第6話 逃走の階段、聖女は震え、令嬢は決意する
石の階段は冷たく、湿っていた。
壁の苔が、指先にぬるりと触れる。私は片腕でセシルを支え、もう片腕で手すりを探りながら降りた。
背後で、石扉が閉まる重い音。
その向こうに残したものを、私は考えないようにした。
――エドガー。
考えた瞬間に、足が止まりそうだったから。
「レティシア様……ごめんなさい……」
セシルの声は掠れている。
光を抑えようとしているのか、胸元を押さえたまま肩で息をしていた。
「謝らないで。今は落ち着いて歩くこと」
「でも……エドガー様が……」
名前が出た途端、胸の奥が刺される。
私は答えず、彼女の体を少し強く支えた。
階段は長い。
数えきれない段を降り、やがて通路が横へ伸びる。空気が変わった。地下の冷たさの中に、煤と油の匂いが混じる。
(昔の排水路……? それとも工房跡)
王都の地下は迷路だ。
だからこそ、追手から逃げるには向いている。だが、迷えば終わりでもある。
セシルがふらついた。私は立ち止まり、壁際に寄せる。
「座って。少しだけ」
「いいの……? 早く行かないと……」
「あなたが倒れたらもっと遅くなる」
自分で言って、さっきエドガーが口にした理屈と同じだと気づく。
あの冷徹さが、私の中に移っている。
セシルは頷き、石に腰を下ろした。
その瞬間、彼女の胸元の光がふっと強まる。本人の意思に反して、呼吸に合わせて明滅する灯のように。
「……止められない。わたし、怖い」
彼女の目から涙が落ちた。
私は言葉を探し、見つけられずに口を閉じた。
慰めの言葉は、私には似合わない。
私は悪役令嬢。優しさは誤解を呼ぶ。――そう思ってきた。
けれど今夜、彼女が狙われているのは、彼女が“悪い子”だからじゃない。
私と同じで、ただ“利用できる”からだ。
「セシル」
私は低く呼んだ。
「あなたは、何も悪くない。……でも、無知でいるのは危険よ」
セシルが瞬きをする。
私は続けた。
「今夜、あなたが眠くなったのは、偶然じゃない。あなたが“導かれた”のも、偶然じゃない。あなたの力は……あなたの意思とは別に動かされることがある」
「そんな……誰が……」
誰が。
答えは、いくつもある。
王宮の誰か。宗教組織。貴族。あるいは、乙女ゲームの“運営”のようなもの。
けれど私は、確かなことしか言えない。
「わからない。でも、あなたを大事にする人が皆、あなたの味方とは限らない」
セシルは小さく息を呑んだ。
その表情が、ようやく“現実”に触れた顔に見えた。
私は立ち上がり、彼女の手を取る。
「行くわよ」
「……うん」
彼女は立ち上がり、私の手を握り返した。
その瞬間、私の手袋の内側が熱を持つ。
まただ。
さっきから、セシルに触れるたびに、私の中の何かが反応する。
(私の血……それとも、刺繍……)
手袋の刺繍は“王宮の祈祷服の縫い方”だと、エドガーが言った。
つまり私の持ち物は、私の出自と繋がっている。
今夜、秘密を隠すのは難しくなっている。
セシルの力が私に触れるたび、私の中の蓋が開きかける。
通路を進むと、やがて鉄格子が現れた。
その向こうから、微かな外気。夜の匂い。出口に近い。
だが、格子の前に――影があった。
人の影。
灯りがないのに、そこに“黒”が立っているように見える。
私は足を止め、セシルを背にかばった。
「……誰」
影が、ゆっくり顔を上げる。
覆面ではない。フードで顔を半分隠した男。目だけが光っている。
「お嬢様。お迎えに参りました」
声は丁寧。
丁寧すぎて、気持ちが悪い。
セシルが震えた。胸元の光が強まる。
男の周囲の空気が、嬉しそうに歪んだ。
(こいつが、セシルの光を餌にしている)
私は息を吸い、悪役令嬢の声を作る。
「誰の遣い?」
男は笑った。
口元だけが見える。笑みが薄い。
「名は必要ありません。お嬢様は“不要”なのです。ですが、聖女様は――」
言い終わるより早く、男の手が上がった。
黒い糸のような魔力が、セシルへ伸びる。
「セシル!」
私は咄嗟に彼女を引いた。
糸が私の腕に絡み、肌が焼けるように痛んだ。
声を上げそうになった瞬間、格子の向こうから金属音。
鉄が鳴る、乱暴な音。
そして、聞き慣れた低い声が落ちた。
「そこまでだ」
――エドガー。
格子の向こう。闇を裂くように、彼が立っていた。
息が乱れている。制服の肩口が裂け、血が滲んでいた。それでも瞳は鋭い。
私の胸が、痛いほど跳ねた。
(生きてる)
それだけで、足が震える。
男が舌打ちする。
「しぶとい。近衛の犬」
「犬で結構」
エドガーが剣を構える。
格子は、彼が内側から外したのだろう。鍵がすでに壊れている。
男が私を見て、にたりと笑う。
「お嬢様。あなたは何も知らないまま死ぬ予定でしたのに。余計なことを」
余計なこと。
生きようとしたことが。
私は笑った。
悪役令嬢の笑み。けれど、その内側には別の熱がある。
「予定通りにいかないのが、人生ですわ」
男の顔が歪んだ。
次の瞬間、魔力の糸が三本に増え、私とセシルとエドガーを同時に狙う。
エドガーが斬る。
糸は切れたように見えたのに、すぐ繋がる。生き物みたいに。
「切れない……!」
私が叫ぶと、エドガーが短く言った。
「切るんじゃない。焼け」
「焼く?」
「聖女の光を借りろ」
セシルが目を見開く。
「わたしの光は……闇を呼ぶことも……」
「制御しろ。祈るな。呼吸で整えろ」
エドガーの声は命令なのに、妙に落ち着いている。
セシルの肩が震え、やがて小さく頷いた。
「……やってみる」
彼女が目を閉じ、深く吸う。吐く。
胸元の光が、乱暴な点滅から、一定の灯へ変わる。
その光が、糸に触れた。
白が、黒を焦がすように滲ませる。
男が呻いた。
「――っ、やめろ!」
エドガーがその隙に踏み込み、男の腕を剣の柄で打った。
男がよろける。糸が緩む。
私は、今しかないと判断した。
セシルを抱えるようにして、エドガーの背へ回る。
「エドガー卿、出口は」
「この先だ。地上へ出る」
彼が指し示す先には、石壁に埋もれた小扉。
外の夜気が漏れている。
男が最後の悪あがきのように、糸を放った。
糸は私の手袋へ絡む――そして、刺繍が強く熱を持った。
白と黒が、私の手の中で衝突した。
目の前が真っ白になる。
耳の奥で、誰かの泣き声がした。子どもの声。
『いや……やだ……』
記憶。
私の記憶。封じていた夜の、血の匂い。
私は膝をつきかけた。
その肩を、エドガーが支えた。
「見るな。今は」
囁きが、耳に触れる。
私は必死に頷き、白い眩暈を噛み潰す。
セシルが私の手を握り、光を弱める。
男の糸が焦げ、ぷつりと切れた。
「……っ、撤退!」
男は呻き、闇に溶けるように後退した。
完全に逃した。けれど、今は追えない。
エドガーが小扉を開ける。
外は夜。王都の裏路地。冷たい風が、私の頬を打った。
私たちは三人で、闇の中へ出た。
振り返れば、地下の入口はただの壁に戻っている。
追手は一度引いた。だが終わりではない。
エドガーが私を見た。
灰色の瞳が、私の手袋――熱を持った刺繍を見ている。
「……反応したな」
私は笑って誤魔化すべきなのに、笑えなかった。
代わりに、息を吐いて言った。
「隠し通せると思ってた。でも無理ね。……私の中に、何かがある」
セシルが唇を噛む。
「レティシア様……わたし、もっと見えそうで……怖い」
「見なくていい」
私が言うと、エドガーが静かに頷いた。
「見せない。俺が間に入る」
その言葉に、胸が熱くなる。
まただ。守られることに慣れていないのに、慣れてしまいそうで怖い。
私は夜空を見上げ、決めた。
もう、悪役の仮面だけでは足りない。
生き残るために――私は自分の“真実”と向き合わなければならない。
たとえそれが、誰かを傷つける刃だとしても。




