* 霧の中のそれぞれ
深い霧の中それぞれの望みを叶えるべく、みんな濡れそぼっています。一部、例外の方もおりますが、等しくそろって今朝の霧の中にいます。
***
霧の立ち込める中で長時間たちつくしていると、思っている以上に衣服は湿って
重くなってくる。
今朝のように、三歩先の視界すら阻まれていると特にだ。
肌の出ている部分はなおさらで、徐々に体温が奪われていくのを感じる。
すでに髪はたっぷりと水気を含み、肌に張り付いてしまっていた。
その束ねた後ろ髪をつたって、襟足からも冷え始めている。
それでもフィルガは橋の向こうを見据えたまま、立ち去ろうとはしなかった。
じきに日が昇る。
陽光が勢いを増すに連れて、この立ち込めた霧を振り払ってくれるだろう。
川岸の木につないだ馬の肌からは、湯気が上がっているのが見えた。
外気に対して、馬の体温が高いせいだ。
先ほどから愛馬は軽くいなないて身震いしては、足踏みを繰り返している。
「悪いな、クーガ!もう少し付き合ってくれ」
名を呼ばれた黒馬は、主人に応えて尾を軽く二、三打ち振って見せた。
馬の様子を見届けると、フィルガは再び視線を、橋の向こうへと据えた。
濡れて額に張り付いた前髪が、うっとうしいので手で跳ね上げる。
―フィルガは待っている。
この橋を渡って来る者を、ずいぶん長いこと待ちわびていた。
***
「何、っなのよ、何なのよ、なん、なのっよっ!?」
駆け続けているため息苦しい。
それでも、怒りに満ちた疑問のつぶやきを吐く。
全力で走っている。・・・・・・つもり。
実際はたいした速さではなかった。
それでも、懸命に足を動かし続けては、いる―。
自分の後ろ、数歩しか離れていない距離を置いて、巨大な影がある。
霧で視界が不明瞭だが、その影は己の身の丈以上もある獣のものだと判る。
何度振り返り窺い見ても、影は付きまとって消えてくれることは無かった。
それでいて、獣は距離を縮めて来る訳でもない。
一定の間隔を保ちながら、追い立ててくるのだ。
姿を霧で見せぬようにとでも計らっているのか、自分が足を止めると獣もまた立ち止まる。
自分の命を狙っているわけでは、ないらしい。
早くからそう、気が付いてはいた。
―・・・だったらしばらく、様子を見てもいいだろう。
獣は何か意図する所があるようだったし、そうできる程の知恵ある獣ならば、任せてみるのも
また一興だろう。
のんきにそう思ったことを、すでに悔やみ始めている程追いかけっこは続いている。
胸を弾ませていた好奇心は、すでに消えていた。
あるのは獣に対する、薄気味の悪さだった。
振り切れるだろうか?
駆けながら、肩越しに獣を窺う―。
「ッ!?あっ」
短く悲鳴を上げたが、もうどうしようも無かった。
足元に異変を感じた。
しまったと思ったのとほぼ同時に、地面に突っ伏していた。
「・・・・・・。」
何も無い平地だったが、疲労のためか足がもつれた。
うまく地を蹴り上げられ無かったせいだろう。
湿った草地に転び、腹ばいになった衣服からは、冷たく水が浸み込んでくる。
しばらく動けず転がっていたが、このままでは余計に不快なだけだと、
両手で地面を踏ん張って身を起こす。
引きずるように、膝頭を立てるとどうにか立ち上がれた。
服に泥が付いたが、べったりと染み付いて払いようも無かった。
前髪から伝わる水滴が不快だった。
泥だらけの両手で拭う。
顔にも泥が付いたが、もうここまできたら構う事でも無い。
別にどこも痛まなかったが、疲労と空腹で追い詰められている上、
転んだ事でより一層ガマンならなくなっていた。
身を翻して、獣と向き合う。
霧の中に身を潜めている獣を、鋭く睨むと叫んだ。
「ちょっと!!いい加減にしてよね!何用なのよっ」
転んだときはもちろん、これを機会として襲い掛かってくるそぶりも無い。
獣は自らも歩を休めて、距離を保ち続けている。
―獣は何も答えない。
「何用かって、訊いてるの!答えてよ!」
意味も無く追い回されたとあっては、腹の虫が収まらない。
呼吸を荒げながら、霧越しに睨むのを止めなかった。
(答えるまで問い続けてやる)
その意気込みを察したのか、獣の影が動いた。
ゆっくりと近づくと、姿を見せる。
(きれいな獣)
霧の中から姿を現した獣を、賞賛を込めた瞳で見上げた。
忌々しいが、魅力的なのだ。
大きく頑丈そうなくちばしをした鷲の頭をもたげて、真っ黒い眼で自分を見下ろしてくる。
頭部は鳥だが、胴体は狩をする肉食獣特有のしなやかな筋肉で成り立っていた。
それでいて四肢の爪先はまた鷲のように、細かな鱗が覆っている。
蹴爪もある。
その三つ又に分かれた猛禽類の鋭い爪で、大地を踏みしめている。
獣は全身闇色の羽毛と毛並みとが合わさっており、目の縁と頭部を飾る三本の羽根だけが
気持ち灰色だった。
蹴爪の先ですら、闇をまとう。
霧の影響を受けているわけでも無さそうだったが、その体毛は艶やかに輝いて
湿り気すら感じさせる。
見事な光沢。
『もう、我の名すら思い返せぬようだな。ディーナよ』
「名前すら?・・・貴方みたいにとびっきり綺麗なのを、忘れるなんてありえるの」
獣は目を細めて、首をすくめた。
どことなく哀しげな様子に、ディーナは困惑する。
明らかに目の前の彼とは、初対面だ。
『では、改めて名乗ろう。我の名はシアラータ』
シアラータは長い首を倒し、ディーナと視線を合わせて正面から見据える。
羽毛で覆われた頭に、ディーナは迷わず両手を伸ばす。
獣はディーナの小さな左手に、頭を優しくすり寄せた。
右手側も、同じようにすり寄せる。
同じ霧の中に居るはずなのに、湿りもしていない滑らかな手触り。
その上体温すら感じられない。
「シ、ア、ラータ・・・?」
獣がしたのと同じ強弱で、発音を真似る。
やはり心当たりはない。
呼んでみたが、なじみもないように思う。
ディーナの表情を見守っていたシアラータは、ゆっくりと首を再び高く持ち上げる。
そしてディーナが向かっていた方向を見据えると、告げた。
『もう行け。おまえは、橋を渡らねばならぬ』
「橋?どうして・・・・・・」
シアラータの視線の先に、ディーナも目を凝らす。
霧でかすむ視界の中、確かに橋と思しき石組みが見えた。
『お前の望みだ。じきに霧も晴れる。その前に渡り切れ。―振り返らずな』
「私の望み?」
『−さらばだ、ディーナ。健闘を祈ろう』
何も思い返せ無かった。
シアラータの事も、望みとやらの事まで・・・・・・。
それでもディーナは橋へと真向かう。
「ありがとう、シアラータ。思い出せなくって、ごめんね」
振り返らないまま礼を述べ、詫びた。
なぜだか橋からは、もう目が離せなかった。
強く引かれる。何かがある。抗えない。
この霧の彼方、橋の向こうがわから―。
ディーナは、一歩を踏み込んだ。
時間がやや交錯しております。
それぞれの個性がでますね、といったところでしょうか。ディーナさんはいつでも大体、こんな調子です。