* 黒衣の姫君
いつのまにか日は昇り、つい先ほどの事なんて夢だったのかと思わず錯覚してしまいます。
――それなのに、まだ夢は続いています。
トゥーラにとっては、まだ『夢』は終わりそうも無いようです。
何だって獣なんて庇うんだ――あの人は。・・・いや。それ以前の問題だ。
あの人の武器になるものなんて、獣を呼びつけるくらいしかない。
それ以外は特に無く、真っ先に庇われるべき対象のくせに。
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自分は、あのか細い背に庇われた。それは今こうして思い返してみても、驚愕でしかない。
『彼女』が『自分』を、『庇った』のだ。自分が彼女を、ならば何の疑問も違和感すらも感じはしなかったろうに。
日も昇り、暖かな陽射しが部屋にまで入り込む。フィルガは灰色の瞳を眇めた。
眩しさが彼の瞳の奥にまで届くようだった。
寝不足の瞳に日の光は、暴力ともいえる。フィルガは目の裏に小さくも鋭い――突き刺されるかのような痛みを覚えた。
その痛みを堪えやり過ごすかのように、両手で顔を覆った。
自室に戻ったのが実に久しぶりな気がしてしまう。フィルガは寝台に腰を下ろした。
そのまま横になってしまいたかったが、そういう訳にも行かない。朝食の席に出ないと色々と説明が面倒だ。
それに途中のまま放り置いた仕事がある。その期限も迫っている。一応立場は領主の跡取り。その自覚もあるだけに、疎かにする気など無い。
しかし自室に戻った途端に、この疲労なのだ。さすがのフィルガも疲れが隠せなかった。
それは――立て続けに緊迫状態にあったために、自覚できないまま重ねてしまっていたに違いない。
それがこうして落ち着きを取り戻す事で、気が抜けたのだろう。やっと疲労を自覚できたという訳だ。・・・良かったのか悪かったのか。
フィルガは腰下ろしたまま、体を前に倒し襲ってくる疲労に耐えた。頭を乱暴にかき回す。
ほんの一晩空けただけなのに、騒動のせいでこうやってくつろぐ間すらなかった。
全く。忌々しいのは――誰が原因だろう。
もちろんあの娘が一番に候補に上がるが、違った意味でだ。その対象ではない。
ダグレスにギルムード、そしてディーナに介入していた何者か。閉じた瞳の裏に浮かぶのはその面面だ。
「・・・・・・。」
フィルガは自分の頭皮に爪を立てたまま、それらの気配を今一度探ってみた――。
((””――今日は・・・いや。もう昨日か――は、災難だったな。フィルガよ””))
何の前触れもなく、頭に直接声が響く。フィルガは頭をかき回す手を止めた。だが、顔は上げなかった。
己の灰銀の髪と指の間から、薄目を開けて明るい日差しを窺いこそしたが。
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寝台と、テーブルと椅子。それに本棚だけ。
そんな必要最低限の家具しか置かれていないフィルガの自室は、姿を隠して潜むには難しいほど素っ気無い部屋だ。
今この朝日を浴びてこの部屋に影を作っている者は、ここの主であるフィルガのものだけ――。
「災難?ああ。本当に!こうも立て続けに、攻撃を仕掛けられてはな。災難に違いない!・・・そう思うのならばもっと早くに、対処の仕方を教えてくれてもよかろうに。仮にも『橋と橋を渡る者の守護獣』なのではなかったのか、アンタは?――シアラータ!本体はどこだ?すぐ近くにいるのなら姿を見せよ」
――遠慮しておこう。
「なぜさ?」
――我が今動けば、橋の結界が・・・均衡が崩れるやもしれぬからな。
「・・・結界はそこまで脆くなっているのか?だとしたら、どれくらい持つ?」
――何。この騒ぎも今しばらくの間だろうさ。おまえ達が橋で騒ぐから悪いのだ。しかもディーナの気配を少なからずまとっている、おまえらが。それでは獣らも刺激されて当然だろう。
「じゃあ、何用だ。ただ労いの言葉だけを、伝えに来ただけでもあるまい?」
――・・・これを受け取れ。嫌だとは言わせん。
「何?」
【はい。これだよ】
いつの間に。それと入れ替わるようにして、シアラータの気配が遠のいていた。橋に下がったのだろう。
フィルガは声のした方に顔を向ける。――光が遊ぶ窓辺に寄りかかるようにして、その声の主がいた。
「・・・・・・トゥーラ」
にっこりと笑みを見せてから、そう呼ばれた少年はフィルガに歩み寄った。右手に何かを掴み持ち、前に差し出しながら。
【はい、ドウゾ。ボクにも手に余る代物だ。まぁた、とんでもないものに見込まれちゃったねぇ】
「これは・・・・・・!?」
少年の手のひらにはいささかもてあまし気味の、漆黒の剣の柄だけが収まっていた。
彼の手のひらに包まれていながらも、己の存在を主張しているかのように感じた。禍禍しい様な、混沌とした闇の気配。
【そう。アレだね。ギルムードの『姫君』とやらさ。彼女をあのまま橋に放置するわけにも行かないだろうから】
「だったら持ち主に返すのが筋だろう。なぜ俺に託すのだ?まさか返して来いとか言い出す気か」
【まっさかぁ。それこそ始末に終えなくなるよ。これは本当に獣はひとたまりもないんだよ?危ない危ない。それこそ受けたのが、フィルガ・・・銀の獣だったから無事に済んだってハナシ。――危なかったね、フィルガ】
笑顔で物騒な事を言う。だが目は笑っちゃいなかった。
少年は早く受け取れとばかりに、ずいとフィルガに『姫君』とやらを差し出す。
腰かけたままのフィルガは、トゥーラと視線が同じに合わさった。
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【今日はって、もう昨日か。危なかったね。二人とも】
フィルガはにこやかさを崩さない少年の言葉に、一連の動き全ての関連性を見た気がした。
「――殺すところだったぞ!」
そうだ、本当に危なかったのだ。彼女を血の海に沈めるていたならば、フィルガも多分・・・どころか確実に。
その場で己にケリを付けていた事だろう。その自信がある。
それこそ少年に対して凶暴な想いを爆発させて、フィルガは怒鳴った。自分は取り返しのつかないことをしでかしそうだった・・・・・・。
今フィルガの体に恐怖を覚えさせて、脱力させている正体がこの事実なのだと。やっと思い当たる。
【・・・・・・それは。ボクらがそれをさせやしないよ。間違っても】
ぐい、となおもトゥーラは『姫君』を押し出す。
いいから早く受け取れとばかりに。フィルガはそんな彼と姫とを交互に睨んだ。
【君が本能の部分で躊躇うのも無理はない。――この剣は『聖句の』威力秘めしもの。物騒な姫だよね。フィルガ。――君はディーナを傷つける気なんて無いのだろう?それでも・・・獣の心に””囚われきったら””どうなるか。知っているよね?】
「言われるまでも無い。何が言いたいのだ、トゥーラよ」
【決まっている。そんな展開に備えての覚悟の程を問うている。】
「俺に自ら刃を立てろと?」
【・・・・・・そういう手立ても一案としてあるよね、って提案してみているだけ】
「・・・・・・・・・。」
フィルガは無言で少年に手を差出した。それを満足そうに見下ろしながら、トゥーラもまた、握り持った『姫』を前に差し出す。
だが、少年の手は『姫』を握り締めたままだ。
なかなか解かれない手をいぶかしんで彼の顔を覗いたが、哀しげな眼差しに迎えられるだけだ。
フィルガは催促の意味も込めて、手のひらを押し出した。
「受け取れ、と言い出したのはそちらの方だろう。まさか今更、くれてやるのが惜しくなったとでも言い出す気か?」
自嘲気味に吐き捨てる。そんなフィルガにかすれた声が答えた。
【ねぇ、知ってる?どこぞの国のおとぎ話――・・・種族の違う姫が焦がれたのは、人間の若者。姫は決意する。彼と共に生きよう、と。でもねぇ同じ時を生きようと思うと、色々と制約が掛かってしまうものなんだね。たとえおとぎ話の中であろうともさ。・・・実に興味深いと思わないかい?】
「――トゥーラ。何が・・・」
言いたい――そう続ける間を与えようとはせず、トゥーラは遮るように話を進める。
【彼と結ばれねば姫は『夜露のごとく消えるがさだめ』。そうと知りながら、姫は・・・彼のもとへやって来た。でもこの話しは、おとぎ話にしてはいささか容赦が無い。彼は別の姫を娶ってしまうのだから。そうなれば彼女は消えねばならない。――ただひとつ姫が助かる方法といえば、彼女の想い人を『この世から消し去ってしまう』というやり方だけ。消えねばならない己の代わりに。何て残酷なおとぎ話だろうか!ねぇ、フィルガ?】
おどけたように少年は、両手を大きく開いて見せた。手には『姫君』を握ったままで。
「――それで、どうなったのだ」
【え?】
「その姫とやらは、どうしたのだ?」
【――さぁ?】
「さぁ?ずいぶん、いい加減なんだな」
【違うよ、フィルガ。それは違う。一説には姫は、己が消えるほうを選んだとある。かと思えば、彼を・・・そして自分をも消し去ったというハナシまである。一方は一途な姫君の悲恋の物語として幕を閉じている。そしてもう一方は、嫉妬に狂った憐れな女の話となっている。要は選ぶんじゃないのかい?聞いた者の心が、終幕をさぁ】
彼の口調は少年期特有のやわらかく謳うようであるが、響くものがあった。
まるで芝居の口上の者のように、彼は語り聞かせがうまいのだ。
フィルガは知らず知らずのうちに、その彼の語って聞かせる物語に聞き入っていた。
【そしてこれが――】
トゥーラは一歩、後ろに下がると柄持った右手を振りかぶった。
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――・・・フ・・・ゥォォ・・ン・・
そう遠くない前に聞いた、姫君の唸り声が朝の光を切っていた。
ギルムードのコレは仕込み剣の一種であり、こうやって上から下に一気に振って刀身を出す仕組みだ。
かなり細身の剣なのでこうしてたやすく、少年の細腕でも姫をお迎えできるようだ。
【――かのおとぎ話の姫のなれの果てという、いわくつきの剣さ。どうぞ、フィルガ?待たせたね】
姫本体をフィルガに向けてしまわぬように、柄の方を差し出す。それでも抜き身の刃。
フィルガは慎重に受け取った。
【獣をいなすには最適の聖剣だから、時と場合によっちゃ便利なんだけどね。獣にしてみたら、ただの魔剣だから。取り扱いには気をつけてね】
――言われるまでもない。
そんな思いを込めて、フィルガは『姫君』を見つめてから――少年を睨み付けた・・・・・・。
だが――そんなフィルガの眼差しは、行き場を失いさ迷う。
目を離したのは恐らく、瞬きの間ほど。それでも少年にしてみたら、たいした問題ではないらしい。
「トゥーラ。相変らずだな」
ため息混じりに独り呟き、フィルガは朝の光に再び目を細めた。
言いたい事だけ告げたら、さっさとバイバイ。
――トゥーラの主義です。だいぶ、いい根性してますでしょう。
彼はおしゃべりなので、すっごく話します。
彼が出ると、一話が長くなっちゃいます。
そのくせ、一番大事な部分はなかなか明かさないという。・・・・・・いい根性しています、ホントに。