第7話 悪役令嬢は手袋を脱ぎ、騎士は真実に近づく
王都の裏路地は、夜の匂いが濃い。
酒場の残り香、湿った石壁、遠くの馬車の軋む音。人目の少ない通りを選びながら、エドガーが先導した。
「今夜は移動する。ここも安全じゃない」
彼の声は落ち着いている。けれど、裂けた肩口から滲む血が、その落ち着きの代償を語っていた。
「傷、まだ」
「浅い」
浅いと言い切るには赤い。
私は視線を逸らし、代わりに足を速めた。追いつこうとするほど、彼の背中が遠く感じる。
セシルは黙ってついてくる。
胸元の光は弱まっているが、完全には消えない。灯火のように、彼女の命と連動している。
やがてエドガーは、古い修道院跡の裏門へ向かった。
崩れかけた石壁。扉は錆びているが、鍵は新しい。
「ここ?」
「一時的な隠れ家だ」
門が開く。
中は荒れているのに、不思議と“人の手”が入っていた。枯れ葉が払われ、踏み跡が残っている。
礼拝堂の脇の小部屋へ通されると、蝋燭が一本だけ灯っていた。
薄い光の中で、私はようやく息を吐いた。
セシルが壁にもたれ、震える指で胸元を押さえる。
「……大丈夫?」
私が問うと、彼女は小さく頷いた。
「うん。さっきより、落ち着いてる。……でも、怖い」
「怖いのは普通よ」
自分の口からそんな言葉が出たことに、少し驚く。
悪役令嬢は、他人の恐怖を肯定する役じゃないはずなのに。
エドガーが蝋燭の火を見て、部屋の隅の椅子に腰掛けた。
剣は手の届くところに置き、周囲に視線を走らせる。休んでいるようで、休んでいない。
「話せるか」
短い問い。
誰に向けたかは明白だった。
私は手袋を見た。
内側の刺繍が、まだ微かに熱い。まるで、今も何かが呼吸しているように。
「……話す前に、確認したいことがあるわ」
「言え」
「あなたは、私を“道具”として必要だと言った。なら、私にも条件がある」
エドガーは頷く。
あの夜から、彼は私の“対等”という言葉を守っている。
「セシルを、ここから切り離して。これ以上巻き込まないで」
セシルが目を見開く。
「レティシア様、わたし――」
「あなたが望んでも、望まなくても、あなたの力は餌になる。あなたがいる限り、追手は私だけじゃなく、あなたも狙う」
それは拒絶ではない。
むしろ、彼女を守るための線引き。
エドガーが少し黙り、言った。
「無理だ」
「……どうして」
「今夜の闇は、聖女を道標にして動いている。聖女を離せば、別の手段で探す。むしろ危険だ」
合理的な答え。
私は悔しさを飲み込み、頷いた。
「なら、せめて彼女の安全を最優先にして」
「それは同意だ」
即答。
セシルの肩が、少しだけ落ち着いた。
私は息を吸い、手袋の留め具に指をかけた。
外すのは、怖い。
これを外せば、“私の中の真実”が外へ滲む気がした。
けれど、もう逃げられない。
「セシル。もしあなたが、また“見える”としても――言葉にしないで。いい?」
セシルは涙を浮かべたまま頷いた。
「うん……約束する」
私は手袋を脱いだ。
指先が冷たい空気に触れ、ぞくりとした。
そして、掌の中央にある小さな痕が露わになる。
火傷のような、輪の形。
古い焼印の名残。貴族のものではない。祈祷でも、呪いでもない。――“刻印”。
エドガーの目が細くなる。
「それは……」
「知らなかった。……でも最近、時々痛む。触れられると、熱くなる」
私は言いながら、胸の奥がぎゅっと縮むのを感じた。
ずっと見ないようにしてきた。自分の“違和感”を。
エドガーは立ち上がり、私の掌を取ろうとして――途中で止めた。
許可を待つ仕草。
私は頷いた。
彼の指が、慎重に掌の痕に触れる。
熱が走る。
痛みではない。呼び水のような刺激。
「……やはり」
エドガーが低く呟く。
「やはり、何」
「王宮の地下にある祈祷室。そこに似た刻印がある。古い儀式のためのものだ」
王宮の地下。
そこに私の痕と同じ刻印。
私は笑いたくなった。
あまりにも、私の人生が最初から王宮に繋がっている。
「私、誰なの」
声が震えた。
悪役令嬢の仮面が、とうとう剥がれかける。
エドガーは、私を見たまま言う。
「今は断定できない。だが――三年前の“聖女選定”とお前は同じ線にいる」
セシルが息を呑んだ。
「わたし……選定、って……」
「王宮が聖女を“見つけた”夜だ」
エドガーの言葉に、セシルの頬が青ざめる。
私は掌を握りしめた。
刻印が、内側から脈打つように熱い。
「……それで、あなたは何をしたいの」
私が問うと、エドガーは迷いなく答えた。
「王宮へ戻る。地下へ入る。証拠を掴む」
「無茶よ」
「無茶でもやる。今夜、刺客が動いた。放っておけば、次はもっと大きい手が来る」
私は理解してしまった。
彼は最初から、命を張るつもりだ。私を守るためというより、真相を暴くために。
――そして私は、その道に巻き込まれている。
セシルが小さく声を出す。
「……わたしも、行きたい」
私は反射的に言った。
「だめ」
「でも……わたしの力が必要なら」
「必要でも、だめ。あなたは狙われる」
セシルは唇を噛んだ。
その悔しさは本物だ。守られるだけでは、彼女も壊れる。
エドガーが静かに言う。
「行かせない。だが、役割はある」
セシルが顔を上げる。
「役割?」
「お前は、光を制御する訓練をする。今夜みたいに、暴走させないために」
「……できるかな」
「やるしかない」
短いけれど、彼なりの励ましだった。
私は掌を見つめた。
刻印が消える気配はない。むしろ、これまで隠されていたものが表へ出ようとしている。
そして私は、ひとつだけ確信した。
私は“悪役令嬢”として断罪されたのではない。
断罪は、ただの舞台装置。
本当の目的は――私の口封じ。私の存在そのものの抹消。
(私が、何かを知っているから。何かを持っているから)
私は顔を上げ、エドガーを見た。
「……私も行く」
エドガーの目が、わずかに揺れる。
「危険だ」
「危険だから行くの。あなたに任せて待っていたら、私は永遠に“守られるだけの駒”になる」
言ってしまってから、胸が熱くなった。
守られることが嫌なんじゃない。守られるだけで終わるのが怖い。
エドガーはしばらく黙り、やがて頷いた。
「……条件がある」
「何」
「勝手に動くな。俺の背から離れるな」
命令のようで、約束のような言い方。
私は小さく笑った。
「背中、広いのね」
「狭い。……だから近くにいろ」
その言葉に、胸がきゅっと鳴った。
こんな状況で、こんなことを感じるのは馬鹿げているのに。
蝋燭の火が揺れ、影が壁に伸びた。
修道院の外で、風が鳴る。
私たちは明け方前に動く。
王宮の地下へ、真実の匂いのする場所へ。
悪役令嬢の仮面の奥で、私は静かに決意した。
――今度は、私が選ぶ。
誰かに決められる結末じゃなくて、自分で掴む結末を。




