冬の蛍
携帯電話をかける。
夜の底から、星のない暗闇でかけたとしても、その小さな機械は通話中の証拠であるライトを小指の先の、そのまた先ほどの密やかさで灯す。
だから、きっとわたしも彼も、冬の蛍のようにゆらりゆらゆらと揺れて、夜を横切って見えるだろう。仄かで儚い灯りは、それでも確実にわたし達が繋がっている証拠なのだ。
髪を切ったよ、と彼が言う。
どんな色にしたの、とわたしが聞く。
噛み合ってないじゃん会話が、と彼が笑う。
茶色い髪をしていたのだけれど、彼は色が白くて顎がシャープなので、本当は真っ黒い髪が似合うとわたしは思っているのだ。目も細くてあまり笑顔を顔には出さない彼は、穏やかそうに見えるくせに目付きが鋭いので、黒い髪をしていたらきっと夜が似合ういい男になると。
お前が黒い方がいいって言ったから、と照れたような彼の声がする。
それがとても嬉しくて、わたしの言葉を彼が気にしてくれているその愛情の存在が幸せで、ふ、の字で笑うと彼がもっと照れたかのように、なんだよ、と言った。
もしも、わたしも彼も遠くに離れていなくて、携帯電話がただ単に待ち合わせの場所を決めたり時間を決めたりするものであったなら、こんなに切なさを含んだ冬の蛍にならなくても済むのに、と少しだけ思う。けれども、その切なさを知っている分だけ強く結ばれているという事を、錯覚でもいいから感じる事もできる。
次はいつ帰ってくるの、とわたしが聞く。
ちょっとまだ分からないけど、と彼が言葉を濁す。
恋人は元気、と沈黙を破る他の言葉を捜せなかったわたしが言ってしまう。
少し間があいて、もう恋人じゃなくて奥さんだよ、と小さな声が返ってくる。
自分で尋ねてしまった事なのに、その答えに戸惑ってしまってわたしはまた黙り込んでしまう。死んだ貝の口みたいに。こじ開けようとするなら割れるしかない。
わたし達は、友達だった。ずっと昔から。誰よりも仲の良い、まるで兄妹みたいだと周囲の人間が口を揃えて感心したように、時々呆れたようにそう言ってわたしと彼を喜ばせた。わたし達は兄妹みたいだった。
きっと互いに好き合ってはいたのだろうけれど、少なくともわたしは彼の事が大好きだったけれど、上手く行かない事は世の中に溢れ返るほどたくさんある。兄妹のように仲が良すぎて、わたし達は恋人になる事が出来ないまま、彼には別の女性が、わたしには別の男性がそれぞれ運命によって割り当てられた。
帰る時は土産なににしよう、と彼が作ったように明るい声を出す。
会えるんなら特に欲しいものは、とわたしもふざけたような声を作る。
ふざけて言わないと、何かが壊れる気がする。
一番好きな人とは一生友達でいるためにもややこしい関係にならないでいなくちゃいけないんだよ、と誰かが言っていたのを思い出した。恋人や、配偶者にはならず、永遠に友達で居続ける事。それが、大切な人を失くさないための極意なのだと。
夜の中でかける電話は正しくない気がする。それは淫靡で、もしくは不吉だから。
次に会う時はアイスクリームを奢って、と急いでわたしが言った。
アイス? と彼が不思議そうな声を出す。
そうメロンの味のアイスクリーム、とわたしが答える。
本当はそんなものは欲しくなかったのだけれど、何かしら約束をしていないともう会わなくてもいいような気になってしまいそうで、それが怖くて慌てて言ったのだ。
携帯電話のライトが光っている。
わたし達は冬の、頼りない蛍になっている。
内緒の想いが同じだけの重さを持ってふたりの心に沈んでいる、それを知っていながらもわたし達は何も言わない。言えば終わってしまう何かがあるのだ。
メロンアイスね、と彼が笑う。
お前はまだ子供みたいなものが好きだなと、彼が笑い続ける。
そうよ、とわたしは少し悲しくなって言う。
ずっと子供のままよ、と言う。
わたし達は蛍のままでいる。
携帯電話の電池が切れるまで。馬鹿みたいに、夜のざらざらした底に座り込みながら冬の蛍のままでいる。
生命短い冬の蛍のままでいるのだ、わたしも彼も、気付かない振りをしたままで。