第11話 取引の朝、悪役令嬢は「保護」されるふりをする
夜明けの霧は薄く、王宮の庭は白く曇っていた。
石畳を踏む靴音が、やけに大きく響く。
王太子クラウスは私たちを先導し、人気のない回廊へ入った。
護衛の兵は二人。だが、彼らの歩幅は揃いすぎている。命令に従うだけの足音だ。
私は一歩だけ距離を取り、エドガーの背に近づいた。
彼の指先の熱はもう薄れている。けれど、触れた記憶が残っている。
「レティシア」
王太子が振り返らずに言った。
「これからお前は“保護”されたことにする。追放処分は維持だが、手続きに不備があったと発表する。表向きは、修道院へ送る準備のため王宮に留め置く形だ」
「留め置く、ね」
「監禁ではない」
言い方だけが整っている。
私は笑ってみせた。
「同じことですわ。言葉がきれいなだけ」
王太子は苦く息を吐く。
「お前の条件を飲んだ。口を塞がない、身柄を勝手に動かさない、セシルを道具にしない。……だから俺も条件を出す」
「どうぞ」
「勝手に騒ぐな。今の王宮は、壁に耳がある」
壁に耳。
確かに、地下で起きたことがすでに“報告が上がる”程度には漏れていた。
セシルが小さく身を縮める。
私は彼女の手を握り、握り返させた。祈りの代わりに、現実の手触りを。
回廊の突き当たりには、小さな控え室があった。
目立たない場所。豪華さはないが、扉の金具が新しい。最近、頻繁に使われている。
「ここだ。入れ」
王太子が扉を開ける。
中には机、椅子、地図棚、そして火の入った暖炉。――会議室だ。
王太子は兵に合図し、外に下がらせた。
扉が閉まる音がして、室内が静かになる。
「まず、確認する」
王太子が言う。
「お前は王宮地下で、儀式具を見た。起動しかけた。それを止めた。……どこまで確かなんだ」
私は息を吸った。
ここで誤魔化せば、取引の意味がなくなる。
「確かです。輪があって、封印の扉があって、聖女の光と私の刻印が揃うと反応する。『器』という言葉も、複数の人間が使いました」
王太子の目が細くなる。
「器、か」
その呟きが、彼にとって初耳ではないと教えた。
エドガーが静かに口を挟む。
「殿下。昨夜の刺客は王太子の命令ではありません。宗教側の護衛と、王宮内の私兵が混じっていました」
「……宗教」
王太子は眉間を押さえた。
「まさか、あいつらがそこまで」
私は聞き逃さなかった。
「あいつら、とは?」
王太子は私を見た。
一瞬だけ迷いが顔をよぎり、次に決意の色になる。
「聖堂派だ。王宮内で力を持つ祈祷部門と、その後ろ盾の貴族連合。表向きは『聖女を守る』と言っているが――内側は真逆だ」
セシルが息を呑んだ。
「守る、って……」
「守るためなら檻に入れてもいい、と考える連中だ」
王太子の声には嫌悪が混じっていた。
少なくとも彼は、聖堂派と同じ船ではない。
けれど――彼が“知っていた”のは確かだ。
「殿下」
私は言った。
「三年前の夜。あなたはどこにいたの」
王太子は一拍置いてから答えた。
「王宮にいた。だが地下ではない。……地下のことは、当時は知らなかった」
「本当に?」
「本当だ」
王太子は私の目を見て言った。
「ただ、翌日になって『聖女が現れた』と発表があった。その陰で消えた者がいることも知った。だが、証拠がなかった。俺が動けば“聖女を否定する者”にされる。王太子として致命傷になる」
政治的な言い訳。
理解できる理屈。けれど、納得は別だ。
私は口元だけで笑った。
「つまり、黙った」
「そうだ」
王太子は認めた。
「そして昨夜、お前が地下へ行ったと聞いて確信した。……あの夜の汚れが、まだ残っていると」
沈黙が落ちる。
暖炉の火だけが音を立てる。
私が沈黙を破った。
「取引は継続します。私が知っていること、持っているものを使って、聖堂派を炙り出す。でも条件は変わりません」
「口を塞がない、だな」
「ええ」
王太子は頷いた。
「では、まずお前たちの配置を決める。セシルは“回復のため”という名目で、王宮の客室棟に移す。護衛は俺の直轄だけにする。聖堂派は近づけない」
セシルが小さく首を振る。
「でも……わたし、ここにいると光が……」
「光は制御を学べ。できるな」
王太子の言葉は命令に近い。
セシルは怯み、私を見た。
私は頷く。
「やるしかないわ。あなたが“自分の光”を持てなければ、ずっと奪われ続ける」
セシルは唇を噛み、やがて小さく頷いた。
「……うん」
王太子は次に、私を見た。
「レティシアは“保護”の名目で、旧客室棟の一室に入れる。表向きは監視つきだ。だが監視役は――」
視線がエドガーへ向く。
「エドガー、お前だ」
私は目を細めた。
「監視役が本人だと、誰が納得しますの」
「納得させる必要はない。形式があればいい」
王太子は淡々と言った。
「それに、昨夜からお前に張りついている者がいる。護衛ではなく、監視のために。俺の目の届く監視役が必要だ」
その言葉で胸が冷える。
すでに“見られている”。王宮内に、別口の手が伸びている。
エドガーが低く言った。
「殿下。彼女を餌にするつもりですか」
「餌にする、というより」
王太子は視線を逸らさず答えた。
「餌にされる前に、こちらが罠に変える。……お前も分かっているだろう」
罠。
私たち自身が罠になる。第10話で私が口にした言葉が、そのまま現実になる。
私は息を吐いた。
「いいでしょう。私が“保護されているふり”をしてあげる」
王太子が頷き、机の引き出しから封蝋された紙束を出した。
「これは、最近の出入り記録だ。地下の封印に近い区域へ、誰がどれだけ出入りしたか。表向きは修繕。だが怪しい」
私は紙束を見た。
そこには、祈祷部門の印と、私兵隊の印が混じっている。
「聖堂派の中でも、主導している者がいる。名前はまだ掴めていない。だが今夜の動きで、尻尾を出すはずだ」
エドガーが言った。
「昨夜、礼服の男がいました。貴族です。王太子を軽んじる言い方をした」
王太子の目がわずかに鋭くなる。
「特徴は」
「整った顔。目が冷たい。年は二十代後半から三十前半。言葉遣いは丁寧だが、令嬢を“器”と呼んだ」
王太子は短く息を吐いた。
「……心当たりがある」
私は反射的に問う。
「誰」
王太子は即答しなかった。
迷いだ。名前を出せば、そこから戦争が始まる。
それでも彼は言った。
「公爵家筋の一人だ。俺の父王の時代から祈祷部門と近い。だが確証がない」
公爵家筋。
私の“公爵令嬢”という立場と、皮肉なくらい重なる。
私は思わず笑った。
「私を悪役に仕立てるには、ちょうどいい相手ね。……断罪は、便利」
王太子は視線を落とす。
「すまない、とは言わない。あれは政治だった」
「謝罪は不要ですわ。代わりに、結果を出して」
言い切ったとき、自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。
怖い。けれど、決めたからだ。
王太子は短く頷いた。
「今夜、聖堂派は動く。セシルの確保と、レティシアの“回収”。それを止めるのではなく、捕まえる。生きた証拠を取る」
エドガーが私を見る。
「お前は、耐えられるか」
その問いは、戦いの問いではなかった。
私が“器”扱いされる言葉を浴びても、折れずにいられるか。
私は彼を見返した。
「耐えるわ。悪役令嬢は、笑って憎まれる役ですもの」
言いながら、ふと気づく。
私は今、彼の前では“強がり”を隠さなくなっている。見抜かれるから。
エドガーは、私の手を一度だけ握った。
短く、強く。合図みたいに。
「……背中は離れるな」
私は小さく息を吐き、頷いた。
王太子が立ち上がる。
「決まりだ。二人を案内しろ。俺は表の手続きを動かす。……セシルには俺から説明する」
セシルが不安げに王太子を見上げる。
王太子は一瞬だけ表情を和らげた。
「怖いだろう。だが君は、君の光を君のものにしろ。誰かのためじゃない。君自身のために」
その言葉に、セシルの瞳が少しだけ落ち着く。
「……はい」
私たちは部屋を出た。
回廊を歩きながら、私はエドガーに小声で言った。
「あなた、さっき……私の手を」
「必要だった」
「合理性?」
「……それもある」
彼は視線を前に固定したまま、続けた。
「だが、お前が折れるのは困る」
私は一瞬、言葉を失った。
困る、という言葉が今はやけに近い。
「私が折れたら、あなたの計画が崩れるから?」
「それだけじゃない」
短く言い切って、彼は歩幅を少しだけ落とした。
私に合わせるように。
私は笑って誤魔化すのをやめた。
代わりに、息を吐く。
「……じゃあ、あなたも折れないで。今夜、私が罠になるなら、あなたは私の支えよ」
エドガーは返事をしなかった。
けれど、歩く速度が一定になった。私が置いていかれない速度。
旧客室棟の前に着く。
扉は重く、装飾が古い。ここは、華やかな王宮の外側だ。忘れられた場所。
エドガーが鍵を開け、私を中へ通した。
「ここが、お前の“保護”室だ」
「牢屋みたい」
「牢屋の方が安全なときもある」
私は室内を見回した。
窓は小さく、扉は厚い。だが家具は整っている。最低限の生活はできる。
私は椅子に腰を下ろし、手袋を膝に置いた。
掌の刻印が、静かに疼く。
今夜、聖堂派は動く。
私はまた“器”と呼ばれるだろう。
けれど、今度は違う。
私は誰かの物語の悪役ではなく、私自身の選択で立っている。
エドガーが扉の内側に立ち、静かに言った。
「今夜、何があっても。俺を見ろ」
「命令?」
「約束だ」
私は頷いた。
「……約束しますわ。私が“鍵”なら、あなたは“錠前”でいて」
エドガーの目がわずかに揺れた。
そして彼は、ほんの少しだけ口元を緩める。
「鍵を守るのは、錠前の役目じゃない。……番人だ」
番人。
その言葉が、怖いくらい頼もしい。
扉が閉まり、外の足音が遠のく。
私は深く息を吸った。
今夜、王宮は動く。
私が“保護されるふり”をしている間に、誰が本当の敵なのか――姿を現す。




