第九章 * 聖句の見せた幻影
橋でダグレスに組み敷かれていた、ギルムードですが。
何とか、起き上がって戻ってこれたようです。
白い孔雀が何処かに飛び立ってから――・・・十七年。
シィーラを待ち侘びていた者たちにとって、それはそれは永い年月。
ようやく、止まっていた時が動き出す。
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覚悟していたはずだった。
(我はおまえを見捨て行ってしまう――。)
何度もその危険性の高さに、ダグレスは躊躇してみせた。その度に自分は、何と言って笑い飛ばしていた?
『ダグレスの好きにして構わない。』
そう言って、嗾けたようなものだったろう。
自ら物分りの良い者として振舞っておいて、実際は『物』なんて何にも分っちゃいなかった。
本心は自分でも気がつかなかっただけで、違ったなどと今更・・・・・・。誰に申し開けばいいのだろう?
今になって、失い難いものだったと気がついても遅いのだ。
(ダグレス。あいつ、本気で俺に歯向かいやがった!)
目の当たりにしてやっと、ダグレスの忠告は心からの物だったと理解できた。そんな有様じゃ、術者失格だろう。
本気で取り合おうともせず、受け流し続けた自分を獣はどう見ていたのだろう。どんな気持ちで進言を繰り返したのだろう。
それですら――。術に囚われたものの見せる、『術者の心に沿った』行動の現われでしかなかったのだろうか。
ギルムードは右の手首から血を滴らせながら、神殿の回廊を急ぐ。肩の傷から伝わってきた血は、今も止まることなく流れ続けている。
皮膚を伝うその生暖かさが、自分の生ぬるさを嫌でも痛感させる。
ギルムードは痛みと苛立ちから、忌々しい獣たちを罵倒した。
「くっそ・・・っ!!四つ足共が!!」
人気のない回廊だったが、何やら背後から女達の悲鳴が聞こえてきた。自分が今通ってきたであろう、方向からだ。
アーチ上の天井のせいか、嫌に甲高く響き渡る悲鳴が耳障りだった。
(・・・・・・何事だ?うるせぇな)
痛みに顔をしかめながら振り返ると、自分の来た道に血溜りが出来ていた。
純白の磨かれた石が敷き詰められた廊下とあっては、なお一層血の赤が冴えて見える。
肩口に当てた布も血で染まり、既に止血の用を成さなくなっている。
だから、これだけの血溜りを作るのは当然だろう。そう、いやに納得した。
(――俺か。騒ぎの原因は)
ギルムードは取り合うことも無く、さっさと悲鳴に背を向けた。女達の声がだんだん近付いてきている。
巫女達に捕まっては、報告が遅れる。手当てなんぞは、その後でいいのだ。
ギルムードは左手で肩口を押さえつけて、姉の部屋へと歩き出した。
受けた被害の大きさと、少女の能力は本物であり『放置できるものではない』という報告。――加えてあの少女の容姿。
(これでやっと、堂々と動き出せる)
ディーナ嬢には断られたが、諦める気など更々ない。それどころか、余計に闘志が沸いている。
十七年もの間、手の打ちようがないまま時は過ぎた。
それを思えば、これくらいの代償は何てことの無い――取るに足らないモノだ。
手に入れたい相手がちゃんと、存在してくれている。
行動に移したくても、何の手掛かりもつかめないままだった。そんないたずらに流された日々は、もう終わったのだ。
ギルムードは痛みから険しい顔をしてはいるが、内心は浮き立っている。大声で笑い出したい程だ。
友としていたダグレスを、いくら失い難かったか思い知ったばかりなのに。
そんな気持ちの後でいてさえも、勝る感情は少女への想いの方だ。
(ダグレス!おまえの言う通りだ。・・・俺は薄情者だよ。だから――。まぁ、この傷で相子だ)
傷のおかげで苦労せず、しかめっ面が出来るからな。事の重大さを訴えるのに、一役買ってくれるだろうよ・・・・・・。
(しまりのない顔じゃ、いまいち訴えにならないだろうからな)
はは、とギルムードは喉の奥で張り付いたような、乾いた笑いを漏らした。
だが、その自虐的な笑みをすぐに引っ込める。
「ギ、ギルムード殿!?」
驚きの声を上げた控えの護衛には目もくれず、通いなれた扉を叩く。血でまみれた手で構わずに、大きく二度打った。
血を滴らせながら、返事も待たずに姉の部屋に入る。
「何ですか、いきなり・・・・・・。ギルムード!?」
咎めるように声を荒げた姉も、その尋常ではない弟の様子に息を呑む。
すぐに椅子から立ち上がると、駆け寄りながら叫んだ。
「誰ぞ、手当てを!!」
「手当ては後です、姉上」
「止血くらい、させなさい!」
「――報告致します。ジャスリート家の少女は、第二の孔雀に他なりません。至急彼の少女を神殿に召集するための、
手はずを整えて下さい。必要とあれば、審議会の準備も」
――ギルムードは血まみれの左手を胸に当てて、敬礼した。
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夜も深け、ギルムードは自室で酒を片手に一日を振り返っていた。
出血したので酒は控えるよう姉から言われたが、眠れそうもないので杯を重ねる。
(喉にまで穴を開けられていたら、今頃は・・・・・・)
確実に、こうやって酒を口にしている自分はないだろう。
思わず傷を負った方の手を持ち上げて、喉元を擦ってしまい痛みに呻いた。肩を少しでも持ち上げようものなら、肉の奥深くが引きつれる。
少女が争いを止めるようにと悲鳴を上げてくれなかったら、ギルムードは今頃とっくに――弔いの主役だったろう。
ダグレスはディーナ嬢の悲鳴に、あっさり退いた。
“命拾いしたな”
そう言い捨てると、さっさとディーナの後を追いかけて行ってしまった。孔雀もそれを見届けると、同じ方角を目指して飛び立った。
そうやって取り残されたギルムードは一人、橋の真ん中で転がったまましばらく青空を眺めていたというワケだ。
あいつ等。みんな、ディーナ嬢の騎士団ってわけか・・・・・・。
ギルムードは、自嘲せずにはいられなかった。
ダグレスとの関係は全て、聖句の効力が見せていた幻想にすぎなかったのだ。それを思い知った。
術者の願望が、獣の在り方を決める。
自分の中の獣に対する後ろめたさが、ああいった形を取るのだとしたら。
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「――おまえ!悪い事は言わん。獣の意志は『すべて』奪っておけ。・・・・・・シャグランスの!」
ギルムードは酒を注ぎながら、振り返らないまま戸口の方に向かって声を掛ける。
――扉の隙間から入り込んだ風が、燭台の炎をゆらめかせた。
第九章に入りました。
ギルムード、流血しておいてなかなか元気です。
鍛えてる軍人の体力をなめるなよ、といった所でしょうか。
臥せる気は更々ないようです。