第六章 * 橋を渡る風
またまたディーナ、こりもせず抜け出してしまいました。
ダグレスにそそのかされて、では無い様子・・・・・・。
ついに、望む者が現われた。
そうだ。此度こそ逃したりなんてしない。
――此度こそは、必ず。
* * * * * *
橋のたもとには獣の像が置かれていた。風雨に晒されたせいだろう。全体に、丸みを帯びてしまっている。
それでも威厳を感じさせる獣像だった。
雄雄しく胸を反らせて、くちばしを大きく開いて高見から見下ろしてくる。
その頭は鷲のものなのに、四肢はしなやかな肉食獣を思わせる。ディーナの知る中では獅子に近い。
それでいて、猛禽類特有の猛々しい立派な翼まである。獣は今すぐにでも、飛び出して行きそうな勢いがあった。
飛び立とうとしたその一瞬を、こうしてここに固められてしまったかのようだ。
(なんて、この獣もステキなのかしら・・・・・・)
奇妙な生き物といえばそうだろう。だが、その造りに一切の疑問も違和感も感じず、ディーナはうっとりと見上げる。
――・・・あの時も、あの時も。霧の中と夜闇と。
条件は違うが視界が悪かったせいで、ディーナは像に初めて気がついたのだ。
その台座に刻まれた文字までもが、丸みを帯びていた。所々が掠れて読み取りにくい。
左手の指先をそっと這わせて、文字をなぞる。
(シ、ア、ラー・・・タ。はしと、はしを、わたるものの・・・しゅご・じゅう)
シアラータ?
どこかで聞いた覚えがある。自分の唇がなぞる発音の迷いのなさが、そう遠くではないと思わせた。
しかし、何も思い出せない。
「シアラータ?」
実際声に出して、呼んでみた。やっぱり何もひっかからない。それでいてこの胸に広がる懐かしさは、一体何なのか。
(まあ、そのうち・・・思い出すでしょう)
必要とあれば。ディーナは思い出せない事に対して、相変らず執着しようとはしない。
そんな自分に対しても、何の不便も感じない。自覚すら無い。
あっさりと像から手を離すと、橋の方へと真向かった。
今ならまだ、大丈夫だ。橋を渡ってきたと自信を持って、言い切れる。あの深い霧の中を掛け続けて、一人で橋を渡った。
ディーナは橋を前に、こうして立っている。記憶ではもっと長い長い橋を渡ってきた気がした。それは霧で視界が悪かったからだろうか。不安からそう感じたのかもしれない。
今一度、橋を渡ってみれば何か思い出せるかもしれない――・・・・・・。
そうディーナが思い立ったのが先だったか、ダグレスが提案してくれたのが先だったろうか。それはいい案だとばかりに、ディーナとダグレスはこうして館を抜け出してきたのだ。ためらったが、用意のいい我を見くびらないでいただきたいと、ダグレスは半ば強引にディーナをさらってきてくれたのだ。
橋を渡ったから今のディーナがある。渡らなければ、どうしていたのだろう。
どうして渡ることになったのか、とも考えた。
手掛かりがあるとしたら、すべて橋の向こう。霧の中にあるのだろうか。
* * * * * * *
「し、あ、らーた・・・・・・?」
確かにディーナの唇は彼の獣の名を呼んだ。いや、ただ台座に記された文字を『読んだ』だけだ。
何の感情も見せないまま、ディーナはすぐさま獣の像から離れた。
・・・・・・ダグレスがそっと見守りながら、彼女のその様子に違和感を感じた。
“ディーナ嬢はもう、本当に何も覚えておらぬのだな・・・・・・”
独り言のように呟く。
「そうよ?だからこうして、アンタに連れて来てもらったんじゃないの」
どこかかみ合わない返事から察するに、自分に何の疑問も感じていないのは明らかだった。
“――ご自分の記憶に対する執着も、置き去ってこられたようだな。やはり・・・”
『契約の現われのようだ。』
ダグレスはその言葉は飲み込んだまま、押し黙った。久々の外の空気が嬉しいのだろう。ただただ、無邪気に微笑み返すディーナを見つめる。
何の疑問も感じない。疑いすら持たない。幼子のような無垢なほほえみ。
それがどうか、ずっと、ずっと、曇る事がありませんように。
(そう願った者のせめてもの配慮がこれか、シアラータ!)
その祈りは確かに自分も賛成だ。だがなぜ、自分の胸が苦しいのかわからない。
めったなことで、誰かに同情を寄せる事のない獣の自分が、何か不憫な者と向き合っているかのような気持ちにさせられてしまう。ダグレスはディーナに向けていた瞳を思わず逸らすと、獣の像をにらみ付けた。
それを促された合図と受け取ったのか、ディーナも一緒に橋へ改めて向き合う。
隣に並びあうと、ダグレスが一歩、二歩、三歩・・・先に渡りだした。そこで振り返る。
“さ、ディーナ嬢。渡ってみませぬか?”
「・・・・・・・・・そうね――・・・」
ダグレスの歩みを呆けたように見守っていたディーナが、ゆっくりと頷いてみせた。
* * * * * *
紅孔雀。そう、呼んでもいいか。赤毛の少女だそうだからな。さあ、ダグレス。
行ってうまく、その娘を連れ出してはくれまいか―――。
ギルムードの頼みだ。
術者のくせに、命令口調じゃないところが彼らしい。ダグレスはそんな彼の聖句の徒だ。
命を受ければ拒まずこなす。術者の意に沿うこと。それがすなわち、徒の喜び。
・・・・・・だがそれすらも、実の所どうでも良くなりつつあった。
この少女を前にしていると、徐々にだが確実に意識が変化してくる。
ダグレスは自覚しているが、自制などできないでいた。
聖句という呪縛は、こんなにも細い手綱でしかなかったのかと思える。
連れ出してくれ――。
それは誰の望みだっただろうか?思考がぼやけ、記憶が交差する。
考える事よりも自然と湧き上がってくる思いのほうが、強く主張してくる。
(わたし、どうして橋を渡ってきたのかな・・・・・・)
あれはダグレスに質問するというよりも、独り言だったように思う。
それでも、答えて差し上げられない自分に苛立ちを覚えた。
だからせめてもの償いに、提案してみたのだ。
『もう一度、彼の橋を渡ってみませぬか?ディーナ嬢。何か思い出す事もあるやもしれませぬよ?』
ディーナは頷いて見せた。輝いた瞳と満面の笑みを向けられて、ダグレスの心も一緒に浮き立った。
(アンタ頭がいいわね。なるほど。あの橋に行けば、何か思い出せるかも)
ありがとう、いい子、いい子、かわいいこ・・・・・・。
そう耳元で囁いてくれながら、ダグレスの首の後ろを優しく撫でさすって褒めてくれた。
かつてシィーラが、褒めてくれたのと全く変わらぬやり方に、ダグレスは夢見心地で瞼を閉じた。
そうだ。ディーナ嬢が望まれたから、こうしてお連れしたのだ――。
ギルムードの命だからではない。
ダグレスは橋に降り立つ頃には、そう確信するまでに至っていた。
* * * * * *
風が、橋を渡ってくる。
見据え続けた橋の向こうに、見覚えのある闇色の獣が降り立ったのが見えた。
そしてその背には、少女とおぼしき人影があった。髪は――赤い。顔は遠すぎてよく見えない。
ギルムードは、胸が高鳴りすぎて痛みを覚えた。
情けないが震える左手で、自分の胸を押さえつける。
ギルムードは知らず知らずのうちに、橋の方へと一歩踏み出していた。 望む者のいる、
向こう側へと手を差し伸べながら。
――風が、一段と強くなる。
第六章〜まで、きました。ディーナは新しい出会いが待ってます。フィルガはますます、気が休まらなくなります。
新顔入り乱れますが、よろしくどうぞお付き合いクダサイ★