* 答えない獣
ディーナを引き戻そうと、声がかかります。
ディーナ。
ディーナ。ディーナ。
――行くな。
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ダグレスからは、きつく言い渡されていたハズだった。
彼の赤毛が『自らの意志で』橋を渡りきるまでは、橋に踏み込んではならない。
声を掛ける事すら、禁じるようにと言われた。
そうでなければ、結界に振れた事になり必ず邪魔が入る。面倒な事になるのは、まず間違いない。
なんだ。簡単じゃないか。
そう笑って受ける自分に、ダグレスは付け加えた。
(我は許せなくなっているかも知れぬ・・・・・・。
紅孔雀さまのお心に沿わぬ者全てに、牙を剥くやも知れぬのだ。――ギルムード)
例えそれが『聖句の主』であっても、容赦は出来ぬかもしれないと獣は言っていた。
それはそれで、面白い。――そう、受け流した。
自分は十七年以上も待てたのだから、待つくらい何てことはない。そう、高を括っていたのだが・・・・・・。
目の前に、目当ての少女がいる。
それをただ眺めて待つというのは、ここまでもどかしいとは予想できなかった。
笑い事じゃなかったと思い知る。
ギルムードはただ必死に、見つめ続けるしかない。視線が絡み合う距離まで来たが、少女の歩みはためらいがちで遅い。
期待と熱意。そう言えば聞こえはいいが、下心全開の眼差しに警戒されるのも無理はない。
俺様の長い足なら。・・・・・・彼女まで、十歩もあれば。
(あの身をさらって)
――行けるのに。
ギルムードは言いつけを忘れ、思わず橋へと踏み込んでしまっていた。
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―――戻るのか?
惚けたようにダグレスに続いていたディーナを、呼び覚ますかのように声が響いた。
どこからかと言えば耳にではなく、頭の中で閃いてはじけるような。
(・・・・・・もどる?どこに?)
ディーナが自分を取り戻したのと、ほぼ同時だった。間を空けず、別からも呼びかけられた。
ディーナ!ディーナ!!ディーナ!!
行くな。
大気を震わせて伝わってきた想いが届く。それは、懇願に近い叫び声だった。
思わず振り返ったディーナは、そのまま瞳を奪われてしまった。
一目で心すらも奪われた。他の事は一切忘れて見惚れる。
(なんて・・・・・・)
驚きから賞賛に変わるにつれて、自然と笑みが浮かぶ。
(なんて、きれいな獣!)
獣もまたディーナを見つめている。四肢を突っ張らせて、必死なようにも見える。
――獣は皆それぞれに美しい存在だ。ディーナはいつでも、そう思ってきた。
しかし・・・・・・。今、目の前にいる獣は『特別』だった。
艶やかな銀色の毛並みが、あまりに見事でどうしても触れてみたくなる。どうしても――。
ディーナは橋を引き返し始めた。
早く獣に触れてみたい気持ちが現われて、両の腕を広げて、前へ差し伸べながら。
ダグレスは不満そうに唸り声を上げて、慌てて後から追い付き従った。せっかくディーナの心を自分に魅せつける事に成功していたのに、すっかり忘れ去られてしまったのだ。
もう一度側らで、低く唸ってみたが顧みられることはなかった。忌々しさから、黒い獣の牙が覗く。毛並みが黒い分、白い牙は余計に鋭く見る者に訴えかける。
――ダグレスも同じく四肢を突っ張らせて、いきなり現われた銀の獣を威嚇した。
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近づいてみて、改めて銀灰色の毛並みにため息が漏れる。陽光を受けて煌いてさえいるからか、所々白銀にも近い。
獣自身から放たれているかのような眩さ。それに加えてディーナ自身から湧き上がってくる嬉しさに、思わず眼を細める。
「はじめまして。私の名前を間違わないで呼んでくれたのは、アナタなの?」
恭しく右手でドレスをつまみ上げて、一瞬だけ膝折った。自分が知る限りの、優雅な挨拶で敬意を払う。
「お名前は?」
“・・・・・・・・・・・・。”
獣は何も応えない。
ディーナの瞳を見上げるだけだ。ディーナも、彼の瞳を逸らさず見下ろす。
視線を絡み合わせたまま、その場にしゃがみ込んだ。見下ろしては失礼だ。
彼の瞳を間近で覗き込むとまた、感嘆のあまりため息がこぼれた。獣の瞳も、灰味の強い銀色だ。
ディーナはこれと同じ、美しいものに覚えがあった。
雲が太陽を隠さんとして覆った時――。陽光を浴びた灰色の雲が、こうやって輝いていた。
それに通じる力強さと、気高さがある。こうしてみると、彼自身が曇天の一部のようではないか。
今にも雪が舞い降りてきそうな、あの鈍く輝く天の一部だ。
(まるでそこから、舞い降りてきたかのよう・・・・・・。)
応えない獣に、そ・・・っ・と手を伸ばす。
その長い鼻先までを覆うのは、鷲のクチバシの一部分のようだ。
それは、上あご部分を堅く保護する甲冑のようにも見える。
三角形の形良い耳先は、やや外側に反り飾り毛が縁取っている。
(撫でさせて・・・・・・くれないかなあ?)
ディーナはそろそろと遠慮がちに手を伸ばす。わずかに縮まる、獣との距離。だが、まだ触れるのは微かな獣の息使いのみ――。
四肢の造りは狼を思わせるが、足先の方は毛皮に隠れていても鱗が覗く。
規則正しく配された鱗が、水底の魚の腹のように光を弾いているのだ。
「足。きれいね。きらきらしてる」
ディーナが褒めるのを、獣はただ黙ったまま聞いている。気にも留めず、心からの賞賛を続ける。
「しっぽも、すてきね。――孔雀の羽根が混ざったみたいに、模様が浮かぶなんてふしぎね」
微妙な色の濃さのコントラストが、そう見せるのだろう。尾の先など、孔雀の尾羽そのままの渦巻く目玉模様だ。
ただし、白銀と灰銀とだけで絶妙に配されているから、こうして陽の光に照らされなければ分りにくい。
「あのね。・・・・・・私にとってね、」
言いかけてそのまま、言葉を紡げなくなってしまった。うまく表現しようにも、ディーナの持つ言葉だけではとてもじゃないが追いつけない――。
神妙な顔つきで考え込んでみたが、やはり言葉が見つからなかった。
まあ・いいかと、ディーナはお得意の切り替えの速さで、再び笑顔を獣に見せる。
触れようと伸ばされた手をかわすために、獣は後ずさった。拒絶の意思が伝わって来る。
「・・・・・・ごめんなさいね?」
残念だが、無理強いは禁物だ。それでも、諦めきれない。
ディーナは未練がましく、手を伸ばしたままでいる。
獣の毛並み豊かな胸元に顔をうずめて、足のウロコを撫でてみたかったのに――。許されないなんて切ない。
手を伸ばせばすぐに、届きそうなのでなおさら。
(せめて耳先だけでも・・・・・・。)
しつこくもう一度、ディーナは両手を伸ばしてみた。抱っこさせて欲しい。全身で、そう訴える。
すると獣はさらに後退した――。
身を低く構え、耳も伏せて唸り出す。
大小様々の、真珠色の牙がこぼれて見えたと思った。
それとほぼ同時だった。
獣はディーナを目がけて、飛び掛った――。
近づいて触れたいのは、皆同じ。
でも。男も女もシツコイのは、嫌われちゃうよ?
いやいや。どうでしょう。場合によりますかね〜
ディーナ、獣が気になって仕方ありません。