第十章 * 対立する瞳
これだけは、ここだけは譲れません。お互いに。
そう。ディーナ、アナタは橋を渡って来てくれた。
あの約束の霧の日。契約の結ばれた――あの橋を。
――それを迎えたのはこの俺なのだから、誰よりも主張する権利がある。
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ディーナの答えにルゼは無言だった。否定も肯定も出来ない、といった所なのだろう。
『それでもアナタは引き続き――拘束します。言葉は悪いかもしれませんが、そうとしか言えません。フィルガ』
――ディーナとよく話し合ってちょうだい。
そう言い残すとルゼは、孔雀たちを連れて退出してしまった。
だからこうして、フィルガと向き合わざるをえないでいる。
フィルガはルゼを見送るとディーナの隣に腰下ろすことなく、暖炉の横に背を預けて立ったままだ。・・・視線が痛い。
「まだ、俺・・・ジャスリート家から立ち去ろうというのですか?」
「・・・・・・何とも言えません」
フィルガの問い詰めるかのような瞳から逃れるように、ディーナは視線を外しながら答えた。
「では――。これからは、このフィルガと寝起きを共にしていただきましょうか?もちろん。そのためには、部屋も一緒に」
「・・・・・・!?」
ディーナは無言であったが、力強く首を横に振った。それこそ、千切れんばかりの勢いだった。
その引きつり血の気の引いた表情を、フィルガの鋭い眼差しが見据える。
目で殺されそうだと、ディーナは喉の奥で唸った。度重なる脱走に、フィルガはどうやら本気で言っている様だ。
それでもディーナは言葉を撤回し、取り繕う事はしなかった。
フィルガの異様な迫力に思わず押され、しばし動きを止めたディーナだったが、また首を必死に横に振る。
両手がドレスをぎゅっと握り締めていた。知らず知らずのうちに足首が露わになるほどに、たくし上げてしまうほど強く。
頑ななまでに、断固拒否――。言葉で訴えるよりも、かなり効果的だとディーナは思う。
下手に言葉を誤まれば・・・またしてもフィルガの機嫌を損ね、実行されかねなくなりそうだから。
ディーナはいい加減、学び始めていた。フィルガは自分なんかよりも、格段に賢くその上冷静なのだという事を。
少なくとも行き当たりばったりで、感情に動かされるままに行動を起こしてしまうディーナとは違う。
まるで聞き分けのない子供の自分に、呆れながら手を焼くオトナを見ているかのよう。
そんな彼に対して申し訳なさ半分と、聞き入れるものかという反抗心が半分で成り立つのが、ディーナの自尊心だ。
「――それくらいならば、私を牢屋に案内して下さい。二度と抜け出せないよう、気が済むのなら足に枷でもはめて下さって結構ですから。どうせなら、最初っからそうしておいてくれれば良かったのよ、フィルガ殿」
「それほどまでに、この俺が厭わしいのですか?牢につながれた方がマシだとでも?」
「そうよ、フィルガ殿!だから言っているじゃない!さっきから・・・いいえ。最初っから!私はシィーラの身代わりなんてゴメンだってっ!!」
「・・・・・・ディーナ」
「確かに私は橋を渡って来たわ。それだけは覚えてる。それ以外の事なんて、名前以外覚えちゃいないわよ。でもだからってどうして、シィーラに重ね見られなくちゃいけないのよ?顔と能力がいくら似ているからって、バカにしないで!私はディーナよ」
もう何度目になるのかわからない訴えを、ディーナは涙を堪えて絞り出す。
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ディーナは泣き顔を晒すまいと、俯いていた。だから気がつけなかった。
フィルガの唇の端が、微かだが持ち上がったのを知る由もないまま――見逃した。
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「そうです。アナタは――橋を渡って来た。そのことは認めているのですね?」
「そうよ・・・・・・。」
迷い無く答えておいて、ディーナはなぜか取り返しの付かない返答をした事にすぐさま気がついた。
どこからかこみ上げてくるものが、身を包む危機感だったからだ。逃げ出したい衝動に駆られる、この感覚の正体は一体何なのか。
言い表しようのないこのものに、名称を与えると言うのならば『恐怖』だという事だけは解るのだが・・・・・・。
なぜこのようなものが這い上がってくるのかが、解らない。だからこそ余計に不安が込み上げてくる。
それはいつも深い部分で、ディーナに行動するよう突き動かす。『逃げなさい』と――。
(たすけて。誰か)
無意識層にいつも上ってしまうのが、この台詞なのだから我ながら情けない。
ディーナはすぐに、いけない!と思う。そう、自分を打ち消した。この感覚は危険だ。
またしても獣たちを呼びつけかねない感情だという事に、思い当たるようになっていた。
(いやだ。本当にいや。こんな能力、本当にいらない・・・・・・。『聖句』なんかよりもずっと、ずっとタチが悪い)
それを意識しないまま、発動させてしまう・・・なんて。そんな自分自身に、嫌悪感を覚えてしまう。
それを振り払うために、ディーナは今一度勢い良く頭を振った。恐怖の源泉が何なのかは、今だ見当も付かない。
それに打ち勝つためにも面を上げ、フィルガと真っ向からぶつかる以外は他に無い。
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何かしら葛藤しているのだけは伝わってくる。瞬間、自分自身の奥深いところから込み上げてくるものは衝動に近い。
それはフィルガに次に取るべき行動を命ずる。
(・・・まずい。今日はあの姿で長くいたせいか――引きずられかねない)
今すぐに彼女の望むモノとして、その傍らに何者よりも早く駆けつけ跪きたい。
ディーナのあの微笑とともに、もう一度彼女の唇から紡ぎ出される称賛を浴びたい。
この身であっては叶わない事も、あの姿ならば叶うのだから皮肉なことだ。それでは、フィルガの真に望むことから遠い。だから堪らなく魅力的な彼女の『呼びかけ』に、必死で抗うしかない。
(本当に――この娘は俺を試すかのように、挑んでくれる・・・・・・!)
正直忌々しくもある。それでいて、身に余る光栄だとも思う甘い呪縛。いっそのこと囚われてしまえれば、どんなに楽か。だが、ひれ伏したら負けだとも思う。
軽い眩暈を押さえつけ、抱えるかのように腕組んで堪える。
惹かれて止まないその理由が本性のなせるワザなどとは、けっして認めたくは無い。
焦がれて止まない理由など、とっくに理性のあるべき所からは遠く離れた所にあるのは、薄々感づき始めているだけに。
(引きずられたら、負けだ。ディーナは二度と俺をフィルガとしては見なさなくなる!)
フィルガの望む者として、彼女は橋を渡って来た。契約に従って、迎えたのは他の誰でもなく自分なのだという誇りがある。
そうだ。逃してはならない。彼女がこれからどんな理由を並べ立て拒絶しようとも、もう知った事か!
やがて呼び声がささやかながら、鳴りを潜めていく――。
二人が面を上げ、互いに挑むような眼差しをぶつけ合ったのは、ほぼ同時だった。
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交差する――晴天の澄み切った青空と、雪舞い落ちる直前の曇天。
お互いが――なんて対照的な空を模したかのような瞳だと、思った。
それこそが互いに自分に持ってないもので、成り立っている証。
「フィルガ殿。私は恐らくこのままだと今日みたいな事、何度でも繰り返してしまう。意識する、しないに関わらず。このジャスリート家に確実なまでに『損害』を喰らわせてしまう、予感がする。それが拭い去れないでいる。この家にそんな事になって欲しくはないの」
解放してください。ディーナはきっぱりと、フィルガに告げた。私がこの家に身を寄せていてはろくな事にならないから、と。
「出来るわけがないでしょう。アナタとしては、表に放り出しでもしてもらえたらそれで済むとでも思っているのでしょうがね。そうは行きません。ディーナ、アナタは橋を渡って来てくれたのですから」
フィルガはゆっくりと組んでいた腕を解くと、ディーナへと差し出した。
歩み寄られて、フィルガの影がディーナへと落ちる。それはまるで覆い被さるかのように、ディーナを圧迫する。
「さあ。ディーナ、立って」
「――どこに、行くの?フィルガ殿」
ソファに身を沈めたままのディーナの左手は、差し出す前よりも早く掴まれていた。
「牢、ですよディーナ。・・・・・・アナタのお望み通りにね」
言いながらフィルガは、ディーナの甲に唇を落とした。
――第十章に入りました。
お互いが、屈するものかとなっております。
どっちも色んな意味で意地っ張りなもので。




