第12話 夜の来訪者、悪役令嬢は「器」と呼ばれて笑う
夜は静かに更けていった。
旧客室棟の窓は小さく、外の音はほとんど入らない。聞こえるのは、蝋燭の芯が弾ける微かな音と、自分の呼吸だけ。
私は椅子に座り、手袋を膝に置いたまま待った。
掌の刻印は落ち着かない。疼きは波のように寄せては引く。
扉の外に、気配がある。
エドガーがそこにいる気配とは違う。
彼の気配は、岩のように動かない。
今近づいているのは、もっと粘り気のある気配。ゆっくり、確実に、獲物を撫でるような気配。
鍵穴が、かすかに鳴った。
私は呼吸を整える。
王太子の言葉を思い出す。壁に耳がある。ここで叫べば、敵の思う壺だ。
――扉が開いた。
入ってきたのは二人。
ひとりは、黒い法衣の男。顔の半分が布で覆われ、目だけが光っている。
もうひとりは兵。王宮の兵装に見えるが、徽章がない。
法衣の男が、丁寧に頭を下げた。
「夜分に失礼いたします、レティシア様。……いえ、“器”様、とお呼びした方がよろしいでしょうか」
来た。
予想通りの言葉。
私は笑った。
悪役令嬢の笑み。唇だけで形を作り、目は冷やす。
「礼儀正しいのね。器相手に」
男は微かに肩を揺らした。笑ったのだろう。
「器は器です。壊れないように扱う。それだけです」
「壊れない、ね。ずいぶん自信がある」
男の視線が、私の膝の手袋へ落ちた。
そこに刻印があると知っている視線。
「お持ちですね。……鍵も」
私は首を傾げる。
「鍵? 何のことかしら」
とぼけるのは、私の唯一の武器だ。
知っていると認めれば、言葉が鎖になる。
男は歩み寄った。
近い。香の匂いがする。甘くて重い、祈祷部門の香。
「隠しても意味はありません。あなたの掌は、すでに王宮の地下と繋がっている。聖女も、同じく。……あなたが逃げても、引き戻される」
私は背筋の寒さを隠し、笑みを崩さない。
「脅しが下手ですわね。逃げても戻るなら、逃げる理由がなくなるでしょう」
「逃げる理由はあります」
男が静かに言う。
「自我です」
その言葉が、私の喉に刺さる。
「器に自我はいりません。あなたが苦しいのは、無駄な意思が残っているからだ。……手放せば楽になる」
私は椅子の肘掛けを握りしめた。
怒りで震えそうになるのを、指先で押さえ込む。
エドガーを見る。
ここにいない。扉の外にいるはず。――でも、この男は堂々と入ってきた。つまり、外の護衛をすり抜けたか、内側の鍵を持っている。
(聖堂派の権限。やっぱり、根が深い)
私は声を落とした。
「楽になる? あなたたちは人を楽にするために、人を縛るのね」
男は肯定も否定もせず、手を差し出した。
「手袋を。確認します」
「触らせませんわ」
私が言うと、兵が一歩前へ出た。
剣は抜かない。けれど圧は十分。
男が淡々と告げる。
「抵抗は無意味です。あなたを傷つけるつもりはない。……ただ、起動の準備を整えるだけ」
起動。
まただ。結局そこへ戻る。
私は息を吸い、ゆっくり立ち上がった。
「分かったわ。確認したいなら、確認すればいい」
男の目がわずかに細くなる。
私が折れたと思ったのだろう。
私は手袋を取った。
そして、男の手に渡すふりをして――床へ落とした。
すぐに足で踏む。
布の上からでも分かる。刻印が熱を持つ。
「何を……」
男が眉を動かした瞬間、私は笑みを深くした。
「あなた、私を器と言った。器には役割があるのよね? なら、器が割れたら困るでしょう」
私は踏みつけたまま、掌を見せた。
刻印が、赤く浮き上がっている。
「今ここで私が起動したらどうなるのかしら。聖女がいなくても、少しは反応するみたいだし」
男の目が、明確に揺れた。
想定外。聖女なしでの起動は不完全。制御できない危険がある。
「愚かな……!」
男が一歩引く。兵も半歩引いた。
――来た。
この一瞬の揺れを、待っていた。
扉の外から、鋭い音がした。
金属がぶつかる音。短い叫び。
次いで、扉が内側へ開いた。
エドガーが入ってくる。
剣は抜いていないが、目が鋭い。静かな怒りが部屋を満たす。
「許可なく入るな」
法衣の男は、すぐに表情を整えた。
「近衛殿。これは王宮の正式な祈祷部門の――」
「俺の任務は、令嬢の監視だ。つまり保護だ。……お前の権限はここでは通らない」
エドガーの声は低く、冷たい。
男が微笑んだ。
「保護? それは王太子殿下の言葉遊びでしょう。真実は一つ。令嬢は器。聖女は灯。王宮は――」
「黙れ」
エドガーが一歩踏み込んだ。
距離が縮まる。法衣の男が僅かに身構える。
私は、今だと思った。
踏んでいた手袋を拾い上げ、内側の刺繍を男に見せる。
「あなたたち、これを知ってるのね?」
男の目が一瞬だけそこへ向く。
それだけで十分だった。
エドガーが淡々と言う。
「その刺繍は王宮の古い祈祷服の縫い方だ。……誰が用意した」
法衣の男が沈黙する。
沈黙は答えだ。
エドガーが続ける。
「お前は今夜、何のために来た。起動の準備? それとも――口封じか」
法衣の男は小さく笑った。
「口封じなど不要です。器は喋っても良い。喋っても、誰も信じない。断罪された悪役令嬢の言葉など、どこにも届かない」
その言葉が、腹の底に落ちた。
確かにそうだ。だから断罪は便利なのだ。
私は笑った。
今度は仮面じゃない。怒りを燃料にした笑い。
「届くわ。だって私は今、王太子と取引してるもの」
男の表情が初めて崩れた。
僅かな驚き。苛立ち。
「……殿下が?」
エドガーが言い切る。
「今夜の来訪は記録される。お前がここに来たこと、器と呼んだこと、起動の準備を口にしたこと。全部だ」
法衣の男の目が細くなる。
「証拠など、消えますよ」
「消せない」
エドガーが言った。
「俺の背後には、王太子がいる」
沈黙が落ちる。
暖炉の火がぱち、と音を立てる。
法衣の男は、ゆっくりと頭を下げた。
「……今宵は失礼いたしました。近衛殿。器様。どうか、お健やかに」
皮肉の混じった挨拶。
男は兵を連れて退いた。
扉が閉まる。
その瞬間、膝の力が抜けそうになった。
私は椅子に座り込み、息を吐く。
笑っていた口元が、ようやく緩む。
「……怖かった」
つい、漏れた。
エドガーが私の前に立ち、短く言う。
「怖がっていい」
「悪役令嬢は、怖がったら負けなのに」
「悪役令嬢でも、人間だ」
その言葉が、胸にしみた。
私は手袋を握りしめた。
掌の刻印はまだ熱い。でも、暴走していない。
「……今夜の来訪者。あれが聖堂派の使い?」
「間違いない」
「証拠、取れた?」
エドガーは頷いた。
「取れた。だが、まだ足りない。……上がいる」
上。
礼服の男。公爵家筋。
王太子が“心当たりがある”と言った人物。
私は目を閉じ、息を整えた。
「次は、もっと露骨に来るわね」
「来る」
エドガーが言った。
「そして次は――俺を外そうとする」
私は顔を上げる。
「どうして」
「お前が俺を信じ始めたからだ」
その一言で、胸が熱くなる。
否定したかったのに、否定できない。
私は小さく笑った。
「困るの?」
「困る」
彼は迷いなく言った。
「お前が折れる」
また、困る。
その言葉が、もう怖くない。
私は手袋を握り直し、言った。
「なら、折れないように支えて。……今夜みたいに」
エドガーは頷いた。
「約束だ」
扉の外で、遠く足音が増えていく。
王宮が、動き始めている。
今夜は来訪者が“言葉”を落としていった。
次はきっと、“行動”で奪いに来る。
私は息を吸い、悪役令嬢の笑みを取り戻した。
――器と呼ぶなら、器らしく使われるふりをしてやる。
そして、その手で相手の指を切る。




