* 混濁する記憶
それぞれの時と想いが交錯するのは、橋特有の現象です。
何せ『むこう側』と『こちら側』との架け橋ですから。
風が橋を渡ってくる。
それと共に渡ってきた幼い子がいた。
それこそ、幼い精神で抱えきれない想いと共に。
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笑みとも苦痛とも取れる形に歪む唇に、虚ろな眼差しの少女が一歩踏み込んだ。
すらと右手を頭上高くに持ち上げた後、銀の獣へと指し伸ばされる。
美しく優雅な舞にも似た一振り。
(来る!)
フィルガは構えた。
これは術者特有の型。詠唱に入る前に獲物を定めた合図なのだ。
左手は少年の右手に繋ぎめられたままだった。
あの右手をふり払う気力も意思も殺がれたディーナは、間違いなくトゥーラの木偶人形だった。
右手から彼の蓄えた獣を従える知識すべてを授けられる事だろう。
(こうも短い期間で二度も己を追い遣られたら、彼女の魂はどうなる!?)
【誰と誰の対決と言った、トゥーラ!!】
思わず半歩下がり、フィルガは叫ぶ。
焦燥と拭いきれない最悪の可能性に胸が押しやられないためにも、全力で吠えた。
獣の彼の魂の叫びは、人語では無かった。
そんな風に普段は囚われている嫌悪感すらも、今は忘れた。
【決まっている。これは僕の作品だ。だから、当然だろう?】
好きに扱ってもと、恐らくは続けられようとした術者らしい意見を封じる。
みなまで言わせてなるものか!
【ふふふ】
【何がおかしい!】
【だって。滑稽だからさ。君だってかつてこの子を同じようにしたじゃないか】
しばらく笑いを収めることなく、トゥーラは笑い続けた。
無邪気な仕草がかえって彼の残虐さを暗に示しているようなものだ。
フィルガは叫び返す。
【まさか!】
頭を振る銀の獣を前に、笑いはぴたりと止まった。
底冷えした眼差しが、まっすぐにフィルガを射抜く。
【覚えていないんだね。いいや?思い当たらないだけか。覚えが無いとは言わせない】
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言ったろう?僕は術者だ。
自分の作品には最大限の敬意を払う。この子には復讐させてあげているのさ。
かつて無残にも使い捨てにした術者に、おしおきの機会をと僕は待っていた。
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【契約の花嫁としてその身を作り変えれば、間違いなく彼の側にいられるようになる】
そう囁いてやったのさ。そうしたら、後はご覧の通り。
おどけたように言いながら、トゥーラは両手を大きく開いた。
それでも右手はしっかりとディーナの手を掴んだまま、放そうとしない。
【純粋なこの子は何ひとつ疑わなかった。その頃の知性はとても・・・幼かったからね。今は見違えるようだよ!見てきたろう?この子の学習能力の高さを!】
相変らずの舞台役者さながらの魅せ付ける演説に、フィルガは耳を傾けるより他は無い。
つぶさに逃さず、そこに散りばめているであろう『真実』にこそ彼の真意がある。
見逃してはならない。
これは対決だ。
まちがい無く。
だがそれは己が自身に向き合うといった点においてだ。
フィルガとて気がついている。
トゥーラが終焉を望んでいることくらい、もっともっと幼い頃から知っている。
(それでも終われない役目を演じ続けるのは何か理由があるのだろう)
トゥーラは幕引きを望んでいながらも、自分の望む終焉にならない限り、幾度も幕を上げて来たに違いない。
それは気の遠くなるような歳月であり、孤独に他ならない。
獣を側にはべらせるまでに至った、ジャスリート家屈指の術者。
彼に人であった時の記憶や想いは残っているのだろうか。
それとも、それしか残っていないのかもしれない。
ジャスリート家から術者として神殿に上がったかつての日々を、彼は悔やんでいるからさ迷っている。
歴代の年表に彼の命日が刻まれてから、百年を優に超えた今も。
【それでも。幼いながらも一途に駆けて来た気持ちがあったのは確かだ。人はそれを何と呼ぶのだろう?】
ねぇ?と小首を傾げると、ディーナも同じようにしてフィルガに見せる。
少年の言葉はもはや独白に近い気がした。
そうする事で彼自身の記憶を整理しつつ、縋っているのかもしれない。
フィルガにはトゥーラの質問には答えられなかった。
何の事を言っているのか、よく掴めない。
【ダグレス。最悪の場合、オマエが俺を止めろ】
これから間もなく。
ディーナの口から紡ぎ出されるであろう甘美なる調べは、自分からフィルガという人格を奪うだろう。
そうなった場合ケモノはどう出るのか、予測も付かないのだ。
だから託した。
ダグレスならば完全に銀の獣に対抗しうる。
ダグレスは静かに紅い眼を煌かせ、答える代わりに大きく己の一角を振り上げた。
それが合図となる――。
ディーナの唇がうっすらと開き、真っ白い歯が覗いた。
『我、ディ・ルーマ・ジャスリートが、眼前に伏す銀の獣こと紅雷よりも高みに立つ』
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僕はそこに付け込んだ一術者に過ぎない。
研究と言う対象として見て取り、それに相応しい扱いを徹すれば良かったんだ。
シィーラもディーナも何もかも!
誰が僕にこのような才を配分したのかが知りたかった。
知ったら最後、どうするか何て答えは一つだ。
そいつに一番強力な呪いをかけて滅してやる。
多分、その想いは僕のいとし子へと変貌を遂げた対象たちと同じ感情だろうな?
違うかい?
シィーラ?それに、ディ・ルーマ?
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意識に直に語りかけられても、ディーナは答える事が許されなかった。
彼は恐れているのかもしれない。
わかっている、とはいくら口にしてはいても実際そう恨み言を耳にするのが怖いのだ。
嫌われたくは無いからだろうか。
彼こそ、苦しんでいると思う。
愛しい守るべき対象としながらも、その研究への熱意として傾けるべき情熱を注ぎ、そのあり方を変貌させた己を罪と捉えているのかも知れない。
トゥーラ。
わたし、怒ってなんていない。
恨んでもいない。
ただ、感謝しているわ。
そう心の中で呟いたのは、隠しようも無い本心だった。
全くもってこれだから、君たちはタチが悪いんだよ!
(全くもってこれだから、主らはタチが悪いのぉ)
人にあらずのくせに、お人好しと表現する以外ないってどういう事だよ!
(人にはあらずのくせに、人よりわしの心に寄りそうなかれや・・・頼むからの?)
トゥーラ・ファーガ・ジャスリート!
おじいさま!
少年の声と老人の声が被って聞こえた事で、ディーナはようやく覚醒した。
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「人と人とあらずの君たちが人生を重ねる事が出来たとしたら、何と喜ばしいと思えぬか?ただし二十年の間だけという期限がつくが」
トゥーラは右手で大きく円を描いた。
関節が強張るのか、ゆるゆると上がりにくそうな腕をどうにか持ち上げて。
左手も同じように。
ただし、いくらか小さな円を深くシワの寄った手が描く。
円の大きさが違う分、進む速度も違う上、重ねる部分も限りあると彼なりにわかりやすく講義してくれているようなのだ。
「そう、円だ。人と獣との巡る魂の輪はあまりにもその規模が違いすぎる。よってわしは『完全なる輪の重なりは歪が生じる』と結論付けた。しかし、だ。ほんの一巡りの部分だけならば双方どちらにも恐ろしいほどの負荷は掛からないものと推測する。そこに答えを導くまでには未だ至っていないがね。先々代で術はただの言い伝えになってしまったのだ。惜しい事を。そうなってはもう一度絆を結び直さねばならないというのに。おかげで、一から術を練り上げねばならなくなってしまったのだが、何せ試しようが無い。言い方は悪いが実験の仕様が無い。だから、どうだろうかと持ち掛けているのだよシィーラ」
呆れたわ。あなたもう身体が滅びたっていうのに、こんな書庫で何をしているのかと思ったら!
霞掛かった視界の端に、真っ白い毛並らしきものが掠めた。
いくつもの小鈴をまとめて震わせたかのような声が、老人の輪郭に語り掛けていた。
叱責にも取れるが、その響きは優しい。
「ほ、ほ!わしはそうか!とうに、とうに滅んでおったのか?そんな事はどうでもよい。なぁ、シィーラや?」
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(シィーラ?)
今、確かにトゥーラはそう呼びかけた。
ディーナだけではなく。
(いるのね?)
何故か答えたのはディーナの鼓動の方だった。
『僕はもういい加減に終わらせたい。』
トゥーラ談。
はい!ワタシもです!
お付き合いありがとうございます。
そんなワケでしょうか。トゥーラが話してくれる感じです。やっと。
ここが(小)山場だから、乗り越えたらちょっとはディーナ『楽』になるはず。
その後、ちょっと遊びに来てくれる子達がいるから!
そんな時間軸です。