* 霧の日の思い出
フィルガはディーナとシィーラが似ていても、まったく違っているのを楽しんでいます。
ディーナはお勉強中です。
思い描いていた展開からは、ずいぶんかけ離れた運びになっている。
しかしそれも、そう悪くはないとも思えた。
何よりも自分の願いがやっと、現実のものとなったのだと実感できる。
ディーナとああやって、軽口を叩き合えるのはフィルガの心を浮き立たせてくれる。
――応えてくれる相手のいる喜びに勝るものは無い。
フィルガは執務室に向かいながら、思い出しては顔がゆるんでしまう。
祖母にからかわれる前に、何とか引き締めねば。
歩きながら、両手で頬を打ってみる。
今年で十七回目の挑戦となった。
そのうち十六回は、肩透かしを食わされて終わっていた。やっと願いが叶えられたのだ。
それを思うと、なかなか顔は元には戻らない。
初めて儀式を執り行ったのは、六歳のとき。
我ながら粘り強いと褒めていいのか。諦めが悪いというか。
(何にせよ、かなり痛いものがあるのは確かか・・・・・・)
フィルガは苦笑する。ディーナが知ったら、執着の深さにまた身構えることだろう。
多分もう、気がついていそうだが。
自分が五歳だった春の早朝に、母は消息を絶った――。
フィルガの目の前で、母は一人で橋を渡って行ってしまった。
あの日も濃い霧が立ち込めていた。
今も霧の中に立つと、あの人の後姿が蘇ってしまう。けして振り返らなかったシィーラ。
五歳だった子供は、成人してから二年目を迎えている。
* * * * *
ディーナはベッドのへりを背もたれに、足を投げ出した格好で資料をめくる。
ずっと同じ姿勢でいる事にくたびれたのだ。椅子から下り、靴も脱いだ。
腹にクッションを抱え置き、腕を預けると楽だった。
資料を読み進めるうちに、ディーナの眉根はどんどん寄っていく。
あまりにも難しすぎて、理解できない。
(知れば知るほど、益々解らなくなるとはコレは如何に・・・・・・)
コレを読み解くほどの知識が、自分には足りないと痛いほど知れた。いきなりの挫折感。
肝心の解術の心得とやらはまず、聖句を学び理解せねばならず、聖句を知るためには獣たちの特徴――属性やら習性やらを――理解せねばならない。・・・らしいのは解った。
ディーナは獣たちに対して、そんな専門的な知識で見解した試しすら無い。
しかしそれは必要とされており、獣の属性に合わせて聖句の分類も合わせて用いることが重要である――云々。
聖句は全部で十章から成る。
それは記録は禁忌とされ、書物はない。
だったら、どう学べというのだろう。師について、指導を仰げという事か?
師――。
『解らない事があったら、いつでもどうぞ』
そう言って、笑った男の顔が浮かぶ。
嫌だった。フィルガが余裕だったわけだ。
頼らなければ進めそうも無いなんて、認めるのすら嫌だ。
ディーナは頭を振って気を取り直し、もう一度資料と向き合う。
* * * * *
記憶の中の母はたおやかで、いつも穏やかに微笑んでいる人だったように思う。
白を基調とした薄布を重ねたドレスを好み、清楚な身なりをしていた。
白孔雀とはよく言ったものだ。確かに母の面影はそれだ。
最初はディーナも、そういった格好ばかりさせられていた。
似合わないわけではなかったが、違和感を覚えた。
彼女がシィーラとはハッキリと違う、赤い髪の持ち主だというのも大きかった。
白のドレスを身にまとうと、彼女の印象が際だって鮮烈すぎたのだ。
近頃は祖母も同じことを感じたらしく、色鮮やかな染物を選んでいる。
ディーナにはもっと相応しい物があるのだ。あの赤い髪と、空色の瞳を栄えさせる物。
今日彼女が着ていたものは、翠の染めが美しい軽やかなドレスだった。
ディーナの希望を考慮して、装飾といえば胸下の切り替えの刺繍が細やかなことくらいだが、ディーナの持つ雰囲気を上手い具合に落ち着かせてまとめていた。
ディーナの髪は自然とゆるやかに波打っているのも手伝って、彼女を華やかに見せるものだから、少し大人っぽくするように演出すると良いらしい。
――というのが、ルゼ及び侍女たちの見立てだ。
それにはフィルガも同感だった。もっとも、彼女等に口出しする気は始めから無いが。
痛む節々を伸ばす。フィルガは執務室で休憩を取っていた。
ルゼは領地の視察のために、先刻出かけたばかりだ。
いつもなら供をするが、ディーナを館に一人にしたくない。
祖母も同じらしく、留守番を言いつけられた。
この間のような事が起きないとも言い切れないし、実際何かあったときに対処できるのはフィルガだけだ。
(ディーナ・・・・・・)
多分今頃、頭を抱えているだろう。
賢くていくら能力に恵まれているとはいえ、いかんせん――素人なのだ。
限界に気がついて、投げ出すだろうか?
否。しないか。あの性格では、とうてい諦めるとは思えない。
思い出して、吹き出してしまう。今に見ていろと切った啖呵は、本気の宣言だった。
たおやかさとは対極にあるその在り方が、どうしても母を思い出させる。比べてしまう。
フィルガはその差異に、ひどく惹かれる。
シィーラ。自分の母親。いつも身の回りには、獣たちが憩っていた。
母と呼ぶにはあまりに儚い風情の、少女のような女性だった。
* * * * *
あの日のことはよく覚えている。フィルガは灰色の瞳をすがめてから、ゆっくりとまぶたを閉じた。
シィーラが消息を絶ったあの日。
春のまだ浅い早朝で、霧が深く立ち込めていた。
フィルガは母の歌声が聞こえた気がして、目を覚ました。
ベッドを抜け出し、寝間着のまま庭へ出た。シィーラは毎朝、庭園を散歩するのを日課としていたからだ。
霧の中、耳を掠める歌声を頼りに母の姿を探した。その時は何も疑問に感じなかった。
なぜ小さく口ずさまれるだけの微かな歌声が、ああも強く耳に届くものだったのか。
今になってもわからない・・・・・・。
霧で阻まれた視界の中を行き来する母は、まるで雲間を渡るかのようにも見えた。
やっと見つけたその姿に不安を覚えて、必死に駆け寄って勢い良く抱きついた。
シィーラは楽しそうに笑った。しがみつく子供をしばらく抱きしめてから、手を握ってくれた。それでやっと安心できた。
雲と雲の間を渡ることが出来るのは、妖精や天の使いといった、生身の無い存在だ。
そう、祖母や母が聞かせてくれたおとぎ話の中だけのもの。
母の手のぬくもりは本物だ。ちゃんと、ここにいる――そう、安堵した。
母は自分の手を引くと、ゆっくりと歩き出した。庭園を抜けて、正門まで抜けて。
遠ざかる館と母の顔とを、代わる代わる見ながら尋ねた。
『どこに行くの?』
母は答えなかった。ただ手をやんわりと、握り返してくれるだけだった。
唇はずっと、小さく小さく歌を口ずさみ続けていた。
やがて橋にたどり着き、フィルガの手を離してからも、ずっと――。
母は一人で橋を渡って行った。
その後ろ姿が霧に飲み込まれて行くのを、フィルガは追いかけることも出来ず、黙って見送るしかなかった。
身体は動かせなかった。声も出せなかった。
瞬くことすら封じられて、立ち尽くしているしかなかった。
切れ切れに届いていた歌声が、完全に止むまで・・・・・・ずっとそうしていた。
やがて自分の背を押す風を感じた。
風は霧を振り払って、見通しを良くしてくれた。
だが、母の姿までも振り払ってしまったのか。
もはやシィーラはどこにも、見当たらなかった。
ディーナ、フィルガってかなり優秀なんじゃ・・・?
と、やっと気がつき掛けてます。
フィルガはフィルガでがんばったのですよ。
まあ、それはおいおい出てきます〜。
お付き合い感謝★感謝です!ありがとうございます。