第9話 閉ざされた地下、悪役令嬢は“鍵”になる
石扉は、びくともしなかった。
掌を当てても、叩いても、冷たい沈黙が返るだけ。
私は息を吐き、背を壁に預けた。
胸の奥が痛い。怖い。――でも、怖がっているだけでは何も動かない。
「……レティシア様」
セシルの声が震えている。
彼女は石扉を見つめたまま、祈りそうな手をぎゅっと握りしめていた。
「祈らないで」
私は強く言った。
きつく聞こえたかもしれない。でも必要だった。
セシルがはっとして手を下ろす。
「ごめん……」
「謝らなくていい。あなたの癖みたいなものよね。怖いと、祈りたくなる」
言いながら、私も自分の癖に気づく。
怖いと、仮面を被りたくなる。
私たちは、扉の反対側の通路を進んだ。
地下は迷路だが、王宮の古い地下道には“呼吸”がある。空気の流れ。湿り気の濃淡。外へ繋がる方向の気配。
「こっち」
私が先に歩き出すと、セシルが驚いた顔をした。
「どうして分かるの?」
「分からない。……でも、嫌な場所と、まだ息ができる場所の違いは分かる」
それは勘だ。
あるいは、掌の刻印が熱で道を示しているのかもしれない。
曲がり角をいくつか越え、やがて小さな石室に出た。
そこには台座が一つ。壁には古い祈祷文の刻まれた板。蝋燭立ては倒れ、長い間使われていない匂いがする。
でも――床だけが、妙に綺麗だった。
最近誰かが通った跡。乾いた靴底の粉。
「ここ、誰かいる」
セシルが小さく言った。
私も頷く。
そして私は、台座にあるものを見つけてしまった。
金属の輪。
さっき石室で見たものと同じ形。けれどこちらは小さく、手首に嵌める程度のサイズだった。
掌の刻印が、焼けるように熱い。
「……触るな」
セシルが私の袖を掴む。
彼女も、本能で理解している。これは危険だ。
「分かってる。でも、これが“鍵”なら」
私は自分の声が乾いているのを感じた。
エドガーは扉の向こう。時間が経てば経つほど不利になる。
私は手袋を取り出した。
刻印を隠す布。けれど今は逆に、刻印を“扱う”ための布。
慎重に布越しに輪を掴む。
――熱い。触れた瞬間に、指先が痺れる。
目の前が一瞬白くなり、耳鳴りがした。
それでも私は輪を離さない。
(逃げない)
輪の内側に、細い刻印が彫られている。
円と十字。さっきの封印と同じ。けれど、もう一つ――私の掌の焼印に似た、輪の形。
私は息を呑んだ。
「レティシア様……?」
セシルの声が遠い。
私の視界は輪に吸い込まれるように狭くなる。
輪が、私の掌へ引き寄せられる。
まるで、最初からそこに戻るべき場所だと言うように。
「……だめ」
私は自分に言い聞かせた。
けれど、刻印が熱く脈打つ。
そして、壁の向こうから足音が聞こえた。
複数。
急いでいる。こちらへ向かっている。
「隠れて」
私はセシルを壁際へ引いた。
石室の影へ身を寄せ、息を殺す。
足音が近づき、やがて低い声が響く。
「ここだ。鍵が残っているはずだ」
男の声。
さっき石室で私たちを待ち受けた、黒い法衣の者とは違う。もっと貴族的な響き。
「聖女は逃した。だが刻印持ちはまだ地下にいる。……急げ。あれさえ起動できれば、王太子など関係ない」
王太子。
その名前が出たことで、私の頭の中の糸が繋がる。
(王太子の命令じゃない。別口――王太子を“関係ない”と言える立場)
つまり、王太子以上か、王太子と別系統の権力者。
足音が石室の入口で止まった。
私の心臓が跳ねる。
次の瞬間、灯りが入った。
蝋燭の火。護衛が火を持っている。
入ってきたのは二人。
一人は礼服姿の男。顔立ちは整っているが、目が冷たい。
もう一人は兵。宗教の護衛ではない。王宮の私兵のような装備。
礼服の男が台座を見て、舌打ちした。
「……まだある。良かった」
彼の指が輪へ伸びた。
私は咄嗟に動いた。
輪を布ごと掴み、台座から引き剥がす。
金属音が響く。
静寂が破れ、男がこちらを向いた。
「誰だ」
目が合う。
私は外套のフードを深く被っている。だが、声でばれる。
「……レティシア」
男が笑った。薄い笑み。
「やはり生きていたか。断罪は便利だな。余計な者を“正義”で片付けられる」
私は背筋が凍った。
この男は、断罪を舞台装置として使った側だ。
「あなたが、裏で動かしたのね」
「動かした? 違う。必要なものを、必要な場所へ戻すだけだ」
彼の視線が、セシルへ移る。
暗がりにいるのに、聖女の気配だけは隠せない。
「……聖女もいるのか。運がいい」
セシルが震えた。胸元が弱く光る。
「祈るな」
私は小声で言い、彼女の手を握った。
彼女の光が強まれば、この男は喜ぶ。
礼服の男が言う。
「刻印持ち。鍵を渡せ。お前は“器”として生き残らせてやる。余計な自我はいらない」
器。
この男も同じことを言う。宗教と貴族が同じ計画を共有している。
私は笑った。
悪役令嬢の笑み。今度は、誤魔化しじゃない。
「お断りですわ。器は、割れるものよ」
私が輪を握りしめると、刻印が熱を増した。
輪が、まるで私の掌に嵌まろうとする。
(やめて。起動する)
でも――起動させなければ、エドガーを助けられないかもしれない。
この輪が鍵なら、扉を開ける鍵。あるいは、彼を追う者を止める鍵。
礼服の男が合図すると、兵が剣を抜いた。
狭い石室。逃げ道は一つ。塞がれている。
私は覚悟を決めた。
「セシル。光を、細く。刃じゃなくて、線にして」
「……線?」
「眩しくしない。焦がすだけ」
セシルは頷き、呼吸を整える。
胸元の光が一点に集まり、細い白い筋になる。
その筋が兵の剣先を舐め、金属がじゅっと焦げた。
兵が怯み、一瞬だけ動きが止まる。
「今!」
私は輪を床へ投げた。
衝撃で輪が跳ね、石に当たって鳴る。
同時に、私の掌の刻印が熱く脈打ち、輪が淡く光った。
石室の床に円が浮かび、空気が引き絞られる。
「何を……!」
礼服の男が叫ぶ。
だが遅い。
円の光が、扉の方向へ伸びた。
まるで道を示すように。あるいは――命令するように。
石壁が、震えた。
遠くで、封印が解けるような音。
私は息を呑んだ。
(扉が……開く? エドガーのところへ繋がる?)
礼服の男が笑った。勝ち誇ったように。
「そうだ。起動だ。いい子だ、器」
私は吐き気がした。
私の意思が、利用されている。
セシルが泣きそうな声で言う。
「レティシア様……やめて……!」
「……やめたいわよ」
でも、止め方が分からない。
輪と刻印が共鳴し、私の身体の中の何かを引っ張り出す。
その瞬間、石室の入口で金属が鳴った。
剣が、壁を斬る音。
聞き覚えのある低い声が響く。
「――触るな」
エドガー。
彼が、石室の入口に立っていた。
肩の裂け目は広がり、血が乾いて黒くなっている。それでも瞳は鋭く、私だけを見ている。
礼服の男の顔が歪む。
「生きていたのか……近衛」
「お前の計画も、ここまでだ」
エドガーが一歩踏み込み、礼服の男へ剣先を向けた。
しかし私は、それどころではない。
輪の光が、さらに強まる。
床の円が広がり、私の足元まで飲み込む。
「エドガー……!」
私は叫んだ。
助けて、とは言わない。言えない。私は悪役令嬢だから。
代わりに言う。
「……止めて。これ、私、止められない」
エドガーの目が細くなる。
彼は迷わず私へ来た。礼服の男に背を向ける危険を承知で。
「手を出せ」
「……嫌。触ったら、あなたも巻き込む」
「巻き込め」
短い言葉。
それは命令じゃない。覚悟の表明だ。
彼の手が、私の手を取った。
刻印の上から、手袋越しではない、直接。
熱が走る。
私の中の光と黒が、彼の中へ流れ込む感覚。
でも――その瞬間、輪の光が“揺れた”。
私ひとりの共鳴ではなく、別の“意志”が混ざったから。
エドガーが低く呟く。
「……なるほど。鍵は刻印じゃない。“選択”だ」
選択。
私が起動させたのは、私が追い詰められたから。
でも今、私は――自分で止めたいと選んだ。
エドガーの指が私の掌を強く押さえ、呼吸を合わせる。
「息を合わせろ。セシル、光を落とせ。今は供給を止める」
セシルが必死に呼吸を整え、光を弱める。
輪の光が少しずつ薄くなる。
礼服の男が叫んだ。
「やめろ! 起動を止めるな!」
兵が斬りかかろうとする。
だがエドガーが片手で剣を振り、兵を弾く。もう片手は、私の掌を押さえたまま。
「レティシア。今だ。お前が“止める”と決めろ」
私は唇を噛み、目を閉じた。
(私は器じゃない)
(私は、私)
私は息を吸い、吐いて、胸の奥の熱に言い聞かせた。
(止まれ)
輪の光が、ふっと消えた。
床の円が薄れ、空気が元の重さに戻る。
私は膝が抜けそうになり、エドガーに支えられる。
礼服の男が顔を歪め、低く笑った。
「……面倒だな。だが、次はもっと確実に縛る」
そう言い残して、男は兵とともに退いた。
追う余裕はない。追えば、ここでセシルと私が危険になる。
静寂が戻る。
蝋燭の火だけが揺れている。
エドガーが私の耳元で言った。
「大丈夫か」
大丈夫じゃない。
でも、私は頷いた。
「……ええ。今は」
セシルが泣きながら駆け寄る。
「レティシア様、エドガー様……!」
私はセシルの頭を一度だけ撫でた。
慰めじゃない。確認だ。ここにいる、という。
そして私は、輪を見た。
台座の上に戻っている。まるで、何事もなかったみたいに。
でも違う。
私は理解した。
あの装置は、私とセシルを“鍵”として使う。
そして鍵穴は、王宮の地下だけじゃない。もっと大きな何かに繋がっている。
逃げ続けるだけでは、終わらない。
なら――壊すしかない。
私はエドガーの手を見た。
刻印に触れた彼の指先が、微かに赤い。熱の痕。
「……あなた、巻き込んだわ」
「最初からそのつもりだ」
彼はそう言って、私の手を離さなかった。




