顔を思い浮かべて、これからの苦労を想像し、苦い表情になる。当然、その中に本人達の顔は含まれていないのだから、栞那の苦労はそれ以上ということになるだろう。
「わかった。生徒会からの依頼を受ける件は了承してもよい」
悠希は眉間のあたりを親指で押さえながら芳弘に言った。悠希には、押し問答でそれを拒むだけの気力もなくなっていた。栞那の悩みが暴露されたことで毒気を抜かれてしまったのかもしれない。
「ちょっと、本気なの?」
美優がその決断に難色を示す。彼女にとっては実際に依頼を引き受けることよりも、藤島芳弘の悪巧みにしてやられるという経緯が受け入れ難かったのだ。
「多嘉芝が言っていただろう、人の役に立つ活動を部活に取り入れてくれと。その要望に応える手段として最適ではないか」
「それは……そうだけど」
「それに、いい勉強をさせてもらった。大切な書類は他人任せにせずに自分で提出する、この教訓が俺の帝王学の第一歩ということだ!」
「わかったわよ! じゃあ、早速明日は部活でこの議題を取り上げましょう」
美優はやけくそな気分で言い放った。彼女が手にしているのは栞那が生徒会に投書した例の便箋だった。栞那は部室で下級生に囲まれ、議題の中心にされている自分を想像し、涙目になった。