第二話 招かれざる名誉部長
文化部の部室棟は学校の敷地内の片隅にある旧校舎を再利用したものだった。高天津高校の文化部は運動部に比べて目立った実績がないため、設備などの待遇に差があるのだ。運動部にはグラウンドの側に第一部室棟が、体育館の側に第二部室棟がそれぞれ与えられている。
旧校舎は年季が入った建物である上に、帝王学研究部が与えられた部屋は長い間物置として使われていたため、使用するには入念な清掃が必要だった。この日は悠希の発案によって部室の掃除を行うことになっていた。
美優を引き連れるようにして歩く悠希の手には、当然掃除用具などというものはない。普段は何かと悠希に対して手厳しい美優もそのあたりは心得たもので、手ぶらで掃除に向かう間抜けさに何も意見を挟まなかった。主家の御曹司の衣服を埃まみれにするなど、メイドとして恥だという意識があったからだ。
「ここが我が居城となるのか。今はただの薄汚れた部屋だが、俺の輝かしい実績とともに、『始まりの場所』として価値のある名所となるだろう」
部室の前で感慨に耽る悠希を無視して美優はドアを開けた。埃が舞い上がるのを警戒していたのだが、それは杞憂に終わった。代わりに彼女を出迎えたのは、むせ返るような花の香りだった。
元々資料室として使われていたその部屋はそれほど広いものではなかった。昨日、下見をしたときに積み上げられていた段ボール箱やゴミと見間違うような資料の山などは姿を消し、部屋は今すぐにでも使えそうなほど綺麗に片付いていた。
中央には向かい合わせに並べられた二つの長机と八つのパイプ倚子。異様だったのは部屋の床一面に色とりどりの切り花が敷き詰められていたことだ。一見すると花畑の中に長机が置かれているように見える。
そして窓際には立派なデスクが、その場に君臨するように設置されていた。
デスクの倚子には夕日に照らし出される人影。こちらに背を向ける格好で女子生徒が座っている。緩やかに波打つ長い髪。美優はその人物の正体を察しながらも、逆光に目を凝らしながら確認した。
「……亜希良様?」
「ご苦労様、美優。愚弟のお守りなんてさせてしまって悪いわね」
砂糖菓子のように甘い声。亜希良と呼ばれた女子生徒は座っていた倚子ごと入り口に向き直る。芝居がかった動きが様になっていた。
とろんと下がった目尻と輪郭の強い眉。他者を魅惑する甘美さと意志の強さを併せ持つ、不思議な存在感のある美少女だった。
だが、彼女が人目を引くのはその存在感だけではなかった。組まれた腕に抱えられるように屹立する胸の隆起。彼女が常に傲然と胸を張っていることもあり、推定サイズ九十六センチとも噂される彼女の双丘は見る者を――特に男子生徒を圧倒した。
「姉上……」
美優の背後からかけられる悠希の声は苦い。
来栖亜希良、来栖本家の長女にして悠希の二歳年上の姉。弟への奇襲に成功した彼女は満足そうに優美な笑顔を見せた。
「どういうことですか、この部屋の有様は?」
「ええ、人にお願いしてセッティングしてもらったのよ。お掃除をする手間が省けてよかったでしょう?」
「この悪趣味な演出のことを言っているのです」
「まあ、酷い。親愛なる弟の門出を祝おうと趣向を凝らしてみたというのに、お気に召さなかったかしら?」
「ここは俺の部室です。余計な手出しは止めてください」
「あなたの部室? 何か勘違いをしているようだけど、ここは来栖家の所有地ではないのよ。しかも実際に掃除をするのは美優だったはずでしょう? 学校というコミュニティはね、命令するだけの人間が何かを得られるような場所ではないのよ。憶えておきなさい」
「……」
「愛しいお姉様からのささやかなプレゼントとして受け取っておきなさいな」
「ありがとうございます、亜希良様」
黙り込んだ悠希に代わって美優が頭を下げる。傲慢にして不遜、尊大にして驕傲、いつもの姉弟のやり取りだった。悠希は昔からこの姉を苦手としているので、二人の会話時にはそれとなく彼をフォローするのが美優の役割となっていた。
「部員集めは上手くいきそう?」
「姉上が心配するようなことはありません。ご用件はそれだけですか?」
「あらあら、悠希ったら反抗期なのかしら? わたくし、そんなに迷惑だった?」
困ったように眉尻を下げる亜希良だったが、その声は弾んでいる。美優は雌ライオンが子犬にじゃれつく光景を連想した。甘噛みも子犬にとっては致命傷となりかねない。
「……いえ、そういうわけでは」
「そう、だったらわたくしもこの楽しそうな部に参加してみようかしら」
「入部なさるというのですか!?」
うろたえた悠希が思わず助けを求めるように美優を見やる。この姉と対峙するときだけは弱腰になる悠希だった。美優は内心でため息をつきながら会話に加わった。
「亜希良様はソフトボール部の活動がお忙しいのでは? それに帝王学研究部に入部するということは、部長である悠希の下に付くということになりますが」
「そうね、千尋に怒られちゃうか。それに、わたくしが悠希の下に付いたとしても意味はないのよね。集団というものは優れたリーダーを求めるものだもの。結局はわたくしがトップに担ぎ上げられてしまうでしょうね。可愛い弟の面子を潰すわけにはいかないわよね」
亜希良は立てた人差し指を顎に添え、流し目で二人を見やりながら、芝居がかった口調でつぶやいた。独り言めいてはいるが、明らかに二人に聞かせる為の寸劇だ。悠希と美優は嫌な予感しかしなかった。勝手な理屈を並べ立て、その後に自分の要求を突きつける亜希良の交渉術を熟知していたからだ。
「だったらこうしましょうか。わたくしの名義を帝王学研究部にお貸しします。そうね、名誉部長なんて役職はどうかしら? わたくしは時々顔を出すけど、部の活動方針はあなた達に任せます。それでいいわよね?」
亜希良が提示した条件は要求ですらなかった。一人で結論をまとめると、二人の返事を聞く前に出口へと向かう。 飾り気のないシンプルなセーラー服。規格外のバストを見目良く収めるための彼女の制服はオーダーメイドであった。既製品では胸部に布地が引っ張られて腹部が丸出しになってしまうのだ。
ドアを閉める直線、いかにも言い忘れていたことを思い出したかのように冗談めかして付け加える。
「さっそく藤島とやりあったようだけど、せいぜい生徒会を困らせてあげましょうね。ふふっ、楽しみだわ」
悠希と美優は一言も差し挟めないまま、ヒラヒラと手を振る亜希良を見送った。間の抜けた沈黙の中、二人はばつが悪そうにお互いの顔を見やる。
美優が諦めたようなため息をついた。
「まあ、この辺りで妥協しなさいよね。あの方に完全に呑まれてしまったら自由なんて無くなってしまうんだから」
「……わかっている。しかし、何が生徒会を困らせるだ。まだ生徒会選挙で藤島芳弘に負けたのを根に持っているのか?」
「そこまで狭量な人じゃないと思うけど、まるっきりの冗談にも聞こえないのよね」
昨年の高天津高校生徒会選挙には二人の候補者が立候補した。来栖亜希良と藤島芳弘だ。
学内で圧倒的な影響力を持つ亜希良であったが、その反面反感を抱く生徒も少なくなかった。主義主張が派手で極端過ぎたためだ。芳弘はあえて平凡でありながらも堅実な選挙公約を打ち出し、彼女の反対勢力を味方に付けた。そして、過激な変革よりも穏やかな愛校精神をスローガンに、浮遊票を着実に取り込んでいった。
最終的にはその策が功を奏し、僅差ではありながらも来栖亜希良というカリスマに土を付けることに成功したのだ。
亜希良が生徒会長に当選していたら、悠希はこの高天津高校に入学することはなかっただろう。そういう意味では藤島芳弘の勝利は彼にとっても僥倖と言えた。
「埃まみれにはならなかったけど……」
床に敷き詰められた切り花を花瓶に生け替えるのは、もちろん美優の役割だった。狭い部室の中、陽の光が当たらない場所を選んで並べられた花瓶の数は合計十二瓶。彼女が持ち込んだ掃除道具は部屋中に散らばった葉屑を片付けるために有効に使われたのだった。