* 孔雀にはめる足かせ
――ディーナ。彼女はほぼ、負けん気で成り立っているようです。
・・・・・・。
大っ嫌い。
もう、あっちに行ってよ。
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気丈にも身を任せきることなく、ディーナは抵抗を試み続けていた。
たとえそれが、ただなす術も無く易々と封じられていようとも、だ。
彼から見れば、ディーナはもうとっくに屈していたかに思えたかもしれない。
絶対に負けてなるものかという気持ちを持ち続けていただけで、実際は身動きひとつ取れていなかったのだから。
そのせいでフィルガは少々油断したようだった。ディーナの両手を封じていた手が緩んだ――。
ディーナときたら、そのわずかばかりの隙を油断無く見極めていた。素早く己の手を引き抜くと、勢い良くフィルガの左頬を突っぱねる。離れ間際に、ついでにガブリと噛み付いてやった。
どこをどう狙ってやろうかなんて、無我夢中で考えていたワケではないが――。ディーナの犬歯は、フィルガの上唇を確かに捕らえていた。
「・ッ・・・」
フィルガが思わず出した短い声には、痛みを訴える響きがあった。してやった!という暗い喜びが湧き上がる。
それでいて痛がらせてすまなかった、と言う気持ちが沸いたのも同時だった。それが噛み付いたまま、彼を突き放すという行動を取らせた。
「っちッ!!」
「!!」
フィルガが顔をしかめながら、己の口元を押さえていた。その唇の端に滲むのは、鮮血の赤。
噛み切ってやったのだ。ディーナは自分の口の中に広がっているのが、血の味だとそれを見て理解した。
「・・・やってくれますね」
いい気味だ!そう言ってやりたい所なのだが、言葉にならなかった。
それでいて、思わずごめんなさいとも言いそうになった。それも発される事は無かったが。
恐らくその二つはディーナの中でぶつかり合って、相殺されたらしい。
「・・・・・・。」
フィルガの目の色は明らかに不穏だった。据わり切った灰色の眼に見据えられ、ディーナは喉の奥で悲鳴を飲み込む。
しかしここでまた目を瞑ってしまうのは躊躇われた。そんな事をしてはまた対応が遅れる。
もう、好きに『殴られる』のはゴメンだった。
そう自分を奮い立たせるように、身を起こす。その途端に背を受け止めていてくれた柔らかな感触が、寝台によるものだと改めて認識出来た。
「・・・っ・・・っく・・・!!」
悔しい。恥ずかしい。屈辱だった。もう先ほどまで身を包んでいたはずの寒さなど、身体のどこにも名残が無い。
フィルガに無理やりとはいえ、熱を呼び覚まされたのだ。それがより一層ディーナの羞恥心を煽る。
こみ上げる怒りにかみ締めた唇が、ひりひりと痛んだ。それもフィルガに殴られたせいかと思うと、新しく涙が溢れ出す。
ディーナは勢いに任せて、クッションを引っつかんで振りかぶった。ぼすん、と鈍い音を立ててフィルガにぶつかる。
かなりの至近距離からなので、外れずに上手いこと命中した。それでもディーナの気は治まらない。
間を置かず、もうひとつ振りかぶる。今度は投げつけてしまわずに、両手で力一杯フィルガに振り下ろした。
ぼす!ぼす!ぼす!と、何度も何度も――肩で息をしながら、ディーナはぶち続けた。
正直足元がふら付いて仕方が無かったが、気力を振り絞り勢いに乗っかってフィルガに怒りをぶつける。
そんなディーナの攻撃をかわす事も無く、フィルガは黙って受けている。
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「――もう、気は済みましたか?」
ぜい・はあと、呼吸を整えているディーナにフィルガは声を掛けた。
ディーナはきっと睨みつけると、またひとつ大きく振りかぶった。
済むわけが無かろう!気持ちは治まりようも無い。そんな凶暴な怒りに反して、体力が尽きかけている。
明らかに威勢が良かったのは、最初の二・三回の振りまでだった。
それですらこの男にしてみたら、痛くも痒くも無いだろう。恐らく。
いや、確実に。――せめて痒かったら御の字だ。今はもう、それくらいの勢いでしかない。
何て自分は脆弱なのか。それにもまた腹が立つ。こんな事をしたって、ダメージを受けるのは自分だけだろう。
フィルガは涼しい顔で黙って、ディーナの攻撃を受けてくれている。彼はディーナの気が済むまで付き合う気だろう。
ぽすん、と気の抜けたような音を立てたクッションを、フィルガは受け止めていた。ディーナはもう一振りするつもりだったが、引き抜けなかった。
「・・・・・・ディーナ。もう、それくらいで。アナタの方がくたびれるだけですよ」
「知ってる。だから何よ?」
「ディーナ・・・・・・」
「〜〜〜〜〜ッ、もう!本当にイヤ!フィルガ殿何て大嫌い!!いっつも私のことバカにして。嫌い!〜〜〜嫌いなんだから、もう、どっか行っちゃってよ!!」
ディーナは癇癪を起こして、今度は拳をクッションに打ち付ける。
そんな事しか出来ない自分が無力で、子供にしか思えなくて情けなかったが止まらなかった。
嫌い、嫌い、ヒドイ、もう私の事は放っておいて・・・・・・。それだけをくり返し涙ながらに訴え続ける。
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「――レド」
ディーナはいつの間にかフィルガに両肩を押さえられていた。そのことよりも彼がたった今、口にした名の響きに驚く。
闇が支配する部屋の隅――窓際の方から風が入り込んできたと思った。
目の端でカーテンが、寝台を覆う布が、ふうわりと持ち上がったのをとらえる。それが落ち着きを取り戻すよりも一瞬早く。
――足元に白い獣が伏せていた。獣は巨体を持ち上げるように、すぐ身を起こしながら尋ねる。
””――呼んだかフィルガ?””
「レドっ!?」
ディーナは意思奪われて久しいはずの・・・獣の名を叫んだ。
””ディーナ!!ディーナ、どうした!?フィルガにいじめられたのか?泣かないで、ディーナ””
「・・・・・・レド!!ごめんっ、大丈夫だったの?私のせいで・・・『聖句』にっ・・・」
ごめんね、ごめんね、私が巻き込んだから・・・・・・。そう、詫びながらディーナはレドに抱きついた。
「レド。ディーナを守れ。片時も目を離すなよ。――そして何か異常があったら俺をすぐに『呼べ』。いいな?」
その様子を見下ろしながら、フィルガはレドに命じる。
命令口調から庇うように、ディーナは強くレドにしがみついた。落ちてくる言葉に身を固くしたのは、ほとんど反射的なものだった。
””今!!異常っ、ディーナが泣いている。不審者・フィルガ!!””
「レド――。貴様」
””オマエに言われるまでもない。――いいから早くあっちに行け。いじめっこ・フィルガ!””
どうやらレドの中でディーナを泣かせる悪いヤツ=フィルガという図式が出来上がったようだ。
獣はディーナの泣きすがりっぷりに異常さを感じ取ったらしく、慌てたようにフィルガを追い払おうと牙を見せた。
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フィルガは後ろ手で扉を閉めると、そのまま背を扉に預けた。もたれ掛かると、自分の口元に己の甲を押し当てる。
(危なかった・・・あのまま――。ディーナが暴れてくれなければ、今頃・・・もっと泣かせていた)
今彼女を慰める事が出来るのは自分ではない。それは痛いほどに自覚している。だからレドを呼び出したのだ。
言うなればご機嫌取りだろう。それでいてあの娘にはめる足かせ。少女は喜んでその枷に自ら足をはめ込むのだ。それを知っての上だった。
今頃きっとあの優しくて無害な獣の毛並みに、癒されている事だろう。獣の求めるのは彼女からの優しい愛撫と、抱擁だけなのだから――。
ディーナが安心してその身をすり寄せても、何ら問題の無い相手だ。
そうと知った上でレドを与えたのだが、どうにもやり切れない。焦りにも似たモノが、フィルガの胸に迫って積もる。
(――あのまま・・・ディーナをあれ以上追い詰めずに済んで・・・・・よかった)
フィルガは己の唇を親指でなぞった。ちりりと、火傷した時のような痛みがそこにはある。
ちっ、と小さく呻いたが、けして深すぎる痛みでは無かった。そして不快でもない。
むしろそれは甘さを伴なって快い程だ。
橋での対決でギルムードの野郎の一撃を顎に喰らって負った、あの痛みなどとは比べ物にならない。
切ったのは口の中の方だったので、あまり外から見ても解らないだろうが腫れて来ていた。
気づかれたらどう説明しようか、少し思いあぐねていた所でもあったから正直・・・助かった。
何か尋ねられてもコレで言い訳が付く。ディーナには悪いが利用させてもらおう。
その傷のせいもあって思わず体を離してしまったのは、悔やまれるような。これで良かったと胸を撫で下ろすような――。
複雑な気持ちだ。
彼女が先ほどからずっとずっと気に掛けている『彼』ならば、その笑顔を取り戻す事が出来るのであろう。
だが問題は『彼』の求めるものが、ディーナの与えうる限界をやすやすと超えてしまっている点だ。
彼女は『彼』を前にすれば無条件で受け入れてしまう事だろう。恐らく――人畜無害と信じきっていてやまないだろうから。
そうして無防備極まりないディーナを目の前にして、はたして『彼』は『人畜無害』でいられるだろうか・・・・・・。
答えは『否』だ。
そんな獣が本性の赴くまま振舞ったら、どうなるか。
――確実に彼女の身体も精神も、どちらも壊してしまうだろう。彼女に深い傷など負わせたくは無かった。
自分はそれを良しとはしない。当たり前だ。
だからレドを呼び出した自分を、褒めてやってもいいと思う。彼女の魅力を前にしながら、必死で抗って屈しなかったのだから。
(ディーナ・・・アンタは本当にやってくれますね。今日は負けそうだった・・・)
フィルガは唇を押さえたまま、ずるずるとその場に崩れ落ちた。背後を預けた扉の向こうにいる彼女の気配を探りながら。
立てた右膝に体重をかけると、ぐったりとうな垂れる。ついにはっきりと宣告されてしまったのだ。
(大嫌い、か・・・・・・。やっぱりな)
――相変らずフィルガに勝ち目は無いようだった。
どちらが立場が上かって?
ディーナ>フィルガ=フィルガ目線。
ディーナ<フィルガ=ディーナ目線。
――と、いった所でしょうか。