* なつかしの風
いよいよ念願かなって、ダグレスが一足早くディーナに接触です。・・・ギルムードはもうちょっと、かかりそうです。
待っていた、ずっと――。
信じて待ち侘びていた。
またきっと再び、孔雀が舞い降りてきてくれると。
* * * * * *
陽射しが遮られたのが、瞳を閉じていても感じられた。
考えをまとめようとディーナは瞳を固くつぶったのだが、そのままベッドのへりに身をもたせ掛けて眠り込んでしまったらしい。首が痛む・・・・・・。だがまだ眠い。
厚い雲が太陽を覆い隠したのか、室温までが下がったように感じた。冷気すら覚える。もう夕刻なのだろうか。
――ちがう。
天候の変化のせいじゃない。
自分の内の深い所から、何かが告げた。眠気を無理やり押しやって、瞳をこじ開ける。
家具の影とは全く異なる強く己を主張する濃い闇の塊が、ディーナの足元に浮かんでいた。息使いの感じられる闇。
徐々にこごみ始めたその中心から、ディーナは目が離せなくなった。深くて底が見えない闇に、惹きつけられる。
大きさを増し形を取り始めたそれに、赤黒い目玉が現われた。しかとディーナを見つめる眼が、ゆっくりとひとつ瞬く。
現われたのではなく、元からあった瞼が開かれたのだとそれで気づいた。
(獣・・・・・・だ)
眠気も吹っ飛び、息を呑んで見守る。
獣は闇の中から一歩を踏み出す。しかし、闇から抜け出てくることは無かった。
獣自身が闇と一体なのだ。闇そのものといった毛並みは、風に煽られているかのように逆巻いていた。
獣の歩調に合わせて、たなびく霧状の闇が付き従う。
紅すぎて黒に近い色味の眼は、空気に晒された血の塊のようにも見えた。
それはディーナを見据えながら、近づいて来る。
うやうやしくも勿体ぶって歩くつま先から、闇は輪郭をはっきりと保ち確かなものに形をとり始めた。
くすぶる様であった名残も、徐々に納まってきている。
空を渡るかのように見えていた蹄も、今はちゃんと床に着いて敷物に沈む。
獣は首を左右に打ち振りながら、片方ずつの瞳で代わる代わるディーナを捉える。
それは頭にいただく枝分かれした一角が、視界を阻むからなのだろうか・・・・・・。
見せられた肖像画の中でも、獣はこうして小首を傾げていたと思い当たる。この獣には見覚えがあった。
在りし日のシィーラの側に寄り添って、憩う獣のうちの一頭だ――。
ディーナは思わず手を伸ばし、彼の角に触れた。冷たくて乾いた感触に、自分の手の温かさが奪われて行く気がした。
獣がこれ以上近づかないよう諌めている様でもあり、受け止めている様でもある体勢のまま、互いに見つめ合う。
“我を呼んでくれたな?シィーラよ”
獣は小さく、赤毛の、と付け足す。今度は両の眼で見据えられた。
「シィーラじゃないわ。ディーナよ」
ディーナは、視線を逸らすことなく宣言した。
“そうか、赤毛の。・・・・・・我が名はダグレス。ダグレスだ、ディーナ”
獣はそう、二回名乗った。
* * * * * *
獣がそうであるようにディーナもまた、獣たちの魅力には抗えない。
闇色の獣が角を預けたまま前脚を折ると、その身を膝の上へと招き耳の後ろを掻いてやる。獣は気持ちよさそうに目を細めて、頭を傾けて身を預けてきた。遠慮なくもたれ掛かってくる獣の身体は大きすぎて、ディーナの膝にはとてもじゃないが乗り切れない。獣との触れ合いに飢えていたディーナは、その首筋を思う存分撫でていた――。
が、すっかり忘れていた重要な事を思い出す。
「ダグレス。せっかく来てくれた所悪いんだけど、帰って」
獣を手放し難く思いながらも必死で押しやる。そんなディーナの心を見透かしたかのように、突っぱねられてもダグレスは動じなかった。己の毛並みの見事さを、自覚しているのだろう。そうそう簡単に跳ね除けられるワケはなかろう?そう言われている気がした。
「ダグレス、危ないかもしれないのよ・・・・・・」
“あの若造の聖句に、我が囚われるかもしれぬと?”
「そう。やりかねないよ、フィルガ殿なら余裕で」
“無用の心配だ、赤毛の。我は今、レドの気配の下に潜んでいるからな。アレも気づけぬよ”
ディーナは思わずダグレスを撫でていた手を止めた。ダグレスの首を抱きかかえると、その耳元にささやき掛ける。
「・・・・・・なぁにぃ?アンタのその用意の良さわ?」
“何。レドの奴めが足りぬのさ。シィーラの息子はかつて次々と我等を従えた。それを考慮して、手を打つのが道理だろう”
鼻先でせせら笑うと、ダグレスはますます身をもたせ掛けてきた。
もっと撫でろ、と言っているのだろう。ディーナは無意識に要求を読み取り、応えてやる。
ディーナの中で獣というのは、何と言うか・・・・・・。無邪気な子供と等しいという感覚があっただけに、ダグレスの小賢しさは一体何なのかと怪しまずにはいられない。
その割りにべったりと甘えたがってくる。ただの大きな赤ちゃんでしかない所もある。
かわいい、かわいい、かわいらしい獣。いくら身体も力も大きかろうと、ディーナの中の評価はそれに尽きる。
そんなかわいいこを、みすみす危険に晒したくはなかった。
だから少し口調を強めて言い聞かせる。
「・・・・・・それが本当なら、やっぱり危険だよ。何で来たの?帰りなよ」
“呼ばれたから”
ダグレスは、紅黒い瞳を輝かせて見つめてくる。
「呼んだわけじゃないわ。――ただ少し、考えていただけよ?」
資料室に飾られているシィーラの肖像画には、獣が二頭寄り添っていた。
その一頭の白い獣レドは、呼びかけに応えてくれた。ならばもう一頭の黒い獣も、どこかに存在しているのかもしれない。そうぼんやりと、考えていただけだ。
それだけで呼んだことになってしまうのか。ディーナはそう、恐る恐る尋ねてみた。
“充分だ。我々は、呼ばれる限り応え続ける”
「――私や・・・・・・シィーラに?」
“そうだ”
フィルガの言ったとおりかもしれない。確かに結界よりも先に行けば、自分は騒ぎの元となる可能性は充分ある。
「他には?他にはいないの?」
“我の知る限りではおらぬな”
「どうして。応えてくれるの?どうして?」
ディーナは苦しくなって、声を搾り出すように尋ね続ける。
“性質だからな。そういう風にできている”
「獣の本質として、と言う事?なぜ・・・なの?」
“そうさ。獣ならば『懐かしの風』を孕み持つ御方には、そうそう抗えぬものだよ”
「・・・・・・なつかしのかぜ?」
“ご存知ないのか?その風の源である処から、いらっしゃったのだろう?”
何のことかと尋ね返したが、ダグレスも同じく訊き返して来た。
ディーナは慎重に一言一言を発し、なかば責めるかのように詰め寄る。
「それは、あの橋のむこうがわのこと?」
“そうだ”
「――・・・・・・っ!」
何てことだ。ディーナはまだ自分がただの、記憶喪失の家出娘かもしれないという可能性を捨てていなかったのだ。というよりも、すがり付いていたかった。
シィーラも能力も契約も、何もかも関わりの無い自由な『ディーナ』に。
「私、やっぱりあの橋の向こうがわから来たの?」
“違うとお考えなのか?”
「わからないの。橋を渡ったことは覚えているけれど、その前のことは・・・・・・。記憶にないの・・・・・・」
記憶なんて、あっても無くても構わない。
本気でそう考えていたディーナだったが、改めて向き合うとあの日の霧にまかれていた心細さが蘇る。
自分のつま先さえもが捉えるのさえ、やっとだった。前も後ろも・・・それどころか自分がどこに立って、何を目指して進めばいいのかすらわからない。
今のディーナには、そんな危うさしか感じられない。
「私はどうして橋を渡ってきたのかな・・・・・・?」
ダグレスも、今度ばかりは答えてくれなかった。
* * * * * *
これといって特に何の変哲も無い、石を組み合わせて造られた橋だ。
緩く弧を描いた橋は、せいぜい馬車が一台渡れる分くらいの幅しかない。小規模なものだ。
「――これくらい・・・俺様の長い脚でなら、三十歩もあれば渡り切れちまうな」
ギルムードはそう見当つけてみたが、実際のところはもっと必要かもしれないとも思った。
まあ、大体だから。
橋自体が弧を描く造りなせいもあって、渡りきった向こう岸はここからはよく見えない。そんな終着地点が気になって仕方の無いギルムードだったが、渡ることはしなかった。
橋を渡りきった所から、ジャスリート家の私有地となるのだ。こちらはジャスリート公爵家の預かる管轄地帯だが、持ち主は国なのでここにこうして立っている分は何の問題もない。
――周辺には建物ひとつない。見張り塔はおろか、警護に当たる者の姿すら見当たらないが・・・ジャスリート家にのこのこ入っていった者は皆、不法侵入とみなされしまう。
もちろん取調べをきちんと受けてから、その者の処遇が決められる。
ギルムードは何度か間者を放ってみて学んだ。術の心得の無い者では、あの家に侵入は無理だと。
見張りなど立てずとも、あの家の者は気付くのだ。おそらく結界が張ってあるのだろう。
どういう仕組みかまでは見抜けないが、やましさ満点の自分は渡らないに限る。
情報はあの家に古くから出入りしている者を買収したり、正当な紹介状を持たせた侍女を侵入させて得ている。
それをギルムードはシィーラと出会ってからずっと、続けてきたのだ。
その努力のかいがあったと、今しみじみ感じている。ふたたび、シィーラに関わりのある少女を見逃さずに済んだのだ。
諦めなくて良かったと、心から思う。
ギルムードはさんさんと降り注ぐ陽の光が眩しくて、右手を額に当ててひさしを作って瞳を眇めた。それでも橋の向こう側一点からは、目を逸らそうとはしないまま見つめ続けた。
やや小高い丘になっているそのまた向こうには、ジャスリート家の館が目の端に入る。
今の所そうやって、そちらとこちらを注意深く見守り続けるしかない。
――ギルムードは微動だにせず、橋のこちら側で待機しているのだ。
“けして橋を渡らないと誓えるのならば、策はある”
そう言ったダグレスの“いいつけ”を守って。
一応資料は調べてみたのだが、橋自体がどちらの所有物なのかは記載されていなかった。
どちらも橋が無ければ行き来できないから、どちらの物でもありどちらの物でもないといった所だろうか。あちら側とこちら側をつなぐ橋は、境界までもがあやふやのようだ。
どこからがこちら側で、どこからがあちら側なのか。誰にも断言できないだろう。
色々と取り留めの無いことばかりが、浮かんでは消えていく・・・・・・。
名はディーナ。ゆるく波打った赤い髪。空色の瞳。すんなりと伸びた、華奢な手足。獣たちがこぞって平伏したがる『獣耳』の能力。・・・それがギルムードの知る少女の全てだった。
本当に考えているのは件の少女の事なのだが、未だ目にした事のない存在とあってはその輪郭くらいしか浮かんではこなかった。
与えられた情報の少なさもあるが、ギルムードの瞼の裏に強く焼き付けられているのは、シィーラなのだからなおさらだろう。
何としてもその少女を自分の元へと招きたい。
そうしたいのはやまやまだが、方法が見当たらなかった・・・・・・。
なにしろ、少女の存在は公表されていないのだから。
このまま公の場に彼女が現われるとは考えられない。公表されるとしたら、正式にジャスリート家と縁続きになってからだろう。そうなってからでは、遅いのだ。
ギルムードは苦虫でも噛み潰したかのように、唇を歪ませた。
『縁続き』――それはすなわち、ジャスリート家の跡取りの花嫁として迎えられ、結ばれる縁だ。
(冗談じゃない。頼むぜ、ダグレス・・・・・・!)
首尾よく事が運べば、少女と接触できる。そのためにはこうして、やきもきしながら待ち侘びるしかない。
ダグレスの言う、シィーラの加護から外れる境目ぎりぎりとやらで、大人しく。
ギルムードは期待を込めた瞳で、向こう岸を見つめ続ける。
どいつもこいつも、と言った所でしょうか。
ダグレスは早くも彼女の『お利口さん』と、化しつつあります。態度違うな。リゼライのときとはまるで☆
ギルムード、もうちょっとの辛抱だ!(多分)