第十五章 * 生まれた子
ああ!
何て力みなぎる、軽やかな身体なのだろう。
どうしてこの身軽さを忘れていたのだろうか?
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シィーラは神殿に上がってそう間もおかずに、里帰りを余儀なくされていた。
”” シィーラ、お腹が大きいね。何が入っているの? ””
そう。
彼女のまとう薄淡い白の衣が持ち上がるほどの、その膨らみが意味する所はなぁに?
養父母の元へと帰ってきたシィーラにまとわり付く、幼い獣はそう問い掛けた。
「何だと思う?」
”” そんなのわからないよ! わからないから訊いているのに ””
シィーラはヒドイ、イジワルだとその幼い子はぴょんぴょん跳ねた。
それを宥めるかのように、シィーラはその頭を撫でてくれた。
「私の赤ちゃんよ」
ひっそりとしめやかに―――かつ厳かに、巫女として上がったかつての少女が告げた。
少女はもうじき母になる。
今その表情は満ち足りた優しいもので、それが何かと表現する術は持たなかったが、尋ねた子の胸も満たすものがあるのは確かだ。
”” あかちゃん? あの、ちいさくてふにゃふにゃしてる、でも大きな声で泣くあの生き物?””
ちょっぴり苦手そうに耳を伏せた幼獣に、シィーラは笑った。
すでに慈愛に満ちた母のような微笑に言いようも無い温かさを感じて、たちまち獣は機嫌を直した。
「そうよ。この中でまだ眠っているのよ」
”” いつ、起きるの? ””
「そうね。あと三ヶ月もすれば会えるわよ」
三ヶ月。
獣の子には時間の感覚がうまくつかめない。
何回日が昇り、何回夜が訪れたらなのか、説明してくれなければ分からない。
”” 赤ちゃん、どこから来たの?””
「さぁ、どこかしら?」
””わからない所から来たの!?””
そんな得体の知れないモノを身の内に潜ませているのかと、耳を伏せて幼子は怯えだした。
くすくすと笑うシィーラの声が宥めるように優しかった。
「赤ちゃんは来てくれたのよ。誰でもなく他でもない、わたくしとあの方との間にね」
””シィーラと、あの方の間? どうして来てくれたの? どうやって? ””
「そうよ。あの方の愛情をいただいたから、赤ちゃんは来てくれたのよ」
ステキでしょう?
そう言って微笑むシィーラはあまりにも眩しくて、羨ましいほどだった。
”” ねぇ。わたしもシィーラもどこからきたのかな? ””
「そうねえ。どこかしらねえ? 赤ちゃんがきたらきいてみましょう」
あの、夏の日。
木陰にくつろいで毛並を撫でて貰いながら、思いつくままの質問を投げ掛けたっけ……。
シィーラは言った通りに三ヵ月後に赤ちゃんを産んだ。
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遠くまでを聞き分ける耳に産声が届く。
野原を駆け回って遊んでいた獣の子は、耳をそばだてると一目散に駆け出した―――。
生まれたんだ、生まれたんだ、シィーラの赤ちゃんが生まれたんだよ!
どうしてか胸が弾んでわくわくした。
だからだろうか。
いつもよりもずっと、ずっと、ずっと、身体に力が満ちていた。
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シィーラの住まいの窓枠からそっと顔を覗かせ、様子を窺った。
何人かの女達が、シィーラとその赤ん坊と思しき周りで世話をしているようだ。
出直そうか。
そう思った途端、シィーラがこちらに目配せを送ってくれた。
待てと言う事なのだろう。
大人しくしていると、程なくして女達は退室して行った。
シィーラに導かれるままに、窓から勢い良く部屋に飛び入った。
「よく来てくれたわね」
”” 赤ちゃん、いつ生まれたの? 朝方くらい? ””
「そうよ」
”” 見せて ””
「どうぞ」
”” 赤ちゃん、かわいい! ””
赤ちゃん。
赤ちゃん!
それは命の塊りともいえる。
ぴょんぴょん跳ねてはしゃぐ獣に見せるように、シィーラは床に直に腰下ろす。
「ふふふ。ありがとう。この子はね、フィルガって言う名前に決まったのよ。ステキでしょう」
””赤ちゃんはフィ、フィルガ””
赤毛の獣はおっかなびっくり産まれたての赤ん坊に鼻を寄せた。
ふんふん、すんすん、とその独特の香りを確かめる。
わぁ。
こんな香りは今までかいだ事がなかったから、不思議な気持ちがした。
洗い立ての衣に包まれた、産まれたての身体。
全部ちいさい。でもちゃんと指先には爪の形までしっかりしている。
赤ん坊は濡れて輝くような銀色の髪をしていた。眉も同じ。睫毛も同じ。
赤ん坊は良く眠っている。
その閉じた目蓋の裏の瞳は何色だろうか?
赤毛の獣はシィーラに尋ねようと口を開き掛けて止めた。
そ、っと舌先でその頬を突いてみた。
赤ん坊が起きてくれる事を期待して。
赤ん坊は少し目蓋を振るわせただけだった。
”” 赤ちゃん……の名前は、フィルガ。ねぇフィルガ、起きて、遊ぼうよ ””
今度はもう少し大胆に頬を舐めてみた。
赤ん坊の首が傾ぐほどだったため、シィーラに苦笑されてしまう。
でも止められはしなかった。
ふ……っと赤ん坊が小さく息を吸い込んだ。
ふにゃあ、ふにゃあと赤ん坊が泣き出した。
獣の子はこの大きな泣き声が苦手だ。
耳を伏せて後ずさる。
”” 赤ちゃん、泣かないで ””
「いいのよ。赤ちゃんはまだおしゃべり出来ないから、こうやって泣くのよ。まだ遊べないけどごめんね、もう少し大きくなったら一緒に遊ぼうね」
”” いつ? 赤ちゃん、いつになったら遊べるの? ””
「そうねぇ。もう少し先ね」
””つまんないの。じゃあ、ひとりで遊ぼうっと。またね、シィーラ ””
「ええ、また遊びに来てね。フィルガも待っているわ」
優しい声と元気な泣き声に見送られて、獣の子は窓から飛び出して行った。
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獣の子は橋のたもとで跳ね回って遊んでいた。
ふと風が吹きつけてきて、一際長い耳の先の飾り毛を揺らす。
そちらをみやれば、霧で霞む中からゆっくりと現れた姿に驚いて駆け寄った。
”” シィーラ! ””
どうしたの?
その姿のままで橋を渡ってきたの?
――― ひとりで?
風が吹きつける。
獣の子にとっては向かい風だが、シィーラにとっては背を押すように追い風だ。
人のまとうドレスとやらの裾が、足運びと共に風に踊る。
小さく、小さく、歌を口ずさみながら、シィーラはゆっくりと橋を渡ってきた。
渡り終えた頃には自分と同じような、けれども対照的な純白の毛並の姿があった。
”” シィーラ。赤ちゃんは……? フィルガはどうしたの? ””
”” わたくし一人で渡ってきたの。あの子はあちら側で生きねばならないから、置いてきたわ ””
”” だって、シィーラ。フィルガ、泣いてるよ? ””
微かに、でも確かに届く泣き声に耳を澄ます。
まだ風は吹きつけてくる。
その向かい風に向う形で、獣の子は橋の前に立った。
耳をぴぃんと立てて、風に乗ってやってくるあの子の泣き声を聞き漏らすまいと必死で拾った。
”” 泣いてるよ ””
”” ええ。そうかもしれない ””
”” 慰めてあげなくちゃ! ””
”” ええ、そうしてあげたいわ。でも……わたくしはもうしばらくは、戻れないのよ ””
”” だって! 泣いてるのに ””
いつだってシィーラはそうしていたではないか。
獣の子は理解できなくて、その場で地団駄を踏む。
いくらでも駆け抜けられる足を持っているのに、行動に移そうとはしないシィーラにやきもきして、獣の子は訴えながら盛んに跳ねた。
”” わたくしの代わりに、あなたが一緒にいてあげてくれる? ””
”” 分かった。わたしが行って慰めてあげる! 一緒に遊んであげるわ ””
獣の子は駆け出した。
その背を風が押してくれている。
先程までは向かい風だったはずなのに、風向きが変わったのだ。
追い風に乗って獣の子は橋を駆け抜ける。
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微かな泣き声を頼りに、獣の子はいつかのように駆けつけていた。
もう泣き声はしなかったが、すぐさま見つけたと思った。
シィーラとよく過ごした部屋の窓枠を鼻先で押し上げる。
「おまえはシィーラのお気に入りだった赤毛だな。何の用だ」
赤ちゃんの瞳は曇り空の色。
その髪とお揃いの、それより幾らか深みある色合いだった。
”” 赤ちゃんの名前は、フィルガ? ””
「もう赤ん坊ではない」
確かにそうだ。
あの眠ってばかりいた小さな生き物は、こうやって自分を見下ろすまでに成長している。
泣き声で自分の要求を訴える事も無く、言葉で態度で示せるほどになっている。
獣の子は、その成長の早さに内心驚いていた。
”” じゃあ、遊べるね ””
「何?」
””シィーラ言ってたよ。もうちょっとしたら、赤ちゃんと遊べるよ、また遊びに来てねって! ””
「シィーラはもういない」
だから来たのだと言っているのに、伝わっていない事に気が付いた。
すっかり通じたものと思って、伝えそびれていたようだ。
改めて伝えることにする。
その灰銀色の瞳を見上げた。
”” だって、泣いてるから行ってあげてってシィーラ言ってたよ ””
「何!?」
”” だから来たの。慰めてあげてって。だから、一緒に遊ぼう? ””
獣の子は小首を傾げて無邪気に誘った。
その瞳に映る怒りの影にすら気がつきもしないまま。
『ここまで来れました』
赤ちゃんを見ていると、みんなこんなだったんだよな~と思います。
いまはたとえどんなにえらぶっていても。
霧が晴れて行く様な気がします。




