* 響かない足音
ディーナ、橋を渡り始めてしまいました。
ダグレスがエスコートしています。
* * * * * * *
橋というものはあちら側とこちら側との、往来を円滑にしてくれるものだ。
行き来する者は橋の向こうがわ、目指す地に用があるから渡るのだ。
ならば自分の、目指したものは何だったのだろうか?
* * * * * * *
ディーナは向かい風に目を細めた。
橋を渡ったその先で、あの日待っていたのは――?
一歩先行くダグレスが、振り返って促してきた。ひとつ、頷いて見せると一歩を踏み出した。
石造りの橋を渡る。・・・こつ、・・・こつ、と一足ごとに、自分のつま先が乾いた音を立てた。
あの日の霧は、こうした足音ですら飲み込んでいたらしい。
こうしてみると、あの日の条件とはあまりに違いがありすぎる。記憶のまき戻しはできるのだろうか。
少し心配になってしまう。
晴れて澄んだ空の陽射しは緩やか過ぎて、なぜか物足りないように思えた。
小鳥達の軽やかなさえずりが、耳に届いてくる。この午後の陽射しを謳い上げているかのようだ。
橋の下に流れる川も陽光を受けて、輝きを見せながらせせらいでいるのに・・・・・・。
ディーナは橋の欄干に左手を預け、滑らせながら進んだ。
石の持つひんやりとした感触が、ディーナの熱を奪って行く。しかし背に受ける太陽のおかげで、たいして気にならない。
むしろ左手に集中できて、意識が飛び過ぎずにいられた。あの日を思い返している。
そのせいで自分の意識がぼんやりと薄れており、どこか危なっかしい自覚は少しだがあるのだ。
熱奪われた指先だけが、自分をここへと留めてくれている。――かろうじて。
・・・・・・あの日は確か、全身冷え切っていた。霧の中にずっといたから。それに比べたら何とも無い。
(――霧が必要なのかもしれない)
己のつま先ですら、見失わないように精一杯だったあの日。
(あの日の霧に包まれて、渡りたい。もう、一度・・・・・・。)
何も思い出せないまま、橋の中ほどまで渡った所で立ち止まった。
橋の向こう側に立つ人影に、ディーナは今気がついた。
弧を描く橋は、中心までが緩やかな上りだ。真ん中が一番高く、後はまたゆっくりと下る。
そのため、向こう岸の方までは見渡しにくかったのだ。
(誰・?男の人、だけど)
ディーナは見開いた瞳を眇めて、様子を窺う。橋を渡った事で咎められるだろうか。
それにしても、風が強い。思っていたよりも風が吹きすさぶのは、周辺に建物も木もないせいだろうか。
しかも自分が橋に踏み込んだのと同時に、強まった気がする。
ディーナが観察するその男も、同じ風に吹かれているはずだが。彼のまとうマントは翻ってはいなかった。全身黒ずくめという格好も手伝ってか、何とも重たそうに見える。
剣を佩いているのか、左手を柄らしき物に預け置いているようだ。
剣を持っている。ならば、この橋の見張りか護衛かもしれない。そう見当つけて、小さく舌打つ。
(・・・・・・ジャスリート家の?)
だとしたら面倒だ。自分はこっそり、抜け出してきたのだから。フィルガの顔がどうしても浮かぶ。
しかし向こう岸に立つ人物は、体つきはがっしりとしていて肩幅が広い。背も高い。
ここからでも鍛え上げられた身体だとわかるほど、逞しそうな男性だ。
明るい栗色の髪は、肩の上に付くか付かないかの長さで波打っている。
よくよく見れば、彼の表情は満面の笑みのようだ。無条件でそれは親しみやすいと思わせるほど、目じりが下がっている。
口元も引き上げられて、笑み作られているようだが髭を蓄えているせいかよくわからない。
若者なのかそれ以上なのかも、ここからでは見当もつかなかった。
フィルガも背が高いが、この人物よりも幾らか線が細い。髪の色も違うし、髭もフィルガにはない。確実にフィルガでは無さそうだと、ディーナは胸を撫で下ろしてしまう。
フィルガに対して、ちょっと後ろめたい自分が情けない。
(何?なんで?あんなに笑っているの・・・・・・)
にこやかでいて、泣き出しそうにも見える。その満面の笑みの理由は何なのか、訝しく思った。
ディーナは、歩みを止め様子を窺う。
すると男は慌てた様子で、その場に跪いた。左手を開いて胸に押し当てながら、だった。
そして一瞬だが強く、ディーナをすがるように見つめて来た。
視線がぶつかった気がした。目が合う、なんて生易しいものではなかった。
(・・・な、に・・・?・・・あの、人)
ディーナが思わず怯んだのを見逃さなかったらしく、男はまた慌てたように頭を垂れた。
一連の動作を見守り、ディーナはますますその場に固まるしかなかった。
(あの時も、こうやって迎えられた。・・・・・・フィルガ殿に)
ひとつ、思い出した。
ただあの時は霧の深さで、橋を渡りきるまでその存在に気がつかなかったが。
フィルガも泣き出しそうな笑み浮かべながら、左手を胸に押し当てて跪いた――。
「あの人、だぁれ・・・・・・?」
幼子のように、ディーナは呟く。呆然となったのが、口調にも表れていた。
一歩先を行くダグレスが振り返る。
“あの者は、ギルムード・ランス・ロウニア。――神殿に仕える者でございます。
そして、我が聖句の主でもあります。ディーナ嬢”
そう肩越しに答えながら、ダグレスはディーナへと向き合った。
「聖句!?アンタ、囚われているの!?」
“はい。かつては、レドの奴めと一緒に”
さらりとダグレスは答えた。ディーナは驚きのあまり声が、かん高く裏返る。
「そうなの!?どうして?私と意思通わせる事ができているから、てっきり自由なんだろうって思っていたわ」
どうして、自由に術者の許可無くとも動けるのか。それと同時に恐れにも似た疑問が沸いた。
今までの振る舞いはすべて、術者に命じられてのものだったのか。そうだとしたら、かなり『取り返しの付かない』事態になるだろう。いつでも逃出す気まんまんだったはずだから、未練はないつもりだった。それなのに。
レドと、ルゼ公と侍女のリゼライ、フィルガの顔が浮かぶ。下手したら、さよならも告げずにサヨナラかもしれない。
そんな可能性を予測して青ざめたディーナを、ダグレスは気遣ったのだろう。
すぐさま、勢いよく一蹴りで傍らに寄り添った。支えるように身を摺り寄せながら、優しくささやく。
“我の意思でディーナ嬢をご案内致しましたので、どうぞご安心を――。
確かにギルムードには、貴女様をお連れしてくれと頼まれましたが・・・・・・。こうしてお連れしたのは、ディーナ嬢が知りたいとお望みになる情報を、あやつめは持っておりますが故。いくらかは助けになるやもしれません。僭越ながら、そう判断しました”
ディーナの足りない言葉からでも、ダグレスは的確な答えをくれる。並外れて人の機微を察する事のできる、複雑で繊細な精神を持っている獣。そう窺えたから、ディーナは感心していた。その様子に少し落ち着きを取り返す事ができたので、尋ねる。
「神殿の人、なのに?――神殿の人、だから?」
神殿に仕える彼を信用していいのか?かつて、シィーラは神殿に巫女仕えしていたからか?
相変らず言葉が足りないが、ダグレスは淀みなく答えてくれる。
“あやつはシィーラに面識あった者の一人です。・・・・・・確かに聖句を用いているが、『完全に』従える事はありません。
我の好きに動けと言うてもくれる”
フィルガとは違う。ディーナはそう思ったら、胸が締め付けられた。
ダグレスは、彼との差を強調しているようにも聞こえなくもない。
“あの者は協力を惜しみませんでしょう”
どう反応していいのかわからない。動き出せずにいるディーナの脇を、ダグレスはゆっくりとすり抜けながら進んでみせた。
痺れたように、その場から身体が動かせなかった。ただ視線だけで、黒い獣の動きの名残を追う。
微かな闇の粒子がダグレスに付き従って行く、その様を。
全身で日の光を浴びていてさえも、その滑らかな毛並みは輝き返すどころか、より一層深く深く――闇の濃さが際立つ。
闇よりも闇の色。闇そのもの。
瞳をこらせばこらす程、その視界ごと闇に魅せられて飲まれて行く気がした。
そんな己の美しさの虜となったディーナを見計らったかのように、ダグレスが畳み掛ける様に促す。
“――あやつの手を取るのも、一案かと?”
紅い眼がしかとディーナを捕らえる。逸らせなかった。そもそも逸らす気さえ起こらなかった。むしろその視線にすがりついたのは、ディーナ自身かもしれない。
* * * * * * *
ディーナは知らず知らずのうちに頷くと、ダグレスに続いていた――。
再びこつり、こつりと、つま先が乾いた音を立て始める。
その様子にダグレスは満足そうに胸を反らせると、強く一歩を踏み出す。
しかし橋は彼のひづめを受け止めても、何の響きも返さなかった。
* * * * * * *
ディーナ、ややダグレスにやられ気味。しっかりして!
――獣は本来こんな感じで、虜にしてくれようかと魅せつけてくるあざとい部分を持っています。
まあ、そこも魅力かと。
ディーナは獣に弱いのは、獣フェチだから★
・・・・・・だけでは、ありません〜。
(詳しくは、また★のちほど)