* 霧を抜けて
霧を抜けて 橋を渡る。
わたしは幾度だって駆けつける。
呼ばれる限り、応えつづける。
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「いいよ。遊んでやる」
少年のフィルガは凶暴な想いを押し殺すようにして、シィーラの使いで来たと言う獣の子を見下ろす。
””何して遊ぼうか、フィルガ?””
長い尻尾をふさふさと左右に振りながら、赤毛の獣はその場で跳ね上がった。
その無邪気な様子がまた、癪に障るようだった。
ディーナはその強い愛憎入り混じる、フィルガの意識に巻かれざるを得なかった。
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自分を置いて出て行った母親の事を、今更持ち出してきた。
あれから何年経ったと思っているのだ。
八年。
八年だ!
霧の向こうに呼びかけても還らない後姿ばかりが浮かぶ。
「オマエはどこから来たんだ、赤毛の?」
””橋の、霧の向こう””
何のためらいも無い、その答えにフィルガは一瞬、言葉を失う。
それでも務めて平静を装いながら、なおも尋ねた。
「そこにシィーラもいるのか?」
””うん、そう。シィーラとね、橋のたもとで会ったの。だから訊いたの。シィーラ、赤ちゃん置いてきちゃったのって。泣いているのに、置いてきちゃたのって””
それは今から何年前の話をしているのだろうか。
しかし目の前の獣の子は、まるでつい先程の出来事のように語っている。
実際、この生き物にしてみたらそのような感覚なのだろう。
改めて、獣と人との間に流れる時というものの差を思い知らされる。
それはシィーラにとっても同じで、自分はいつまでも泣いている子供のままだという事か。
「もう、泣いてなどいない」
””え? なあに?””
感情を押し殺したまま、思わずもらした呟きは獣の耳であっても聞き取りにくいほど、か細かったようだ。
「オマエの名前は何ていうのだ?」
””何だろう?””
獣の子は小首を傾げて尋ね返してきた。
「じゃあ、オマエはディ・ルーマだ」
時にも縛られず、名にも縛られない獣の子に制限を与えてやりたいと願った。
だから名付けた。
ディ・ルーマと。
””ディ・ルーマ? それがわたしの名前なの!””
「そうだ。ディ・ルーマ。俺が名を呼べばオマエはどこにいたって、俺の声が届くんだ」
””ふふふ! 私の名前はディ・ルーマ!””
嬉しげに跳ね回る獣の子は、その場でフィルガの配下に置かれた事にも気が付かなかった。
誰かが、自分に仇なすなんて、最初から思いもしないのだから当然といえば当然だった。
「じゃあ、ディ・ルーマ。神殿に行って宝物殿にある、宝玉を盗っておいで」
””宝玉って何?””
「綺麗に光る珠の事だよ。それは透明でいて、淡く光を放っているそうだから、きっと迷わない」
””それ、どうするの?””
「それでディ・ルーマを造り変えてみようと思う」
””造り返る?””
「俺と同じように二つ足で立って、俺と同じような目線であれるようにするのさ。いい考えだろう?」
””そうだね。面白そう! 私もフィルガみたいになれたら、もっと一緒にいられるね””
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それから蘇るのは血にまみれた記憶だけ。
神殿に侵入した獣は聖句を浴びせられ、逃げようともがいた。
聖句になかなか屈しない獣に、神殿の者の太刀が振り下ろされた所までは思い出せる。
右脚を酷く痛めつけられて、逃げ出せなくなって。
それから、どうなったのだろう?
ただ、冷たい石造りの床に身を横たえて、人々の靴先だけが瞳に映っていた。
フ ィ ル ガ 。
最期にディ・ルーマはそう呼んだのは間違いが無い。
だって、フィルガは言っていた。
俺が名を呼べばオマエはどこにいたって、俺の声が届くんだ。
じ ゃ あ 、わ た し が 呼 ん で も 届 く の か し ら ?
耳を澄ます。
やがて聞こえるのは自分のか細くなって行く、呼吸音だけ。
それもやがては途絶えて、辺りを静寂がつつむ。
彼はそれきり、二度とディ・ルーマの名前を呼ぶことは無かったのだと思う。
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『愛しい子。ボクに身を任せてみるかい?』
だあれ? また、フィルガに会えるようにしてくれるの?
『そうだよ。彼と一緒にいられるように創り変えてあげよう』
うん。
そう。
わたしは頷いた。
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闇がいきなりひらけた。
それでも意識は、まだはっきりしない。
自分が自分でない感覚が告げる事は、ただ一点だった。
このままではただの人形。
トゥーラは何と酷な事をしでかしてくれるのだろう。
これは双方傷つくだけだというのに。
それを狙っているのだろうが。
もういい!
もういいから。
充分だから。
私はこんな事望んでなんていない。
望んでなんていないのよ、トゥーラ!
許すも許さないもないんだよ。
もう充分過ぎるほど、フィルガ殿は苦しんだ。
そうじゃない?
例えワタシの事を忘れ去っていようとも。
瞬いた瞬間、涙が零れた。
ああ、私は戻ってこれたと思って安堵した瞬間でもある。
ディーナはディーナとして、涙を溢れさす事が出来たのだ。
焦点が合う。
彼の愛しの銀の彼が、眼前で血まみれで伏していた。
いや、獣ではなく、青年の方のフィルガなのだが、ディーナの瞳にはその影が重なって見えるのだ。
何事かと思う。
「紅雷!」
くらい、くらい、くらい!
私の紅き雷。
また私が傷つけた!?
気が付けば絶叫していた。
耳を劈く悲鳴が、己のものだ何て滑稽な事か。
苦しい。狂おしい呼吸を整えて、彼を見上げた。
そこに在ったのは曇天を映す眼差し。
本当に嫌になる。
銀の彼はまた再び、彼の中で眠りに付いたようだ。
嬉しいような、悲しいような。
銀の彼は私を待ち侘びているのだけは、確信としてあった。
断じて自惚れからだけではない。
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駆け寄ってしっかりと彼を抱きしめた。
自分から彼に縋るなどは初めてだと気がついた。
今まで、そうしたいと思ったときはそうは出来ない四つ足で、やっと願いの姿を手に入れたら入れたで記憶を手放していたから拒絶していた。
それに、深い所で彼から拒絶されたのを覚えていたから、身体が強張っていたのだと思う。
だが今霧の中から抜け出してきたディーナにとって、そんな事は瑣末な事でしかなかった。
彼に飛びつき、思い切り抱きしめ返して貰っている。
この現実だけが全てだ。
もっと確かな手応えが欲しくて、彼に頬をすり寄せてみた。
フィルガも同じ事を思ってくれていたに違いないと思うと、熱いものが込み上げてきてそのまま頬を伝った。
彼はディーナの涙を不得意とするが故に焦りだしたようだ。
そんな事までが言葉交わさずとも伝わって来て、何だかおかしい。
泣きながら笑ってしまう。
彼があやすように身体を抱きかかえたまま、揺らすようにしてくれる。
ディーナは待った。
同時にそれもどうかと思った。
だから爪先立ちで、彼を見上げた。
曇天の瞳をひたと見据えて微笑んだ。
彼の首筋に回した手を自分の方へと引くように力を込める。
それだけで充分伝わったのだろう。
初めて素直に彼の口付けを受け入れられたと思った。
『相変らず』
お久しぶりでございます。
これ、書きかけのまま三ヶ月とかありえないよ、私!
一行も浮かばないよ、おおおおぃぃ!!!
そんな毎日ですが、なかなかこの話は謎が多くて、書けば書くほど
深みにはまります。
ディーナが素直になりました。